理想の地は「地獄」だった 大粛清時代・ソ連へ渡ってしまった男女の悲劇的な真相

1月16日(木)17時0分 文春オンライン

なぜ昭和のトップスター・岡田嘉子は恋人と「ソ連への亡命」を決断したのか から続く


戦後初めて伝えられた嘉子の消息


 戦後、嘉子がモスクワの放送局でアナウンサー兼プロデューサーのような仕事をしていることが伝わっていたが、消息が正確に報じられたのは1952年。日本人として戦後初めてモスクワを訪問した高良とみ参院議員が面会。同年7月2日付朝日新聞朝刊には、高良議員らと一緒に写った写真とともに「結婚した岡田嘉子」の見出しで記事が掲載されている。



戦後初めて伝えられた嘉子の消息と写真(東京朝日新聞)


 その後、ソ連を訪問するかつての知人らと面会していたが、ソ連での結婚相手でやはり戦前、映画スターとして活躍した滝口新太郎が死去。その納骨のために34年ぶりに帰国したのは1972年11月だった。それから何回か両国を往復。その間、山田洋次監督の松竹映画「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」や舞台にも出演した。


「その知らせはあまりにも最悪でした」


「悔いなき命を」によれば、ソ連の国境警備隊詰所でのことを「三日ほどたったのち、私だけがどこかよそへ連れて行かれることになったときは、さすがの私も杉本にすがりついて泣きました」と書いている。杉本は「すぐにまた逢えるからね」と言ったが、「それっきり私たちは二度と再び相逢うことがなかったのです」(同書)。



 独房のような所に「三カ所ぐらいはあちらこちらへ移されましたが、それがどこだったかは、ロシア語が分からないのだから知りようがありません」。そしてこう書いている。「こんな生活が二年近くもたったころ、突然呼び出されました。その知らせはあまりにも最悪でした。風邪のあと肺炎になって死んだというのです。死に目にも遭えなかった!」。


 そして中央アジアの町で数年暮らし、1947年にモスクワに出たとしている。日本とソ連を行き来する間に何度もインタビューを受け、越境後のことを聞かれたが、詳しく話すことはなかった。



杉本はスパイ容疑で処刑されていた


 1989年4月15日、モスクワ発時事通信電のショッキングなニュースが新聞夕刊に載った。「杉本良吉氏 実は銃殺 スパイ容疑、粛清の犠牲」(北海道新聞見出し)。リャボフというモスクワの現職検事補が、国家保安委員会(KGB)の文書に「杉本が銃殺された」という記述があるのを発見したことが現地の週刊誌に掲載されたという内容だった。


 記事によれば、2人は越境後、国境侵犯の容疑で内務人民委員部(NKVD=KGBの前身)の取り調べを受け、杉本は拷問の結果、日本の陸軍参謀本部から破壊活動のため派遣されたスパイと虚偽の自白を強制された。杉本は裁判手続きなしに処刑され、その自白からメイエルホリドにも嫌疑がかかり、彼も処刑されたという。


「女優 岡田嘉子」によれば、リャボフは嘉子の家を訪れて、その事実を伝えた。「その説明を聞いた嘉子は強烈な印象を受けたはずだが、それを表面には出さず、意外なほど冷静に聞き、リャボフの質問に対してロシア語でいちいち答えた。そして最後に言った。『杉本は病死したとばかり思っていた。あの時、死亡証明書ももらっている。死因は肺炎とあった。死亡の日付も違う』」。


 時事の記事に添えられた嘉子の談話も「もっと早く真実を教えてほしかった」となっていた。



「杉本は私を助けるために罪を被った」


 1992年2月、嘉子はモスクワで老衰のため89年の波乱の生涯を閉じた。しかし、物語はそれで終わらなかった。4カ月後の6月、再び時事通信が、越境から2年後の1940年1月に嘉子が検察局と内務人民委員部宛てに嘆願書を出していたというニュースを配信した。



 それによれば、越境直後、「5日間、夜も昼も眠りを与えられない取り調べ」を受けて「精神状態に異常」を来たし、「スパイと言えばソビエト人とするが、言わなければ日本に帰す」と脅されて自白書を書いた。そのため、杉本に対する拷問は過酷を極め、「隣室で苦しさのあまり発する杉本の悲鳴が私の胸を刺した。取り返しのつかない後悔の念に死を願ったが、監視が厳しく許されなかった」とつづっていた。「杉本は私を助けるために罪を被った」とも。


 嘉子はハバロフスクからモスクワに送られ、1939年10月、軍事法廷でスパイ罪で10年の刑を受けた。杉本の処刑はその1週間前だったという。嘆願書はモスクワから約800キロ離れた強制収容所(ラーゲリ)で書かれ、「スパイの汚名は死ぬほどつらい」と再審理を直訴していたが、願いはかなわなかった。


 記事は「岡田さんの自白がもとで杉本氏も自らをスパイと認め、銃殺につながったことが判明した。軍国主義の日本を脱出し、あこがれの地ソ連に越境した二人は、当時吹き荒れたスターリン粛清の直接の犠牲者となった」としている。


 自らの自白が原因だったという事実は嘉子に重くのしかかり、生涯そのことを自分の口から明らかにすることができなかったと思われる。自伝「悔いなき命を」に書いた「中央アジアの町に住んだ」という話はほかのところでも述べていたが、あるいはKGBから言い含められた「物語」だったのか、真っ赤なウソだった。



2人が犠牲となった「スターリンの大粛清」とは


 1930年代を中心にソ連で起きた大粛清は、規模や原因など、全容はいまも解明されていない。横手慎二「スターリン」も「大粛清の全てを単一の原因で説明することが不可能なことは明らかである」としている。農業集団化などの経済政策や赤軍の運営などの軍事をめぐって、最高権力者スターリンを取り巻く上層部で権力争いが起きたことは間違いないが、それだけではなかった。



「現在では、1930年代後半の大弾圧は、こうした政治や軍事の指導層だけではなく、より広い階層の人々にまで及んだことが確認されているのである」(同書)。経済部門の管理者や女性、「満州」に関連した人々……。ありとあらゆる人が理由もはっきりしないまま罪を問われ、死刑を含む粛清の対象になった。「スターリン」によれば、1936年から38年までの間に政治的な理由で逮捕された者は134万人に達し、そのうちの68万人余りが処刑されたという。これよりはるかに多い人数を挙げる人もいる。


 こうした大粛清はスターリンの意図とは別になされたものではなかったかという議論もあるが、「大粛清の責任はスターリンにはなかったとする結論まで引き出すのはバランスを失しているように思われる」と同書は指摘している。


「事件がおかしい」2人の越境に関心を示していたゾルゲ


 興味深いのは、嘉子と杉本の越境、亡命にあのゾルゲが関心を抱いていたことだ。


 ゾルゲはコミンテルンのスパイでドイツの新聞記者として日本で活動。1941年10月に逮捕され、1944年11月に死刑に処された。グループの1人で画家の宮城与徳(のち死刑)の警察訊問調書には、彼がゾルゲに報告した情報が詳細に記録されている。その中に「昭和十三年一月 杉本良吉、岡田嘉子の北樺太越境 両人の経緯及人物評」「ゾルゲの依頼により私の人物評に私見を報告」という記載がある。宮城は1942年3月の検事の取り調べにも2人の件についてこう答えている。



「此の問題はゾルゲから『事件がおかしいからスパイとして行たのではないか』と調査を依頼され調べて見ましたが、両人とも良い人で芝居を現実に行た丈のことであることが判りました」(検事訊問調書。以上、「現代史資料」)。ゾルゲからの報告は嘉子と杉本の運命に影響を及ぼさなかったのだろうか。



歴史から消えた「コミンテルンとの連絡」


 いまも残る謎の1つは、越境・亡命にどれだけ裏付けがあったかだろう。杉本の亡命は、同時に日本共産党に入党した宮本顕治・元委員長の指示だったとする見方がある。宮本元委員長自身、著書「回想の人びと」でこう書いている。


「杉本(良吉)は演劇運動の有能な演出家でありました」「こういう人たちを残しておきたい。それにはソ連にやっておこうと考えたわけであります」「1933年になりますと、弾圧は一層厳しくなって、コミンテルンとの連絡も容易でないということで、併せてコミンテルンとの連絡ということを考えたわけであります」「マンダートといって信任状、これは日本共産党員であると証明する文書、これを彼らに渡しました」。



 正史である「日本共産党の五十年」にもこう書かれている。「コミンテルンとの連絡のために1938年1月、樺太の国境をこえてソ連にはいった杉本良吉も、逮捕されてその任を果たせないままソ連で死亡した」。


 その後の「日本共産党の六十年」「日本共産党の六十五年」も同様の記述だったが、「日本共産党の七十年」では「コミンテルンとの連絡」が消え、「日本共産党の八十年」になると、「杉本良吉、岡田嘉子……」と、他の亡命者と十把ひとからげの書き方になっている。この間に杉本の銃殺と嘉子の嘆願書という新事実が明るみに出ており、そうした影響を考慮したのだろうか。


この時代の越境は「地獄の中に飛び込んだものであった」


 加藤哲郎「モスクワで粛清された日本人」によれば、旧制東京府立一中(現日比谷高校)で杉本の2年先輩だった新劇界の大物・千田是也は著者のインタビューにこう答えている。


「気の毒なのは杉本良吉、岡田嘉子の1938年1月のソ連行きだった。自分たち新築地劇団(築地小劇場の流れを汲む別の劇団)のグループは、土方与志、佐野碩が追放になったのを、37年9月ごろに知っていた」「新協劇団の杉本はそれを知らずに、ソ連は天国だ、行けば土方・佐野と会えるだろう、メイエルホリドのもとで学べるだろうと信じてソ連に入ってしまった」。



 同書はその時代の状況については次のように述べている。


「当時のソ連は、日本人であれば誰でも『偽装スパイ』を疑われるスターリン粛清のさなかであった。既に1936年11月に伊藤政之助、37年中に須藤政尾、前島武夫、ヤマサキ・キヨシ、国崎定洞、山本懸蔵らが逮捕されていた」「杉本良吉・岡田嘉子の越境は、その地獄の中に飛び込んだものであった」「二人の国境を越える夢は実現されたが、それは、敷居の極度に高い、別の国境に囲い込まれたものにすぎなかった。夢にまで見た『社会主義の祖国』への入国は、逮捕・拷問と銃殺・強制収容所によって迎えられた」


 この事件にまだ謎は残っている。ただ、本人たちの情報収集や考え方に問題があったとは言えても、理想と思っていた国が実は地獄の地として、信じてきた人間を裏切り、死にも追いやる無残さは、死ぬまで真実を明らかにできなかった無念と重なって、80年余りたったいまも私たちの胸を打つ。



【参考文献】

▽キネマ旬報増刊「日本映画俳優全集 女優編」 キネマ旬報社 1980年

▽岡田嘉子「悔いなき命を」 廣済堂出版 1973年

▽平澤是曠「越境—岡田嘉子・杉本良吉のダスビターニャ(さようなら)」 北海道新聞社 2000年

▽加田顕治「岡田嘉子・越境事件の真相」 皇文社 1938年

▽升本喜年「女優 岡田嘉子」 文藝春秋 1993年

▽横手慎二「スターリン」 中公新書 2014年

▽「現代史資料(3)ゾルゲ事件(三)」(1962年)、「同(24)ゾルゲ事件(四)」(1971年)=いずれもみすず書房 

▽宮本顕治「回想の人びと」 新日本出版社 1985年

▽日本共産党中央委員会「日本共産党の五十年」(1972年)、「日本共産党の六十年」(1982年)、「日本共産党の六十五年」(1988年)、「日本共産党の七十年」(1994年)、「日本共産党の八十年」(2003年)=いずれも日本共産党中央委員会出版局

▽加藤哲郎「モスクワで粛清された日本人」 青木書店 1994年



(小池 新)

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