雅子さまが目をじっと見ながら……なぜ天皇と皇后は地方、被災地を訪れるのか

1月17日(金)6時0分 文春オンライン

 1月16日、令和初めての歌会始の儀が開かれ、17年ぶりに出席された皇后雅子さまは「災ひより立ち上がらむとする人に若きらの力希望もたらす」と御歌を詠まれた。題は「望」だった。SNS時代にあって、天皇と皇后の旅は今後どのような意味を持ちうるのか。象徴天皇制を研究する名古屋大学大学院人文学研究科准教授の河西秀哉氏が考察する。



2019年12月、台風19号による被災者と言葉を交わされる天皇皇后両陛下(福島県本宮市) ©時事通信社



全国各地を精力的に訪れる天皇皇后


 天皇皇后は即位後、全国各地を旅している。6月に全国植樹祭に出席するため愛知県を訪問し、9月には豊かな海づくり大会に出席するために秋田県を、国民文化祭に出席するために新潟県を、国民体育大会に出席するために茨城県を訪問、11月には即位の礼に関連して三重県や奈良県・京都府を訪問、そして12月には台風第19号などによる被災地を見舞うため宮城県と福島県を訪問するなど、全国各地を精力的に訪れている。



 天皇は古代以来、旅をする存在だった。『日本書紀』などにも天皇が旅をすることに関する記述は出てくる。古代の天皇は居住する近畿を中心としながら、東海地方や九州地方まで旅をしていた。それは、君主としての自分の威光を人々に知らしめるために実施されたものだった。天皇は各地を訪問し、自らの権威を人々に見せつけた。天皇は旅することで、自分の支配地域を人々に認識させたとも言える。天皇は訪問先の状況・人々の生活状況などを観察(国見)し、地域のリーダー層を服属させた。このように古代の天皇の旅は、その支配を強化するために行われたのである。ところが、次第に天皇の威光を各地に見せつけなくてもよいくらいに、支配が貫徹していき、天皇は平安京周辺しか出かけなくなる(原武史「巡幸」原武史・吉田裕編『 岩波 天皇・皇室辞典 』岩波書店、2005年)。


 その後、武士の時代となり天皇の権威は低下していくと、天皇は旅する力を失ってしまう。江戸幕府は天皇の権限を徹底的に弱める政策を採り、力を失った天皇は御所から一歩も外に出歩かなくなる。こうして天皇は江戸時代末までの約200年間、旅をしなくなった。


 ところが幕末の動乱によって転機が訪れる。権威を回復し始めていた天皇は、幕末の1863(文久3)年に御所の外に出たのである。こうして天皇が再び旅することになる。そして江戸幕府が倒れた後、天皇を頂点とした国家として出発することになった近代日本は、再び天皇の威光を人々に見せつける必要が出、天皇は京都と東京を往復する。こうして、沿道の人々は旅する天皇の姿やその行列を見て、その威光を知ることになった。その後、東京に移った天皇は1872(明治5)年から85年にかけて全国を旅し、各地の学校や県庁、軍事施設や神社などを訪問した。まさに古代の国見と同じスタイルと言える。人々は旅する天皇の姿を見、その威光が全国各地に広がっていく(佐々木克『 日本近代の出発 』集英社、1992年)。その後も、近代の天皇はたびたび旅をし、人々にその威光を知らしめた(原武史『 可視化された帝国 』みすず書房、2001年)。



敗戦 不可欠だった天皇制の「民主化」


 ところが、再び転機が訪れる。1945(昭和20)年にアジア・太平洋戦争に敗戦した日本は、世界からの厳しい戦争責任追及を受けることになり、天皇制をも危ぶまれる事態に陥った。しかし占領軍(GHQ)は、円滑な占領政策を進めるため、天皇制を廃することまでは考えていなかった。しかし、責任追及の声に応えるためにも、天皇制の何らかの改革=「民主化」とそのアピールは不可欠であった。そこで考え出された対応の一つが「人間宣言」で、天皇制は変わったと内外に示そうとしたのである(河西秀哉『 天皇制と民主主義の昭和史 』人文書院、2018年)。



 同じころ、昭和天皇は自身が旅することで、戦争で傷ついた人々が慰められる、励まされるだろうと考えていた。この天皇の希望をかなえるべく、宮内省はGHQや政府に対して、その実施の説得を行っていく。実はGHQ側でも、天皇の旅が考慮されていた。GHQは敗戦後の日本国内が混乱に陥っている状況を見、天皇の権威によってそれを回復させようと考えたのである。つまりGHQも天皇には未だに権威があることを認め、天皇の力によって人々が励まされ、混乱状況も解消するだろうと見ていた。一方で、天皇と人々が触れ合うことで「民主化」をアピールできるとも考えていた。つまりGHQは、天皇の旅には一見すると矛盾すると思われる、「権威」(国見の延長線上だろうか)と「民主化」(いわゆる「平成流」の源流なのかもしれない)という二つの目的があると考えていたのである。そして天皇の旅は、1946年2月に神奈川県から開始され、天皇は戦災復興状況の視察と戦災者激励、引き揚げ者援護状況の視察を主な目的として、各場所を視察し、人々と会話を交わした。このように天皇の旅は、人々への激励と慰問が目的となっていた。その様子は大きく報道され、天皇との距離が近づいたこと、天皇制が「民主化」したことを人々に実感させたのではないか。


昭和天皇が、戦後初めて稚内を訪れた


 この後、昭和天皇は占領期、精力的に各地へ出かけ、人々への激励と慰問を続けていく。そして講和独立後も昭和天皇は旅を続けた。それは各地を視察する意味があったように思われる。


 たとえば、昭和天皇と香淳皇后は1968年8月から9月にかけて、北海道を訪問している。天皇皇后は札幌で北海道百年記念祝典に出席した後、旭川を経由して稚内へと入った。昭和天皇はここで敗戦後初めて、北海道北部を訪問することになる。稚内では日本の「北端」を視察し、天皇皇后を受け入れた稚内の人々は自身がそうした最北端の地域にいることの自己意識を強化していった。



 その意味では、この天皇の稚内訪問は国見を引き継いだものとも言えるだろうか。象徴天皇となり、天皇は人々に気さくに声をかけるようになった。それはたしかに、天皇が人々に近づいてきたことを目に見える形で示す空間となったかもしれない。一方で、古代以来の天皇の威光もそこには存在していたのである。



平成の天皇 即位直後、退位直前に北海道へ


 これは平成でも継続していたように思われる。平成の天皇と皇后は即位直後の1989年9月、第44回国民体育大会秋季大会開会式に出席するため、北海道を訪問することになった。北海道は即位して3つ目の地方訪問で、東京からまず稚内へ入り、翌日に稚内から飛行機で千歳へ向かい札幌に到着、国民体育大会開会式に出席、競技を観戦しており、訪問場所は稚内と札幌の周辺に限られている。国民体育大会開会式に出席するために札幌を訪問する必要のあった天皇皇后は、その前にわざわざ稚内へ立ち寄ったのである。稚内では、昭和天皇が訪問時に詠んだ「御製」を刻んだ記念碑を訪れた。それは、父親から天皇の位を引き継いだ平成の天皇が、この国をも引き継いだことを意味しているのではないか(河西秀哉・瀬畑源・森暢平編著『 〈地域〉から見える天皇制 』吉田書店、2019年)。



 平成の天皇と皇后の旅は、「国民と苦楽を共にする」という精神から、被災地訪問を数多くしており、被災者との会話に代表されるその風景はいわゆる「平成流」とも称される。一方で、離島への訪問も数多く行っている。平成の天皇は退位を控えた2018年8月、最後の離島訪問として、北海道北部の利尻島を訪問している。このときの訪問は、札幌で開催される北海道150年記念式典に出席することが主な目的で、利尻島の訪問は空路で日帰りであった。それには、天皇の最後の国見としての意味があったのではないだろうか。


雅子皇后が被災者の目をじっと見ながら


 令和の天皇と皇后の旅は、今のところは、即位に伴うもの、四大行幸啓と呼ばれるもの、そして被災地訪問のみである。被災地訪問では、雅子皇后が被災者の目をじっと見ながら話を聞く場面が印象に残った。いわゆる「平成流」を引き継ぐ視点であろう。今後、天皇の旅はどのように変化していくのだろうか。





(河西 秀哉)

文春オンライン

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