加藤千洋の「天安門クロニクル」(16) ある米国人ジャーナリストと柴玲(下)ある発言が波紋を呼んだ

3月16日(土)11時45分 J-CASTニュース

インタビューを中国語で起こした記録。北京飯店のロゴ入り用紙を使っている

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インタビューで柴玲は自己紹介から始めた。

私は今年23歳。とても不思議ですが誕生日は胡耀邦が亡くなった日(4月15日)です。出身は山東(省)で、83年に北京大学に入学して心理学を学び、87年から北京師範大学大学院で児童心理を研究しています。


——運動との関わりについては、こう答えた。


私は4月22日(胡耀邦追悼大会開催)に立ち上がりました。李鵬(首相)に会見に出てくるよう、追悼大会に参加させるよう求めましたが回答を引き延ばすだけ。憤慨した学生たちが人民大会堂に突入しようとした時に、代表3人が(人民大会堂の階段に)跪き(恥ずべき政府に)懇請する事件が起きた。私はもう堪えられなくなり、立ち上がりました。......夫の封従徳(北京大院生)も血書を書こうとしたが、書き終わる前に血が出なくなってしまい。周りの学生は皆泣いていました。


それから北京大学の(学生自主組織の)準備委員会に参加し、若干の仕事をやりました。多くの仲間は熱い血を持っていましたが、個人的な目的を持つ者や、虚栄心から動く者もいました。


——運動中の思いを様々に語り、家族のことにも触れた。


一番つらいのは父母に申し訳ないという気持ちです。父は5月1日に北京にやってきた。(88年の封従徳との)結婚をめぐり、感情的にもつれ、ケンカもしていたので、私のことを気にかけていたと思う。我々が北京大学の組織で運動に参加することが心配で、家に帰るべきだと言いました。最後に、連絡を絶やすなというので、3日ごとに電報で知らせる、万一電報が届かなくなっても北京には来てくれるなと伝え、泣く泣く別れました。医科大学で学び、医師をしていた父は心血を注いで私たちを育ててくれたのに......。


なぜ柴玲は北京飯店に現れたのか?


以上は私の手元に残っていたインタビューを文字起こしした記録のコピーによった。それは北京飯店の客室に備えつけ用紙を使っているので、多分フィリップから入手したものと思うが、どうも記憶がはっきりしない。


6月4日未明、眼前で装甲車が炎上している天安門楼閣の下でフィリップと遭遇した。その時、彼は未現像のフィルム3本を私の手に握らせた。「自分は使わない。使ってくれ」と託されたと記憶するのだが、それをフィリップにメールで尋ねると、全く覚えていないという。やはり30年という時が流れたのだ。私も彼も記憶はまだら模様だ。


何点か補足する必要があろう。▽なぜ柴玲がリスクを冒して北京飯店に訪ねてきたのか。▽ビデオテープは放送されたのか、その後どう扱われたのか。▽インタビュー後の柴玲の行方へは——などだ。


実は2日前の26日にもフィリップは柴玲と出会っていた。BBCクルーと柴玲を探して広場の指揮部をめざした。学生の検問が厳しかったが、幸いにも顔見知りのGがいて、しかも「柴玲が話したがっている」との朗報をもたらした。


現れた柴玲とディレクターが英語で会話しようとしたが、柴玲は英語が不得意なのか、話したくなかったのか、うまくかみ合わない(フィリップによるとBBCは英語取材優先だったという)。ディレクターはインタビューをあきらめ、カメラマンとその場を離れてしまった。


当惑した表情の柴玲にフィリップが中国語で語りかけ、2人が同じ北京師範大に所属していることなどを話題にするうちに、彼女もフィリップを相手にしてもいいと思ったのか、「また別の所で会おう」ということになった。その日は時間が無かったのだ。連絡先を問われ北京飯店の部屋番号を伝えた——そんな経緯があったという。


その日の短い会話で、柴玲は小声でこんな話をしたという。


運動は危険なターニングポイントにある。北京の学生は疲れ、内部矛盾もある。運動をつぶそうと言う陰謀がある。誰を信じていいかわからないの。


「罠かもしれないけど」と断った上だが、あるリーダーに外国の大使館が亡命を受け入れると持ちかけている、ともいった。広場のリーダーとして柴玲が強いプレッシャーを感じていた、とフィリップは回想する。


28日は、フィリップは前日にBBCから契約をいったん解除(後に再び契約)されてフリーだった。それまでは北京師範大学の宿舎を拠点にしていたが、10日ほど前からポケットマネーで北京飯店に部屋をとっていた。


こんな事情があったので、「天安門のジャンヌダルク」の貴重なインタビューはBBCではなく、米国のABCテレビが独占放送することになった。5月20日の戒厳令後、北京からの外国メディアの衛星中継はできなくなっていたので、テープは国際便の乗客に託して持ち出し、放送にこぎつけた。


それから6年後の1995年、フィリップによる柴玲インタビューに再び注目されたことがある。


映画『天安門』への反発


米国のドキュメンタリー映画『天安門』(原題は「THE GATE OF HEAVENLY PEACE」)が引用した柴玲の次のような発言が、ニューヨーク・タイムス紙の報道などをきっかけに、様々な反響を呼んだのだ。


学生はいつも"次は何をする?"と言います。私は悲しくなります。目指すは"流血"なんて誰がいえます? 政府を追いつめて、人民を虐殺させる。広場が血に染まって初めて民衆は目覚める。それで初めて一つになれる。これを学生にどう説明するんです?


——と語った後に、「あなたは広場に残りたい?」と問われ、


いいえ。私は司令官でブラックリストに載っているから。政府に殺されたくありません。私は生きたい。人は私を自己本位だと言うかもしれない。でも誰かが私に続いてくれる。民主化運動は一人ではできません。(1997年5月、アップリンク発行の映画『天安門』解説書から引用)

『天安門』はカーマ・ヒントンと夫のリチャード・ゴードンが長時間かけて資料を収集し、共同制作した。米国に渡った後、ボストンに移り住んでいた柴玲にヒントンは「当時の状況、あなたたちの感じていたプレッシャーについて、体験を語ってほしい」などと申し込んだが、拒否された。彼女のインタビューなしに映画はできない。やむなくフィリップによる長時間インタビューを使うことにしたという(上記解説書)。


若干補足すると、ヒントンの父親ウイリアム・ヒントンは建国から間もない中国で農業機械化の指導に携わり、『翻身 ある中国農村の革命の記録』(日本語版は1971年、平凡社刊)の著者として知られる。カーマは20歳で米国に帰国するまで中国で教育を受けた。
公開された映画『天安門』に不満だった柴玲は、こう皮肉った。


(私の)片言隻句を取り上げただけ。共産党の特権で育ったカーマだから、党の陰謀に沿った映画を作ったんでしょう(『AERA』1997年6月16日号、28頁)


さて最後にインタビュー後の柴玲の行動についてだが、結論として私は把握できていない。


フィリップには「なるべく早い北京駅発の列車で地方へ行く」と話し、インタビューの場所を提供してくれた家族からバックパックや衣類の提供を受けた。でも心境の変化があったのか列車には乗らなかった。日が暮れてから北京大学へ行き、深夜には天安門広場に戻ったようだ。途中、大学まではフィリップも同行し、確認している。(次回は「ニューヨークの集会」上)

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