山口百恵は「引退して、家庭に入りたい」と…“結婚・引退”の日取りを百恵・三浦友和と3人で決めた“極秘計画”
2025年4月30日(水)7時0分 文春オンライン
1970年代に歌謡界を席巻した山口百恵(1959〜)だが、活動期間はわずか7年だった。人気絶頂期に「結婚・引退」を選んだ百恵の足跡を、芸能界の育ての親で、ホリプロ創業者の堀威夫氏(1932〜)が語る。

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「強い運を持っている」子
百恵を一言でいうならば、「強い運を持っている」子でした。
そもそも歌手の登竜門番組「スター誕生!」(日テレ系)のオーディションに出場したのも、本人の意思ではなかったのです。友達の代わりに出場したのですが、歌は決して上手くないし、声も弱い。アイドルとはほど遠い「暗い」イメージでした。
それでも獲得に動いたのは事務所側の事情もありました。というのは、美空ひばり・雪村いづみ・江利チエミの3人娘にならい、ホリプロで3人組の女性アイドルを売り出そうというプランがあったのです。すでにスタ誕出身の森昌子、一学年上の石川さゆりがいましたから、あと一人ほしい、と。
しかも本当は、やはりスタ誕で最優秀賞を取った桜田淳子を狙っていたのです。しかし、「昌子、淳子と、同じ事務所がグランプリの子を独占するのは困る」という理由で淳子は取れず、その代わりとして百恵を取った。1972(昭和47)年12月のことでした。
翌年、歌手デビューしましたが、初のシングル「としごろ」は不振。そこで次の曲を考える前に、映像にシフトチェンジをはかったのです。ちょうど百恵デビューの翌74年が、ホリプロ15周年。付き合いのあった松竹にホリプロオールスター出演の映画企画と抱き合わせで、百恵の映画はどうかと持ち込みましたが、返事は「百恵は無理」。思案に暮れている時、「東宝の営業本部長が交代しているので話をしてみたら」という情報が入ってきた。すると、その場でOKがもらえたばかりか、「正月に予定していた映画が1本飛んだので、百恵の映画を繰り上げたい」。2本立てでメインの扱いではなかったのですが、初主演がいきなり正月公開という幸運に恵まれたのです。その作品が『伊豆の踊子』でした。
蓋を開けてみると、三浦友和との共演が評判となり、大人気となりました。このときも、百恵の相手役は公募で選ばれた東大生のはずでしたが、西河克己監督が乗り気でなく、まだ無名の演劇青年だった友和に変更したのです。まさに運命的な出会いでした。
歌の方でも、第2弾の「青い果実」をきっかけにヒットを連発。「青い性路線」と揶揄されましたが、それはこちらの作戦でもありました。中学生だった百恵に“性”を連想するような意味深な歌詞を歌わせて、聴く人に勝手に連想させる。詞で声の弱さをカバーしたわけです。「横須賀ストーリー」から起用した宇崎竜童・阿木燿子との出会いによって歌手としても大きく成長しました。
「引退して、家庭に入りたい」
映画に歌、さらに友和とのコンビでCM、そして宇津井健さんとの「赤いシリーズ」で、テレビドラマにも活躍の場が拓ける。百恵が引退を切り出したのは、そんな絶頂期のことでした。
百恵と友和との交際は、マスコミに発覚する前から、当然、知っていました。百恵から告白されたわけではありませんが、常に接していれば感じ取れるものです。友和はあの通りの好青年でしたから、反対する理由もない。
「相談がある」と、担当者を飛び越え、百恵から私に直接、連絡がきたのは、79年の暮のことでした。私と幹部の一人を交えて食事の席を設けました。すでに交際宣言をしていたので、結婚については覚悟が出来ていましたが、同時に「引退して、家庭に入りたい」と言われたときには、言葉を失うほどのショックでした。当時、まだ20歳。不意を突かれた感じでしたが、引き止める余地のないほど、百恵の眼差しから強い意思を感じました。
百恵が母子家庭、それも父親の存在すら知らない複雑な家庭環境であることは、事務所に入る際に聞いていました。しかし、百恵自身から家庭の悩みなどを聞いたことはありません。そんなことは芸事に関係ありませんから。ただ早婚、引退の道を選んだのは、「普通の家庭が欲しい。母親を楽にさせたい」という秘めた思いが強かったのだと思います。
引退する以上、なんとしても有終の美を飾って送り出したいのが親心です。結婚・引退の日取りは百恵・友和と3人だけで練ることにしました。特にマスコミに知られることは絶対に避けなければならない。そのために、社員どころか自分の家族にも何も言えません。本当につらい日々でした。
引退後も、毎年のように復帰の話が騒がれました。私のところへも何度となく問い合わせがありましたが、私の答えはひとつ「わかりません。復帰させたい人がいるなら勝手にやって下さい」。今もたまに電話で話をしますが、復帰の話はまったくしません。私自身、復帰はないとずっと確信しています。「大和桜は花と散れ」——。百恵はそういう女性でした。
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このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った 『昭和100年の100人 スタア篇』 に掲載されています。
(堀 威夫/ノンフィクション出版)