「どこからどこまでがセクハラ?」と悩むあなたへ——2018年のセクハラ問題の本質

5月20日(日)11時0分 文春オンライン

 そもそもセクハラ、セクシャル・ハラスメントの定義とは何なのだろうか。


 セクハラ以外にもパワハラやアルハラなどハラスメントにはいろいろあるが、日本では一般的な法律の規定はない。セクハラは、男女雇用機会均等法に書かれている。「職場において行われる性的な言動」によって、「労働者がその労働条件につき不利益を受け」たり、「就業環境が害されること」。


 セクハラに男性の側から反発が出るのは、「どこからどこまでがセクハラになるのかわからない」ということだ。この条文でも「職場において行われる性的な言動」としか定義されていない。一般的には、相手が不快感を抱いたり、脅威を感じたらそれはセクハラになるのだという考え方もある。相手の意に反した性的言動であれば、すべてセクハラだという意見もある。


 しかしそこまで突き詰めてしまうと、「だったら若手男性社員が同期の女性社員に恋心を抱いて言い寄るだけで、セクハラになりうるのか?」「イケメンが言い寄るのは不快感を与えないから不問で、ブサイクな男だと言い寄るだけでセクハラになるのか?」という疑問を持つ男性も出てきてしまう。



©iStock


「言い寄る自由」があり「ノンと撥ねつける自由」がある


 補助線を引こう。MeToo運動が盛り上がった時に、女優カトリーヌ・ドヌーヴら100人のフランス女性が連名で「ル・モンド」紙に寄せた 文章 。


「私たちは性的な誘いに対してノンという自由は、しつこく言い寄る自由なしには成り立たないと考えます」


 誰にでも恋愛対象に対して「言い寄る自由」があり、言い寄られた側には「ノンと撥ねつける自由」がある。「言い寄る自由」をすべてセクハラだと否定してしまったら、「ノンと撥ねつける自由」もなくなるし、自由な恋愛もできなくなる。ドヌーヴはのちにこの声明は言い過ぎだったと謝ったりもしたけれど、恋愛と性交渉の自由を守って行くべきだという姿勢は変えていない。


 ドヌーヴの主張に理があるとすれば、恋愛とセクハラはどこで切り分けられるのだろう?


 そもそも男女が一対一で会うからセクハラが起きるのだ、という意見もある。 「ペンス・ルール」〜『最初から異性と1対1を避ける』というセクハラ回避手法の議論。それは新たな性差別を生む? というツイッターのまとめを参考にしてほしい。しかしこの「妻以外の女性とは二人きりにならない」という対策に対しては、女性記者に対する性差別になるという反論が出ている。



麻生太郎氏「記者を男に替えれば」発言への批判


 福田淳一元財務事務次官のテレビ朝日女性記者へのセクハラ騒動で、麻生太郎財務相が「だったらすぐに男の番(記者)に替えればいいだけじゃないか」と発言し、女性の働く場を奪う性差別だとして強く批判された。ペンス・ルールの議論と麻生さんの話は、つながっている。


 また元日経新聞記者の社会学者・鈴木涼美さんは 「テレ朝記者『セクハラ告発』に舌打ちしたオンナ記者もきっといる」 (iRONNA 2018/04/25付)で書いている。


「だって一部の(と言わないと怒られそうなので一部の)おじさんたちって結構おバカで、私たちが谷間の見えるワンピでも着て上目遣いで涙を浮かべると、さっき質問に来たうだつの上がらない男性記者には渡さなかった紙の一枚くらいはくれるものだから」


「女性活躍をうたう政府のもとで、おっぱいとか縛るとか言っているトップ官僚がいることにみんなが辟易としているのは事実だが、こんな騒動を見ながら、活躍の場を失っている女性だっていることも、もうちょっと知ってほしいと思うのは、女性が差別されたり侮蔑されたりすることなく働ける社会を望んでいないから、というわけでは絶対にない」


 身も蓋もない、と思う人もいるかもしれない。でも男性がちょっかいをかけてくるのをどう利用するのかは、女性の自由のひとつでもあるという鈴木さんの視点は、ドヌーヴの「ノンと撥ねつける自由」に通じている。



相手が上司の娘さんであってもできますか?


 ここでもう一度問おう。セクハラを終わらせることと、「言い寄る自由」「それをノンと撥ねつける自由」を保つことは、両立するのだろうか? それともトレードオフなのだろうか?


 福田元次官のようなオジサンの意識を改めさせるのが喫緊だという意見もあるだろう。私もそう思う。しかし21世紀になってもう20年近く経つのに、セクハラまがいの言動のオジサンは日本の会社にはたくさんいる。明らかに啓蒙や教育だけでは問題に追いついていない。


 私はここで、もうひとつの視点を加えたい。それは「セクハラ問題というのは、同時に力関係の問題でもある」という視点である。


 それを裏付ける補助線として、このツイッターまとめを紹介しておこう。 『上司の娘さんにできないと思った行為や言葉は全てセクハラ』と考えれば男女の距離感を取りやすいのでは? 。自覚のないセクハラオジサンに対して、「あなたのその言動は、相手が上司の娘さんであってもできますか?」と問いかけるというものだ。「もちろんできます」と胸を張れるセクハラオジサンはかなり少ないだろう。


 これは男女の一対一の話に見えていたセクハラ問題に、「男の上司」というもう一つの関係を加えたということだ。そうするとセクハラは、一気に別の見え方がしてくる。上司との上下関係が、セクハラという行動を左右してしまう。つまりは力関係によって、セクハラをするしないが決まるのである。



当局と記者との間にある「オモテとウラの関係性」


 力関係の視点で、福田元次官のセクハラを見直してみよう。


 自分自身の話から入って恐縮だが、私はかつて毎日新聞社会部記者で、1980年代から90年代にかけて警察取材に邁進していた。なので当局への取材における記者との力関係については、当時からかなり考えさせられた。


 当局と記者の間には、2種類の関係性がある。ひとつは、オープンな記者会見や記者クラブで見られるようなオモテの関係。これは新聞社やテレビ局と、当局という組織と組織の関係だ。しかしそのオモテの関係に隠れるように、もうひとつの関係がある。それは「夜回り」という取材における当局幹部と記者のウラの関係だ。このウラの関係は、あくまでも個人と個人のつながりに基づいている。


 オモテの関係では、マスコミと当局の力関係は対等だ。マスコミは「権力監視」という公益性を背負っているので、決して当局に対してへりくだったりはしない。時の政権に対する新聞の批判的な紙面をみれば、それは明らかだ。


 しかしウラの関係では、当局幹部と記者の力関係はまったく違う。実のところ記者の方がずっと弱い。記者の側は「幹部からネタ(もしくはネタのウラどり)が取れれば」という一心で当局幹部に近づく。しかし当局幹部から見ると、そもそも記者に機密を話す義務などもともとない。それでも記者を自宅に招き入れ、ときには酒やつまみまでふるまってくれることもあるのは、それなりのメリットを感じているからだ。



たいていの記者は平身低頭しながらネタをもらう


 当局幹部にとって最も大きなメリットは、新聞やテレビに出る機密情報を自分の都合の良いようにコントロールできることである。新聞記者がどのような情報を持っていて、それをどのようにして、どのタイミングで紙面化しようとしているのかを把握し、それをうまく誘導する。時には、当局の中の人事権力闘争の道具のために記者を使うことだってある。


 もちろん、ただ弱いだけではなく、逆に力関係をひっくり返す優秀な記者もいる。たとえば当局の不祥事などを取引材料にして、時に脅しまで加えながらネタを取っていく。脅したりしてるのに、いつの間にか強固な関係を築いていたりする。それは先ほど紹介した鈴木涼美さんの記事にも書かれていた通りだ。でもそこまでコミュ強で辣腕なのは本当にごく一部で、たいていの記者はひたすら平身低頭しながらネタをもらっていくしかないのが実際だ。


 また、こういう力関係は長期的な当局取材の話だ。単発の取材には当てはまらない。たとえば女性記者がどこかのスタートアップの単発取材を命じられて、先方の経営者からセクハラまがいの言動を受けたとする。その場合には「やめてください。その言動を公表しますよ」と抗議し、場合によっては公にするなり告発するなりすればいい。ここでの関係には非対称な力関係もなければ、ウラもオモテもないからだ。



そして女性記者が増えた結果……


 ウラとオモテがあり、ウラでは力関係が弱いという構図の中で、記者は当局とやりとりしている。ウラは閉ざされているので、いくら反権力を標榜しているメディアだとしても、そこで生じる問題はオモテには出しにくい。だから密室でのハラスメントを撥ねつける自由がなくなってしまう。


 この構図は、女性記者が増えてからかなり変容した。夜回りはかつてはむさ苦しい男と男のぶつかり合いで、場所も当局幹部の自宅の玄関前や居間だった。しかし女性記者が増え、LINEなどのメッセンジャーが使えるようになって自宅外でも会えるようになると、結果として下心を持つ当局幹部が増えるということになり、その結果女性の方がネタを取れるようになり、マスコミの側も意識的にか無意識的にか女性記者を夜回り取材に当てるようになった。しかしこれは女性記者個人の責任ではまったくない。


問題は日本社会特有のヒエラルキー的構造


 まとめよう。セクハラは男女関係だけの問題じゃなく、たいていの場合にはその裏側にある力関係と一体化している(もちろん、力関係など関係なくセクハラ言動まっしぐら、という野獣のようなオジサンもごく少数ながらいることはいるだろう)。


 しかもこの力関係は、「上司の娘」論点でもわかるとおり、日本の社会に特有のヒエラルキー的な構造と密接に関係している。このヒエラルキー的な力関係を壊さない限り、この社会からいつまでもセクハラはなくならないんじゃないかと私は悲観的に思っている。


 付け加えれば、ヒエラルキー的な力関係はセクハラだけじゃなく、別の問題もたくさん引き起こしている。ひとつ例をあげれば、裁量労働制の対象拡大や高度プロフェッショナル制度(高プロ)の議論もそうだ。裁量労働制を認めればブラック労働になってしまうというのは、日本の会社員には「裁量」がほとんど認められていないからである。「今日は仕事が終わったので帰ります」と午後4時に言えるような文化であれば、裁量労働制には何の問題もない。それを言った瞬間に「他のみんなも頑張ってるんだから、お前もみんなの仕事を手伝え」と命じられ、それに抵抗できない力関係があるから、裁量労働制はヤバイのだ。



 セクハラも、性的な言動そのものが問題なのではない。その言動を伝えた相手との間に強い権力関係があり、女性の側に「撥ねつける権利」がないからこそ問題なのである。


 力関係があるという一点において、セクハラは決して恋愛たりえないのである。


 だから重要なのは、女性を男性との一対一の対面業務から外してしまうことでは決してない。そういう場面で女性が(あるいは時に男性が)「撥ねつける権利」を持てるように、力関係のあり方を変えて行くしかない。それをどのように遂行していけばいいのかはこれからの議論だが、まずその前提として、セクハラには力関係の問題が潜んでいるということを明確にするのが、本稿の目指してきたところである。



(佐々木 俊尚)

文春オンライン

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