終末期の「鎮静剤」が招く「望まぬ安楽死」の陥穽

5月11日(土)6時0分 JBpress

「上半身は人間の女性、下半身は鳥」というセイレーンは、美しい声を持つ海の怪物と伝えられている。セイレーンの歌声を聞いた船乗りは、心を惑わされ、船を難破させてしまう。

 そのことを予言者から教えられていたオデュッセウスは、自分だけはその美しい声を聞きたいと思ったが、航海も無事に進めたい。そこで仲間の水夫たちに命じて、オデュッセウスをマストに縛り付けさせ、彼らには耳に栓をさせた。

 いざセイレーンの住む島に船が近づくと、縛られたままのオデュッセウスはやはりセイレーンの声に心を惑わされ、島に船を着ける様叫んだが、その声が耳に入らない水夫たちは、ひたすら櫓をこぎ続け、船は無事に島を通り過ぎることができた。<ホメーロス『オデュッセイア』第12歌より>

 このホメーロスが描いた物語と同じ状況が、終末期医療の現場で問題になっている。


「安楽死先進国」オランダで初めて減った実施数

 オランダ安楽死審査委員会報告書2018年版がこの4月11日にインターネット上に掲載された。安楽死法施行以来、初めて、昨年11月に、2016年度の安楽死のケース(2016-85)が検察により訴追されたというだけに、オランダで、安楽死法および、一昨年提案された「人生終焉の法」の動きはどうなるのか私は関心があった。

 安楽死の数は2002年の法施行以来、毎年増加の一途をたどっていたが、2018年になると、2017年の6585件から、6126件へと減少した。中身を見てみると、神経難病患者の安楽死の数だけは増加したが、がんを始め、その他の症状を抱える患者の安楽死は減少した。特に、これまで高い伸び率を示していた認知症(169件から146件)、精神疾患(83件から67件)、複合老人性疾患(293件から205件)で減少が顕著だった。安楽死クリニックの安楽死実施件数も751件から726件へと減少した。

 オランダと同じ2002年に安楽死法が施行されたベルギーでは、相変わらず2018年度も増加(2309件から2357件へ)しているのに、オランダの2018年度のこの減少は何によるのだろうか。「検察による告訴」という事態を受けて、安楽死の流れに、ひいては、一昨年起こった「人生終焉の法」 の動きに、ブレーキがかかったとみることができるのではないだろうか。

参考:許されるのか?「人生に疲れたから安楽死」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53441

 おりしも日本では、東京の福生病院での、「透析中止事件」が問題となっている最中である。医師が患者の生命の終結を意図的にもたらす「安楽死」と、治療の中止・差し控えの結果患者が死に至る「尊厳死」とでは、死の場面に相違はあるものの、終末期の意思決定について考えるための参考になるのではないかと思い、ここで、オランダで始めての安楽死訴追事件について紹介する。


本人への意思確認が不十分なまま「安楽死」

 オランダは2002年の安楽死法施行以降、安楽死法が揺らぐような大きなトラブルなくやってきた。安楽死審査委員会が法律で定められた「要件」に適合していなかったと判断を下したケースは、2017年までの16年間に100件で、期間すべての安楽死数5万5847件の0.18%だった。しかも適合していないとされた案件の多くは、要件の相談医を第三者の医師にではなくて、友人の医師に相談したというような違反で、注意すれば足りるものだった。

 ところが、最近軽微ではすまされない案件が2つでた。そのうちの1件は、2016年に主治医である介護施設の女医が後期認知症で意思表明不可能な74歳の患者に対して、注射で安楽死させたという案件である。

 患者は、まだ判断能力があるとされた初期認知症の時に、「自分が施設に入らなければならなくなったら安楽死させてほしい」と意思表明していた。しかるべき時が来たので医師がその要請に従って、睡眠導入剤としてコーヒーに鎮静剤を混ぜて飲ませ、患者に薬剤を注射しようとした瞬間に問題が起こった。腕に針を刺した際に、患者が手をひっこめるそぶりをしたのだ。手を引っ込めたという行動が、痛みに対してギョッとした反応からのものか、あるいは安楽死の拒否を意味したものなのか、この女医はその点を確認することなく、安楽死を実施した、というケースである。

 審査委員会委員は、問題点は2つあるとした。1つは、「意思表示書が明確でなかったこと、つまり、手を引っ込めた場合でも安楽死を希望している旨の記載がなかった」。もう1つは、「手を引っ込めた際に、医師は患者の意思を確認すべきだった」の2点である。


判断能力ない後期認知症患者への安楽死は行いうるのか

 そもそも判断能力のない後期認知症の患者の安楽死は行いうるのだろうか。オランダの安楽死法2条の2に以下のように記載されている。

「16歳以上の患者が自己の意思をもはや表明できないが、この状態に陥る前に自己の利益について合理的判断ができるとみなされ、かつ生命終結のための要請を含む書面による宣言書を作成していた場合、医師は、この要請に従うことができる」

 この条項によれば、安楽死宣言書があれば、自己の意思がもはや表明できなくても安楽死はできるということである。だから認知症の患者でも、まだ認知症の初期で意思表示ができる時に、「以下の状況になったら私は安楽死を要請します」と記載すれば、医師は宣言書を基に安楽死の処置ができるのである。

 しかし、このケースでは、宣言書にはそのような記載がなく、明確ではなかった。だから委員会は、この安楽死宣言書を基に安楽死を行ったのは要件を満たしていないと裁定した、ということである。

 たしかに、この患者は「介護施設に行かなければならなくなったら安楽死をしたい」と、常に言っていたという。しかし、彼女は「これから私は安楽死宣言書を作成します。宣言書には、私が安楽死を要請したくなったら、自分でその旨を伝えますと書きます」とも言っていた。

 だから、医師は規則的に患者に問いかけていた。「安楽死を今したいですか?」と。そして患者は、「私は安楽死を希望します。しかし、今はまだ安楽死をしたくありません。今はまだ安楽死を行わなければならないほど辛くはないです」と返答していた。

 あるとき、医師は、患者と会話することが不可能になった。つまり、医師が患者に「安楽死を今したいですか」と尋ねられない状況になった。認知症が進みすぎたのだ。

 そこで委員会が問題として指摘したのは、以下の点だ。

1、安楽死宣言書には、「安楽死をしたくなったら、自分でその旨を伝えます」と記載されているが、安楽死希望を患者は一度も出していなかった。

2、患者と話せなくなっても医師は、「今、死にたいですか?」「今安楽死を行うのは、あなたはどうお考えですか?」と何度も尋ねるべきだった。そして、感情の動きを見極めるべきだった。リアクションを観察するべきだった。それは、言葉によるコミュニケーションである必要はなく、言葉によらないコミュニケーション、ジェスチャー等でも良かった。

 安楽死審査委員会は、医師は患者の意思を確認せずに安楽死を行ったと判断した。


「手を引っ込めた」意味

 安楽死審査委員会が作成した安楽死の『実施手引書』には以下のように記載されている。

「(4.4)認知症の患者 安楽死は、書面による意思表明書に指示・明記された状況となったその時点で、安楽死実行が受諾されうるものとなる。ただし、その直前に、対立する兆候(生命終結を欲していないといったはっきりしたサインを患者が呈した)がなかった場合に限る。さらに、患者は耐えがたい苦痛を経験していると明らかに見て取れる場合である。先に述べたように、意思表明書の内容を判断することが重要な役割を果たす」

 そこで問題となるのは、医師が患者の意思表明書の作成に当たり、事前に患者とのコミュニケーションを行う努力をしなかったので、この動きがいったい何を意味するのかについて医師は明確に説明することができなかった点である。痛みに対する反射的反応なのか、それとも安楽死が行われていることを理解して、それから逃れる動きであったのか、あるいは単に注射が嫌だっただけなのか、それらの点を医師は説明できなかった。

 安楽死実行時に注射が痛くて手を引っ込めることはありえる。しかし、事前にしっかり申し合わせがあったのだったら、安楽死実行を継続する理由となる。しかし、事前に全く話し合いがなかったのだったら、手を引っ込めた際に一旦中止すべきだった、そこでじっくり考えなければならなかった、ということである 。


福生病院透析中止事件

 以上のオランダ初の安楽死訴追事件を念頭に置いて、日本の福生病院の透析中止の事件を考えてみよう。

 福生病院事件とは今年の3月から4月にかけて新聞紙上を賑わした事件で、昨年8月に起こった事件である。腎臓病患者の40代女性が、人工透析治療をやめた後に、死亡した事件である。

 新聞等の報道によると、長い間透析治療を受けてきて、透析専用の血液の出入り口が閉塞した腎臓病の40代患者が、福生病院を訪れ、医師に治療について相談した。医師は首周辺から管を入れる透析方法を提案した一方、生死に直結する危険性があるとの説明と併せて透析をしない選択肢も示したとのことである。女性は夫とともに説明を受けた上で、「透析はもういや」と透析を受けない意思確認文書に署名し、8月14日に入院し、同16日に死亡した事件である。

 ただし、死の当日の未明に、「透析中止の撤回の意思」を看護師に示していたことが看護師の記録に残っているという。しかしその後症状が落ち着き、再度医師が意思確認を行ったところ、「苦痛を和らげる」治療を望んだとのことである。
福生病院の医師は、「患者の意思を尊重した」といっている。確かに「患者の意思を尊重する」というのは、1970年代にアメリカで誕生したバイオエシックスの基本的考え方で、専門家である医師ないし医療者が患者に代わって決めるという、ともすれば患者の意思を無視しがちな旧来の医の倫理(これをパターナリズムという)に対抗する考え方であり、それ自体は大切なことである。

 問題は、オランダの事件でも問われているように、患者の意思の確認の仕方である。しかも意思確認が、「苦痛の軽減か、それとも透析の再開か」という二者択一になっている点である。

①新聞報道によると、外科医は「正気な時の(治療中止という女性の)固い意思に重きを置いた」と説明しているという。また、病院は「透析離脱の証明書」をとったとも述べている。しかし、一度文章で確認書を提出しているとしても、その意思が永遠に効力を持つのではないことはオランダの事件からも明らかである。「撤回の自由」があるのだから、絶えず新しい意思確認が必要なのだ。

 それではころころ変わる患者の意思表示のどの意思を尊重したらいいのかと医療者は戸惑うかもしれない。そこで文書で書いたもののみが効力を有すると捉えたとするなら、それはあまりにも形式にこだわりすぎているといえる。

 確かにオデュッセウスのように、人はセイレーンの声に惑わされることもあるかも知れない。しかしオデュッセウスは、はじめに「惑わされないように」と頼んでおいたではないか。耳栓をして絶対に私の声を聞かないようにと。そのような付帯事項が明確に示されていなければ、いつでも撤回可能と判断すべきである。たとえその選択が、良い結果を生まない可能性が高いとしても、だ。

 逆に言えば、医師と患者は意思表示書を作成する場合には、その点まで考えて明確に記載しておく必要がある。そうでなければ、その都度の患者の意思の確認を絶えず怠らないことである。

②福生病院の医師の患者の意思確認の仕方は曖昧である。医師は、苦痛を和らげること、すなわち透析を再開しないことが死へ直結するということを患者は十分に理解していると考えたのかもしれない。しかしそうであるとしても、この場合、念には念を入れて、その点を患者に明示して確認すべきではなかったのだろうか。なぜなら、苦痛を和らげる治療をすること、すなわち透析をしないという選択は死に直結するからであり、しかも死は、不可逆的な事態だからである。


「鎮痛剤」と「鎮静剤」の大きな差異

 もうひとつ、この事件は苦痛の緩和を意図する鎮痛剤ではなく、意識をブロックする鎮静剤を用いている点にも注意しておかなければならない。もし報道にあるように鎮静剤を用いたとするならば、それは苦痛を取り去ることを意図する「緩和医療」というより、「持続的な深いセデーション」である。新聞報道では、この点があまり区別されていないが、「持続的な深いセデーション」は別名「ソフトな安楽死」とも言われている。なぜなら、苦痛を取り去り、QOLを高める鎮痛剤と異なり、意識をブロックする薬剤を使用するわけで、身体は動いていても実はその時点で意識がない状態なので「死んだ」とも言えるからだ。

 オランダでは、さらにセデーションをかけるときは、栄養チューブ等を抜き去るなど、死期を早める行為を行うことが多い。なぜならチューブ等をつないでおくと却ってむくみなどの有害事象が出るからだ。そのため、セデーションは、死を意図しての行為(ソフトな安楽死)と理解されている。なぜなら、死が確実に訪れることを予見しながら、防御する手立てを積極的にとらずに、死にソフトに誘導させるようにもみえるからだ。だからこそ、患者・家族への説明は、なお一層、慎重に行わなければならないのだ。

 この点で、アメリカや日本の緩和医療学会のセデーションのガイドライン(『苦痛緩和のための鎮静に関するガイドライン』2005年日本緩和医療学会理事会)には、危惧されることがある。セデーションの導入の際の聞き方が、「少しうとうとして過ごす(ぐっすり眠る)方法もあります」という曖昧な提示の仕方になっていることだ。はっきりと、眠ったまま死を迎える可能性がある旨説明すべきである、と私は思う。そうでなければ、セデーションの実施は「偽装された安楽死」と非難されることにならないだろうか。

「先端医療分野における欧米の生命倫理政策に関する原理・法・文献の批判的研究」(課題番号:18H00606、研究代表者:小出泰士,2018年〜2020年)の助成を受けている。通訳ベイツ裕子氏。

筆者:盛永 審一郎

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