「ノーベル賞がつらかった」田中耕一が初めて明かした16年間の“苦闘”

3月26日(火)11時0分 文春オンライン

 あと1ヶ月ほどで、「平成」が幕を閉じる。平成とは私たちにとってどのような時代だったのか、さまざまな事件・出来事から激動の30年を見つめる「NHKスペシャル」のシリーズ「平成史スクープドキュメント」。第5回は、平成を彩ったノーベル賞に焦点を当てた。


 平成に入って、自然科学系ノーベル賞を受賞したのは18人(アメリカ国籍取得者含む)。その中でも世界を驚かせたのが、2002年(平成14年)にノーベル化学賞を受賞した田中耕一だ。いち民間企業のエンジニア、修士号すら持たない研究者に化学賞が贈られたのは、世界で初めてのことだった。バブル崩壊の後遺症に苦しみ、「失われた20年」と言われた時代。中年サラリーマンの快挙に、日本中が沸いた。



ノーベル化学賞受賞の記者会見で、妻・裕子さんからの電話に笑顔で応じる田中氏 ©共同通信社


 ところが、時代の寵児となった田中は、こつ然とテレビの画面から姿を消す。その後、16年間、メディアを遠ざけ続けてきた。再び表舞台に登場したのは去年。発症30年前にアルツハイマー病の診断につながる技術を開発し、科学誌ネイチャーに掲載されたのだ。この間の田中の知られざる苦闘。これこそが番組の命題である「平成のスクープ」となった。


ノーベル賞は苦痛でしかたなかった


 実は田中は、この16年間、サインを求められても、一度として応じることがなかった。人前では握手すら断っていた。ノーベルメダルは、自宅の押し入れにしまったまま。田中は科学界、最高の栄誉が与えられたことが苦痛でしかたなかったという。


「ノーベル賞に値することをやっていたとは、私自身思っていなかった。周りの人もそう思っていた。受賞する人たちの功績を見ると、最初に発見をしたこと、かつそれを育てていったこと、ペアでやっている方が多い。私はあくまで発見しただけで、何か大きなことを成し遂げた気持ちになれなかった」



 田中が自分の業績に自信が持てなかったのは、“世界的な発見”に至る過程にあった。大学では電気工学の専門だった田中だが、島津製作所に入社後、化学の研究を命じられる。課題はレーザーを用いてタンパク質を分析する方法の開発だった。


 人体の15%を占め、生命活動に重要な役割をするタンパク質。さまざまな病気の解明の鍵を握ると思われていた。だが、いくつものアミノ酸が連なり、複雑な構造を持つタンパク質を壊さずに分析することには、世界で誰も成功していなかった。



「自分は何かを成し遂げたのか」と自問


 田中はレーザーを当ててもタンパク質が壊れない、「緩衝材」の作成に取りかかった。入社2年目の冬、田中は、試薬にグリセリンを誤って混ぜてしまう。以前の実験で、グリセリン単体では緩衝材として効果がないことを確認していたが、それでも敢えて実験してみることにした。すると、タンパク質の反応が現れたのだ。このとき、田中は25歳だった。


 それからおよそ20年。突如、ノーベル賞授賞の知らせが届いた。田中の人生は一夜にして変わった。一歩外へ出れば人々に囲まれ、「先生」と呼ばれるようになった。受賞当時、田中はまだ43歳。「次はどんな大発見をするのか」と、周囲の期待は膨れあがっていった。一方、学術界の一部からは「偶然、発見をしただけだ」「研究を発展させた科学者のほうが受賞にふさわしい」といった批判的な声が聞こえてきた。「自分は本当に何かを成し遂げたのか」。「自分は受賞に値する科学者なのか」。田中は自問自答を続けた。



血液一滴で病気を診断する方法を開発する


 メディアから距離をとるようになった田中。自分を見失いそうになるなかで、ある目標を立てた。タンパク質を分析する技術を発展させ、「血液一滴で病気を診断する方法を開発する」というものだった。幼いころ病気で母を亡くした田中は、「人々の役に立つ研究をしたい」という入社当時の志に、立ち返ろうと考えたのだ。


 田中は社長らに決意を語って説得し、年間1億円の予算と研究環境を得た。しかし、道のりは困難を極めた。例えば、ガンなど様々な病気に関連する「糖鎖」の構造は、1500万通り以上の組み合わせがあるとされる。思うように研究は進まなかった。責任を果たせない不甲斐なさを抱えながら、苦悶する日々が7年、続いた。


 そんな状況を打開する転機が訪れる。2009年(平成21年)、世界最先端の研究に資金を補助する国のプログラムに選ばれ、5年で35億円という多額の研究資金を得ることができたのだ。田中は若手スタッフを雇うなどして、研究を一気に加速させた。


 もっとも力を入れたのが、認知症の約7割を占めるアルツハイマー病。アミロイドβというタンパク質が脳内に蓄積し、神経細胞を傷つけることで病気が発症するとされている。蓄積が始まるのは発症30年前。血液中に微量しか含まれないアミロイドβだが、血液検査で捉えることができれば、早期発見や治療薬の開発に役立てられるのではと考えた。



実験結果が医学界の常識を覆すことになった


 研究開始から2年。ひとりの若手スタッフがアミロイドβの検出に成功する。田中は天にも昇る心地で、この成果を認知症の専門家に持ち込んだ。ところが、意外にも反応は冷ややかだった。血液中のアミロイドβは、その日の体調などにより量が増減する。そのため、アミロイドβが検出できても、病気を診断することはできないというのが“医学界の常識”だったからだ。実は医療の専門家でない田中は、このことをまったく知らず、研究を進めていたのだった。


 しかし、田中が示した別の実験結果が医学界の常識を覆すことになった。それはアミロイドβとはわずかに構造が異なる「未知のタンパク質」のデータ。学界では、理論上、存在が否定されていたが、今回の実験の過程で偶然、田中たちは検出に成功していた。



「偶然は、強い意志がもたらす必然」


 認知症研究の第一人者である柳澤勝彦(国立長寿医療研究センター)。当初「正直、何が新しいのか分からなかった」と言うが、田中たちと議論を重ねるうち、この未知のタンパク質が早期診断の鍵を握っているのではないかと考えるようになった。そして、柳澤は脳内で病気の異変が起きている人と、起きていない人の血液を分析することにした。すると、驚きの結果が出た。


 異変が起きていない人の血液では、アミロイドβは未知のタンパク質より多かった。かたや、異変が起きている人では、その逆。アミロイドβは未知のタンパク質より少なかった。ふたつのタンパク質の比率に注目することにより、認知症を発症するリスクを診断できる可能性があることを突き止めた。


 若き日、田中は化学薬品を誤って混ぜたことで、タンパク質の分析方法を発見。ノーベル賞を受賞した。そして今回、田中は「常識」を知らないまま研究に挑み、さらに副産物として未知のタンパク質を発見したことで、認知症の早期診断に扉を開いた。2度の発見はラッキーパンチだったのだろうか。私はそうは思わない。常識を打ち破る科学的発見は、偶然から導かれることが少なくない。だが、その偶然を生み出すには、失敗を恐れずにチャレンジし続ける、不断の努力で裏打ちされているものだ。「偶然は、強い意志がもたらす必然である」。



インタビューでは終始謙遜していたが……


 受賞から16年、ノーベル賞の呪縛から解き放たれた田中。「もがいて進んできた」経験を伝えたいと、私たちの取材に応じることも決断してくれた。


「例えば化学の実験で、これは間違っているからやめておこうということも、私たちは深い専門知識がないためにやってしまう。天才だったらこんなことしないだろう。でも、こういうふうに解釈したら、別の分野の考え方で捉えたらうまくいくことがいくつかできたために、発展ができた」


「失敗を恐れて取り組まないと、結果として何もできないということになる。もっと色んな可能性というものにチャレンジというか、失敗してもいいから、私も失敗ばかりしていますから、チャレンジしてほしい」


 インタビューでは終始、謙遜していた田中だが、一つ一つの言葉は自らの手で掴んだ確信から絞り出されたもののように思われた。


(文中一部敬称略)



INFORMATION


平成史スクープドキュメント 第5回

“ノーベル賞会社員”〜科学技術立国の苦闘〜


NHK総合にて再放送

2019年3月27日(水)午前00:40〜01:29(26日深夜)


http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190217




(木内 岳志)

文春オンライン

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