「ドミソ」の和音を生み出した天蓋の焼失

4月18日(木)6時10分 JBpress

火災に見舞われた仏パリのノートルダム寺院(2019年4月16日撮影)。(c)Lionel BONAVENTURE / AFP〔AFPBB News〕

 ノートルダム大聖堂火災、単に文化財建築が焼失したという以上に、かけがえのない人類の軌跡が、跡かたもなく消えてしまったことは、どれだけ悔いても悔い切れません。

 前回(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56140)、私がそう記したのには明確な理由があります。

 今日、私たちが普通に親しむ「ドミソ」などの3和音は、このノートルダム大聖堂という建物が建設されたことで生まれました。

 専門の音楽史の本を開けば必ず記されている「ノートルダム楽派」についてお伝えします。

 私たちの研究室は2017年以降、ノートルダムでの演奏評価予算を日本学術振興会に出し続けていましたが、今年も通りませんでした。

 2016年まで、バイロイト祝祭劇場という別の重要な建物についての仕事が一段落した後、私にとって原点でもあるノートルダム=西欧ポリフォニー成立の原点に、研究室としてアプローチしようと考えていましたが、ターゲット自身が消えてしまった。

 いずれ再建はされるでしょうが、再び同様の取り組みが可能になるのは、何十年先になるか分かりません。私が研究室を維持している間は、多分無理でしょう。

 そういう現実的なこともあり、本稿もJBpressの連載では大変珍しく、私のラボ(作曲指揮研究室)本来のテーマを、ご説明したいと思います。

 以下は私がフリーハンドで書いたものですが、内容に細かなご興味のある方は、金澤正剛さんの『中世音楽の精神史———グレゴリオ聖歌からルネサンス音楽へ』などをご参照ください。

屋上、屋を重ねた建築工法
ノートルダムの特殊事情

 現在のノートルダム大聖堂、巨大なゴシック様式の建築は、それ以前に建っていた修道院付属の小さな聖堂と完全に同じ場所に建てられています。

 なぜかというと、その古い小さな聖堂を丸ごと包み込むようにして、新しい大伽藍を建築するという、びっくりするような工事が行われたからです。

 こう書くと、「本当か?」という顔を学生などにはされますが、例えば日本で能楽堂や相撲の舞台を考えてみてください。

 土俵や能舞台には元来の屋根がありますね?

 明治以降というより実質的には昭和初期からですが、近代的なコンクリート建築で、風雨にあおられないよう観覧席をまるごとビルの中に包み込むように建てた。

 蔵前国技館とか、観世能楽堂、みたいな「屋上、屋を重ねる」マトリョ—シカのような形で、ノートルダム大聖堂は建てられました。

 なぜでしょうか? 

 それは、ローマ教皇がやって来て「聖別」した<祭壇>そのものが重要で、そこで行われる儀式、<聖務日課>は、一日も休むことができないから、という理由からでした。

 教会、聖堂という建物は「人間」と同じ形をしています。あるいは「十字架」と言ってもいいでしょう。

 つまり、まずアタマがあり(比較的背が低い球状天蓋、オルガンの心というような名前がついていますが、理由は後に記します)、次に左右の腕があり(「翼廊」と言います)、真ん中の長い建物(同様に「身廊」と言います)と左右の翼廊と縦に伸びる身廊の交差する部分を「トランセプト」と呼びます。

 今回崩落する瞬間の動画が出回っているトランセプトの尖塔というのは、この重要な<交差部>つまり聖堂のど真ん中に立っていたもので、これ自身は19世紀の再建で元よりも高く作られた、そんなに古いものではありません。

 というのは、左右の翼と体の幹が交差する、まさにここが聖堂の「心臓」中心部であり、ここに「祭壇」が設置され、この祭壇がイエス・キリストの後継者であるローマ教皇によって祝福、聖別されて、特別な意味を持っていたのです。

 ここでの儀礼は、巨大聖堂の工事が何十年かかろうとも、一日も休むことは許されません。

 そこで、相撲の土俵や能楽堂とはちょっと違いますが、旧来の、12メートルほどの高さと推定される<旧ノートルダム修道院学校聖堂>全体を囲むようにして、現在のシテ島ノートルダム大聖堂の仮構が作られていきました。

 パリ大司教モーリス・ド・シュリーが主唱して、工事は1163年にスタートしました(この年号が後で効いてきてしまいますので、印象に留めてください)。

 第1期工事が終わり、より高い大聖堂の屋根にカバーされた段階で(1177年)、古いロマネスク聖堂の壁や屋根が分解され始め、現在の「内陣」に近い形での儀礼が行えるようになりました(1182年)。

 そして、その旧小型聖堂の石材も利用されて、巨大身廊の建設が、西暦1200年の完成を目指して進められますが、モーリス・ド・シュリーは1196年に死んでしまいます。

 一通りのぐるりと囲む身廊がほぼ完成した状況で、西暦1200年を祝うミサが執り行われますが、この時点ではまだ「バラ窓」が設置されていた高層には到達していません。

 1200年以降、今度は鐘楼のある正面(「ファサード」)の建築が始まり、今日見るような、いや、一昨日まで見られたような全体像が完成したのは1250年、さらに半世紀後のことでした。

 1163年から実に87年の歳月をかけて完成したノートルダム大聖堂は、フランス革命期に一度、暴徒の略奪に任せられ、19世紀初めには廃墟となってしまいます。

 1831年に出版されてヒットしたヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダムの鐘つき男(Notre-Dame de Paris)」がきっかけとなって45年から修復が始まり、64年に完成します。

 崩落したトランセプトの尖塔を含め、19世紀に作られた部分の焼失は、惜しいと言えば惜しいですが、再建で補うことができるように思います。

 2013年は、1163年のノートルダム大聖堂起工式から850年目だという、いささか中途半端なメモリアルとして、大聖堂には修復の工事が入っていました。

 そのために今回の出火となってしまったわけですが、これに伴って私たちの研究室がノートルダムにアクセスできない時期がありました。

 1999年から、演奏家の立場で科学の諸手法を活用して音楽技法を基礎から刷新する研究室を主催していますが、ノートルダム大聖堂は、そのメイン・ターゲットの現場、というより、そうしたアプローチが可能であると着想した現場そのものなのです。

 この大聖堂はカトリックですが、偶然ながらプロテスタントでもルターが抗議文書を掲げた重要なヴィッテンベルクの城塞教会が、2017年の宗教改革500年に向けて改装工事が入り、2010年代に入ってからの数年、私たちの研究室は両者をフィールドとするプロジェクトを進めることができなかったのです。

 私が真に惜しむのは、大革命期の暴徒が見向きもせず、落雷など歴年の災害に堪えて残ってきた12〜13世紀の工事の名残りなど、専門家以外には全く目立たない、本当に古い構造部にほかなりません。

 というのも、それらの建設と並行して、私たちが平素使っている「5線」による音楽の「記譜」、そこで実現される「ド・ミ・ソ」の3つの幹となる音から成立する長短2つの三和音など、要するに「西欧音楽」と呼ばれるものの“DNA”が、この1つの建物の構造とともに成立してきたからです。

西欧ポリフォニー誕生の現場
ノートルダム大聖堂

 1163年、イスラム式の最新工法による大聖堂建築が始まる以前のカテドラルは、ロマネスクの小型教会で、鈍重な石積みで背が低く、窓がない建築物だったことは、前稿にも記しました。

 石室の中は、温泉の大浴場みたいなもので、やたらと声が響きます。2人、3人と話すと意味が分からなくなってしまう。そうではなく、ゆっくりと、一つの声部を歌うことで、やたらとインパクトの強い宗教音楽の時空間を作ることができます。

 「グレゴリオ聖歌」と呼ばれる単旋律のメロディが発達したのは、カール大帝による西ローマの再統一と、戸籍整備などの意味を含むローマ式教会+ローマ式典礼・ローマ聖歌の義務化・標準化=「ロマネスクの成立」で普及したものです。

 「古代人の音楽が未熟で単旋律しかなかった」という説明を四十数年前、小学生だった私は国立音楽大学を出たばかりの若い音楽の先生から習いましたが、完全に間違っています。

 若い先生諸氏、嘘を教えるのはやめましょう・・・9世紀10世紀の人たちが原始的だったから、グレゴリオ聖歌が単旋律だったわけでは、全くありません。

 それより500年も1000年も古い古代ギリシャにも、 古代中国にも、極めて高度な合奏音楽が成立していたことが確認されています。

 タイムカプセルのように現代日本に残る「唐楽・高麗楽」の雅楽は、その一例としても考えることができます。

 グレゴリオ聖歌が有り難かったのは、やたらと天然のエコーがつきまくる、ロマネスク教会の小さな聖堂、「いしむろ」があったからでした。

 さて1180年のパリで起きたことは何だったか、思い出してみて下さい。

 12メートルほどの高さだったこの石室を、屋上屋を重ねて、30メートルを超す巨大な新しい天蓋で囲む工事を行われ、次に旧小型聖堂が分解されたのでした。

 ということは、聖歌を気持ちよく歌っていた「いしむろ」が消えたということになります。

 草津温泉の大浴場で気分よく演歌を歌っていた人が、いきなり露天風呂にワープしたら、何が起きるでしょうか?

 「エコー」が消えてしまいます。

 大司教モーリス・ド・シュリー以下のパリ首脳が直面したのは、この状況だったのです。当時の聖職者には音響学もへったくれもありません。

 「イスラムから到来した変な工法でバカでかいのを作ったら、エコーが消えてしまった」「神の恩寵が失われたのではないか?」「いや、新たな試練を神は私たちに問うておられる」

 いろいろな議論があり、ここから、変にだだっ広くなってしまった大聖堂の中のあちこちで、いろいろな歌い方を試みて、「神の真の恩寵たるべき聖歌の歌い方」が、大真面目に検討されました。

 責任者の高位聖職者の名はペロティヌス(ペロタン)、レオニヌス(レオナン)と伝えられます。

 試行錯誤の結果、「お、これはよく響く!」と確認されたものは、正しく神の恩寵を示すものとして記録して、正統なものにする必要がありましたから「記譜法」がここからより精緻なものとして発達していきます(「アルス・アンティカ」の書法)。

 このような試行錯誤は、神さまの「身体」である教会内で神の愛と恩寵を顕現するために行われるので「神さまの内臓」と呼ばれました。

 オーガニック栽培=有機農法と同じくこれを「オルガン」というわけです。

 パイプオルガンのパイプは神様の臓物ということになるのですが、ご存知でしたか?

 そこを吹き抜けて出て来る音が「単なる風」なのか?

 それともそれ以上の意味を持つか?

 といった議論は、まさにこの時期「正統論争」として神学の一大問題と見なされ、トマス・アクィナス(1225-74)の「神学大全(Summa Theologiae)」で一応の決着を見るのも、まさにノートルダム大聖堂が現在の形に完成される時期に重なっています。

 この時期、少しずつ建て増しされる大聖堂の中で・・・つまり少しずつ変化する教会内の音響条件の中で・・・よりよく響く「神の臓物」としての聖歌・讃美歌の歌い方が試行錯誤されます。

 そして、結果の良いものが記譜され、パリ大司教名の教令で「これが正しい歌い方である」と定められて記録されたのが、今日「オルガヌム大全(magnus liber organi)」として伝わる、西欧最初の体系だった複数声部の移動を詳細に記載した曲集でした。

 西欧音楽は新しい形式を確立させます。ポリフォニー、多声楽と呼ばれるものです。

この建物から始まった(2)
「ドミソ」の和音はここで生まれた

 同じパリのラ・ヴィレット地区にある「シテ・ドゥ・ラ・ミュジック」音楽都市博物館には音楽史の展示がありますが、古代ギリシャからいきなり15世紀北部イタリア・ルネサンスの鍵盤楽器に飛躍しています。

 「ほかならぬこのパリで成立したポリフォニーの原点をどうしてパリで無視するのか!」と、関連の責任者でもあり、恩師のピエール・ブーレーズに、1990年代、当時まだ若かった私は抗議して、それをひっくり返すことを考えました。

 今日に直結する西欧音楽の骨格は、シテ島のノートルダム大聖堂という、たった一つの建物の、約100年をかけての建築と増築のプロセスの中、そこでよく響くように工夫され、パリ大司教が正統と認めることで培われました。

 例えば、こんなことがあります。

 教会で毎週行われる「ミサ」という儀礼は、イエス・キリストが処刑される直前の「最後の晩餐」を模倣して行われ、必ず「入堂」があり「退堂」があります。

 退堂の際「いざわれら出で行かん」と、次の布教に、いわばねずみ講式ですが、異教徒をクリスチャンに誘う合言葉が「イッテ・ミサ・エスト」というもので、そこで帯びるのが「ミッション」ということになります。

 この「入堂」は、基本的に脇・・・「翼廊」側から入って、一度「身廊」の足のつま先まで進んでから、聖堂の身体を「心臓部」トランセプトまでぐるりと一周します。

 つまり全身を血が駆け巡るわけですが、このとき歌う「入堂聖歌」が、だだっ広くなってしまったノートルダムでは、どうにも響かなかったんですね。

 アーメンとかハレルヤとか、あれこれ試行錯誤してみるのですが、なかなか上手くいかない。

 ところが、何かの偶然だったと思いますが「ド」の上に「ミ」と「ソ」が重なる「三和音」の形ができると、にわかに周囲にやたら響いたわけですね。

 歌い方の工夫が試みられて、そのような「行進歌(conductus)」という形で、今日私たちが普通に親しむ「ドミソ」の響きが初めて作られたのは、パリのノートルダム大聖堂でした。

 たった一個の建物の中での、何十年という宗教音楽家(=聖職者)たちの、弛みのない試行錯誤の結果にほかなりません。

 私自身、こうしたことを本当に実感し、ブーレーズへの当てつけも含め実証してやろうと決めたのは、ノートルダム大聖堂の「二重側廊」の中を歩きながら、そこそこデカい声で聖歌を歌って(そういう行為は宗教的なものと見なされ、当時決して守衛に止められたりはしませんでした)自分の耳で確かめ、確信を持ったからです。

 その頃の話は建築雑誌「10+1」1999年の春号だと思いますが、拙稿「ノートルダムの二重側廊」に記していますので、ご興味の方はご参照ください。

 ノートルダムの史実から発想し、しかし当初はどうやって実測したらいいか見当もつかなかった「建築物内での共鳴の変化による音楽書法変化」の評価法は、2007年以降、ドイツで「シュレーダー+安藤の建築音響の脳認知モデル」を知り、それを音楽の目的に合うよう拡張して2009年以降内外で進めるようになったものでした。

 比較的よく知られるうちの研究室の仕事「笑う親鸞」も、本願寺様式の寺院建築音響から蓮如由来の講式を実測で跡付ける仕事ですが、お寺の基礎、柱に打ち込まれた楔一つが決定的、といったことは「笑う親鸞」にも書いた通りです。

 ヴァイオリンの響きが「魂柱」という小さな木片で実は決まるように、私たちは西暦1100年代〜1200年代の工法そのものが残っている部分に、西欧音楽というものを作り上げる最も重要なヒントが埋まっていると考え、実際にそういうものを探してきました。

 今回の火災は天井付近から発生し、主な被害は聖堂の上部に集中、石の構造の倒壊などは免れたので、上に私が記したような仕事は、復元によりまた可能になると思います。

 しかし、第1級の史料は、例えば12世紀の工事人夫が材の裏側に書きつけたメモなど、実は全くさり気ない、また略奪者などが見向きもしないところに隠れています。

 火災は、そうした一切合切を奪ってしまいますから、焼けてしまったものは取り返しがつきません。

 いまだ被害の詳細が分からない状況で前稿同様記していますが、ノートルダム大聖堂という一つの建築物が破損した、というだけでは収まらない、様々な史実が火災によって永遠に失われてしまいます。

 この800年、落雷その他によってノートルダムは幾度も被災しています。

 その都度改修が行われ、改修そのものの歴史が興味深い事実を教えてくれます。

 今日の高度なシミュレーション技術や機械学習は、古い材で全面が構築されていたと仮定しての環境再現など、様々な演算を可能にしています。

 しかしそれらは、オリジナルがあってこそ可能で、レプリカでできることとは、天と地ほどの違いがあります。

 細かい話で恐縮ですが、実はこういう部分が私たちのラボでは決定的で、時代が変わると工法が変わってしまうのです。

 伊勢神宮や法隆寺のように古い工法を残したままの修復であれば、そこから古代を跡付ける道が開かれますが、外見の補修が優先されたり、耐震強度を増したりすると、その情報は失われます。

 ちなみに奈良の薬師寺の再建でも本当に役立ったのは、古い建物の中に遺された、本当に目立たない往時の工事の痕跡だったと、この種の仕事を勧めてくださった、日本画の平山郁夫さんから伺い、ディテールに注意するようになった経緯があります。

 昔、解剖で骨学を習ったとき、ワンセットの本当の骨が教材で「あらゆる骨格標本は、個人の骨としてリアルな生命の痕跡を残す本物、樹脂などで作ったレプリカは一切の情報がない、命の偽物」と習いました。同じことを感じます。

 なお、前稿に私が記した「復元したものには文化財としての価値はない」という表記に「価値がない、は言い過ぎではないか?」との読者コメントがありましたので、正確に記します。

 貨幣価値はあると思います。復元にはお金がかかります。しかし「歴史資料としての文化財価値」は21世紀の時点では一切なくなります。

 私自身、廃絶された古代儀礼の復元に長年携わっていますが、私たちが復元したものには、伝統としての意味や価値はありません。

 いま、ここで復元されたもの、としての意味が、未来に生まれることを願いつつ仕事しています。

 それが意味を持つのは、私たちがすべてこの世を去った後、「21世紀のノートルダム火災に際して、当時の人々が行った修復」に文化財としての価値を見出すかもしれない、数百年後の未来の人々にとっての価値としてです。

 ケインズの有名な言葉を引くなら「長期的に見れば、我々はすべて、死んでいる」。私たちにとっての価値とは別のものになるでしょう。

 ドミソの和音を生み出した天蓋の情報は、間違いなく今回さらに多くが失われてしまった可能性が高い。残念です。

筆者:伊東 乾

JBpress

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