ノートルダム大聖堂火災、人類は何を失ったか

4月17日(水)7時0分 JBpress

パリの観光名所ノートルダム寺院から立ち上る炎と煙(2019年4月15日撮影)。(c)FRANCOIS GUILLOT / AFP〔AFPBB News〕

 フランス、パリはシテ島のノートルダム大聖堂から出火しました。

 原因は、修復工事で用いられていた電気ハンダごてからの失火か、などとの情報がいまだ錯綜している状態です。

 いずれにしても人類はかけがえのないものを失いつつあると思います。悔やみ切れません。

 「ゴシック建築を代表する建物」「レーザーで精密計測されたデータがあるから復元は大丈夫」「美術品その他は運び出されて大丈夫」など、素っ頓狂な解説未満も目にし、憤りすら感じます。

 この建物自体が、他にかけがえのない巨大な美術品であり、モニュメントであり、テクノロジーであり、要するに人類の生きた足跡でした。それが今現在燃えている。

 実はノートルダム大聖堂は、いまから4半世紀ほど前、私の学位論文でも重要な意味を持った建物で、その意義には思うところがたくさんあります。

 バラ窓が爆発して焼け落ちたらしいなどとの報を目にしつつ、以下急いで記します。

この建物から始まった(1)
「ゴシック」という嘘、イスラム建築

 まず「ゴシック建築を代表する」という薄っぺらい解説未満、とんでもないことだと思いますのでそこから始めます。

 この建物「から」西欧人が<ゴシック建築>と呼びならわしているスタイルが始まったのであって、代表などという曖昧な表現ではなく、「ゴシックと呼ばれる建築スタイルの原点」であり「それを完成させた」決定的な建築物が今現在も燃えている。

 あまり教養と縁のない、米国大統領のような人間が、「なぜ空中消火を行わないか?」などと阿呆の極みのようなことを言っているようです。

 しかし、西暦1200年を記念して建築されたこの建物がどのような水圧にどう耐えるかなどは全く定かでなく、最悪崩落の可能性があるので滅多な消化方法など取ることができません。

 「ゴシック建築」と言う言葉は、活字の「ゴチック体」と同様、ゴート風のという形容詞で、古代西ゴート王国に由来する名前が「あえて」名づけられています。

 理由は「イスラム」という本当の名を隠すためにほかなりません。

 西ゴート王国とは、古代のイベリア半島に存在した西欧国家の名ですが、イスラムが勃興した初期の711年、ムスリム初の世襲王朝、ウマイヤ朝(661-750)のターリク・イブン・ズィヤード率いる軍勢によって滅ぼされてしまいます。

 ほどなくウマイア朝は後ウマイア朝(756-1031)に取って代わられますが、イベリア半島の奪還を目指して、キリスト教勢であるアラゴン、カスティーリヤなどの精力が「失地回復」の戦役を幾度も仕かけます(「レコンキスタ」)。

 やがてこの動きは東方のキリスト教の故地、聖墳墓を筆頭にエルサレム聖地奪還の動きに繋がり、十字軍(1096-)の派遣、ここに端を発する資本主義の原点を創り出すことにもなるのですが、これは別論としましょう。

 十字軍の時代である12世紀は、先進的なイスラム文明が、遅れた西欧、しかし野蛮で征服欲に満ちたヨーロッパにもたらされる、文化輸入の時期でした。

 西方のレコンキスタ、イベリア半島の失地回復戦争の結果、イスラムでモスク(「ジャーミー」)を建築していた工夫や建材、工法がもたらされ、それによって可能になったのが、のちに「ゴシック」と呼ばれる建築にほかなりません

 当時の最新建材と先端技術を駆使する工法が西欧に導入され、最初に建設された記念碑的な建物、それが「ノートルダム大聖堂」なのです。

 第2次世界大戦の空襲なども免れて、800年の齢を数えていたこの建物が、よりによって「改修工事」の火の不始末で焼け落ちるとは・・・。言葉もありません。


形だけの復興という愚かさ

 今後、フランスは国家の威信を懸けてノートルダムの復元に全力を傾けることでしょう。ことはカトリック・パリ大司教区だけの問題にとどまりません。

 同じようなことは、第2次世界大戦時、ドレスデン大空襲時に瓦礫まで砕かれた同地のシンボル、フラウエンキルヒェの再建などでもあったことで、もちろんその復元には気の遠くなるような努力が必要です。

 それを百も千も認めたうえで、再建されたものには、文化財としての価値は何もありません。

 三島由紀夫ではないですが、燃え落ちた金閣寺が真の至宝であって、後から作り直したものは、現代の宗教施設、ないしは観光名所という以上にはなりません。

 建築に疎い私は、20代後半になるまで、歴史的建築物がその工法があって初めて成立するという基本的な事実がよく分かっていませんでした。

 現代の重機を用いれば、重い石を高所に持ち上げ、壮大な伽藍を形成するのはいかようにも可能なことです。そもそも、コンクリートなど代用建材にも様々な選択の余地がある。

 しかし、そんなことは、「ゴシック建築」というスタイルそのものを確立したノートルダム大聖堂の時代には絶対にあり得ないものでした。

 多くの読者は「ロマネスク」と「ゴシック」の違いをたぶん判然とはご存知ないと思います。

 ロマネスクとは「ローマ風」、「ゴシック」は西ゴートの名を語りつつ、その実は「イスラム風」で、つまり紀元前からの「古代ローマ建築」と、中世最先端の科学や技術の水準を誇ったイスラム建築の、ほぼ千年近い時代背景の違いがあります。

 「ロマネスク」古代ローマ以来の建築とは、重い石を切り出し、それを積み上げて作る建築で、ローマの「コロッセオ」や「水道橋」(東京都内の駅や、水道橋博士ではなく)などをイメージすれば分かる思いますが、要するに個々の石が大きくて重い。

 必然的に、古代人の手にしていた手段で高く積み上げるには限界があり、たかだか10〜15メートル程度が関の山でした。

 加えて、この巨大な建築は、堅牢ではあったけれど「窓」がほとんどありませんでした。

 ロマネスク式の教会では、中にろうそくを灯し、ちょうど原始の教会が、地下墓所カタコンベで初期儀礼を行ったのと同様、薄暗い洞の中で儀式を行っていました。

 これはちょうど、温泉の大浴場のようなものですから、やたらと声がよく響いた。

 だから「カントゥス・ロマーヌス」、つまりローマ風聖歌、一般には「グレゴリオ聖歌」などと呼ばれる中世教会の聖歌は、単旋律を中心にしたものでした。こうした話題については続稿で触れるようにします。

 これに対して、イスラムには科学がありました。アルコール、アルデヒドなどの言葉がアラビア語であるのが端的に示す通り、彼らは火と金属と薬品を操る技術を持っていました。

 イスラムは、重い石材を軽くする方法を考えました。金属のノミで中をくり抜くのです。しかし、梁を残しておかないと構造的に弱くなってしまう。

 そこで工夫されたのが、「唐草模様」と呼ばれるアラビア風装飾、アラベスクにほかなりません。

 それらは審美的な観点からも秀逸に作られましたが、荷重を支える構造的な観点からも優れた仕様を提供し、中をくり抜かれた「石の骨」アラベスクの細い塔は、旧来の古代ローマ風建築と比較にならない、20メートル、30メートルという建物の高さを実現します。

 ノートルダム大聖堂身廊の高さも30メートル台、つまり学校の25メートルプールを縦にしたよりもはるかに高い天蓋を、西暦1100年代、つまり日本で源平合戦が闘われていた時期に実現していたわけです。

 そのようにして高く建てられた、軽くて強い「石の骨」の間に、イスラムは新建材を導入しました。金属、そしてガラスです。

 ガラスには様々な「サビ」つまり金属酸化物が加えられました。

 錆びない鉄材をステンレス=サビなし、といいますね。サビを加えたガラスが「ステンドグラス」にほかなりません。

 ノートルダムの尖塔が崩れ落ちた、とか、バラ窓が爆発した、とか、個別の事象を並べてもほとんど意味がありません。

 ここには、日本で言えば平安時代に、イスラムから導入された最新技術で作られた現場そのものがありました。もっと言えば、その工法の名残を残す様々な構造も遺されていた。

 そうしたすべてが、燃えてしまったと理解すべきで、このようなものは、外見だけ重機で「復元」したことにしても、ポストトゥルースもいいところで、永遠に戻ってきません。


西欧に光をもたらした大聖堂

 イスラムは最新の科学技術を駆使して、彼らの聖堂、モスク(ジャーミー)を、軽い石の骨と、金属の枠組みにはめ込んだガラスで構成しました。

 この結果何が起きたか。

 「窓」ができた。そしてそこから、光が差し込むようになった。

 1100年代、イスラムの聖堂は天高くそびえ、日中、さんさんと光が差し込む構造になっています。翻って西欧教会は、鈍重で背の低い、中は真っ暗なロマネスクの建築様式で建てられていたわけです。

 本来ならイスラムは、キリスト教徒にとっては邪教ですから、そのような異教の建築様式を真似るのはおかしな話になるはずです。

 しかし、その高さ、美しさ、そして何よりも「降り注ぐ光」という大きな魅惑に負けて、西欧カトリック世界は「イスラム風建築」を教会に取り入れ始めます。

 最初に試みられたのは、この手の建築史の書物に必ず登場する「サンドニ聖堂」で、カトリックは史上初めて「光あふれる教会」という建築を手にします。

 サンドニの成功を踏まえ、パリ大司教モーリス・ド・シュリーが西暦1200年という記念すべき年の完成を目指して、当時のフランスの国力を傾けて建築したのがゴシック大聖堂という概念そのものを創り出すことになったパリ、シテ島の「ノートルダム」でした。

 そして、この大聖堂が作られたことで、私たち人類が手にしたものが、今日私たちが耳にする音楽の形にほかなりません。

この建物から始まった(2)
「ドミソ」の和音はここで生まれた

 として、本題を記す前に紙幅が尽きましたので、続稿に記したいと思います。

筆者:伊東 乾

JBpress

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