歌舞伎町の大久保公園はいつ「売春の聖地」になったのか “日本人お断りの売春旅館”と、路上に立つ女性たちの「奇妙な関係」
2025年5月29日(木)18時0分 文春オンライン
2025年4月中旬、新宿歌舞伎町の最深部に位置する「大久保公園」界隈にはその日も、昼から数名の街娼(立ちんぼ)が客待ちしていた。
夕方過ぎ、隣接するラブホテル街へと範囲を広げる形で人数は増える。偶然、しばしの交渉後に連れ立って歩きだす若い女性と中年の外国人男性を目撃した。ふたりはラブホテル内へと消えていく。
ここにもインバウンドの流れがあるようだ。街娼歴5年の30代女性はその背景について、「テレビとかで“交縁”が有名になっちゃった。だから最近は(警察による)取締りがキツいんだよね。外国人だと警察官の可能性は低いから安心なんじゃないかな」と話した。

同地での売買春は「交縁」と呼ばれている。公園で交渉——その公と交をかけて、さらに女性と「縁を結ぶ」という意味だ。
こうして新語まで生まれているように、いまや売買春の“聖地”と化している「大久保公園」界隈はどのような道のりを辿ってきたのか。ルーツを調べた。
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大勢の人間が1つの場所に集まるには核になるもの、すなわちハブが必要だ。
調査を始めた当初は、江戸時代に吉原などと違い非公認の街娼が集まる“岡場所”だった内藤新宿——いまの新宿1・2丁目であると見ていた。この地の街娼たちが何らかの理由で移動した果てに大久保公園付近にたどり着いたのでは、と。それは、大久保公園からほどよい距離に内藤新宿があることも後押しした。
「暗ヤミの中は、売春婦のたむろする、夜ひらく戦場でもあった」
さらに明治通り・新宿交差点より東へ60mほど歩いた、いまも複数のビジネスホテル——簡易宿泊所が現存する新宿4丁目あたりは、1947年までは『旭町』、その前は『南町』と呼ばれるドヤ街で、戦後の混乱期には「旭町のドヤ街を寝ぐらとする街娼たちがたくさんいた」という記述も散見される。
旭町がいかに街娼が多かったか=私娼窟であったかを『新東京百景』(冨田英三・スポーツニッポン新聞社出版局)から引用する。
〈旧旭町界隈は、昔流にいう木賃宿街、ヨコ文字でいうベッドハウス街であり、そこいらの街の暗ヤミの中は、売春婦のたむろする、夜ひらく戦場でもあった〉
ここから見て取れるのは、街娼たちがドヤ街の路上に立ち、声をかけてきた男たちと交渉しつつ、安価な連れ込み宿(いまでいうレンタルルームに近い形態)に引っ張り込んでいた構図である。首尾よく客が付けばいいが、うまく仕事にありつけない場合は場所を変えてキャッチに励んだ女性もいたに違いない。
大久保公園は、旭町の徒歩圏内にある。客付きの良い場所があれば男性客や街娼たちの間で評判になり、自然と人が集まってくるのも自明の理だ。整理すれば、それらがあいまって交縁が形成されていったとすれば、納得がいったのである。
大久保公園に街娼たちが集まり始めた経緯はわかった。だが、改めて調べてみると前述の理由に加えて、全く異なる事情の街娼たちも少なくないようなのだ。別角度から見てみよう。
1945年8月14日——日本が第二次世界大戦で敗戦したことが、江戸時代の街娼である夜鷹と現代をつなげる始まりだった。
「奥さんが、お嬢さんが、米兵に乱暴されてもよいのか」
当時の警視総監・坂信弥は終戦3日後の8月17日、東京料理飲食組合の役員を集めて慰安施設の設立を依頼。そして同年8月26日、特殊慰安施設協会(RAA・Recreation and Amusement Associationの略)が発足する。
RAAとは、進駐軍兵士による強姦や性暴力を防ぐために日本政府の援助により東京を中心に設置された慰安所。つまり管理売春宿を中心とした進駐軍用の慰安施設である。戦後は進駐軍兵士による日本人女性への強姦が相次いだとされているが、終戦3日後にその状況を予測して売春施設を設けていたのだ。
第一号慰安所は、東京・大森海岸の料亭だった建物を改装した国営売春施設『小町園』。同年9月3日に毎日新聞に掲載された「急告 特別女子従業員募集 衣食住及高給支給 前借にも応ず 地方よりの応募者には旅費を支給す」という募集広告により、敗戦で家族や職を失うなど生活に困窮した1600人もの女性が集まったとされている。
「奥さんが、お嬢さんが、米兵に乱暴されてもよいのか」
そんな文句で売春キャンペーンは展開された。
『日本風俗業大全』(現代風俗研究所・データハウス)によれば、東京・銀座から築地の近辺に存在した『三松』、横浜・山下町のアパート『互楽荘』、東京・吉原の遊郭町や神奈川・横須賀の置屋もRAAに加わったとされている。
『小町園』などの新たに作られたRAA施設はすべて1階がダンスホールになっており、ダンスやアルコールを楽しみながら女性を選び個室に移動して性行為を行うスタイルだ。
RAA専用施設は進駐軍兵士のみが利用できた。ただし、吉原などの「旧遊郭の場合は日本人も今まで通り利用できた」という。
『台湾人の歌舞伎町——新宿、もうひとつの戦後史』(稲葉佳子/青池憲司・紀伊國屋書店)は、このRAAがかつて、大久保公園からほど近い、歌舞伎町を東西に抜ける『花道通り』(「西武新宿駅前通り」から「新宿区役所通り交差点」までの細い道路の俗称)を挟んだ真向かいにあったことも伝えている。
〈(歌舞伎町商店街振興組合・初代理事長の)藤森作次郎は、1947年6月、購入敷地に旅館を建てた。郷里の上諏訪から蔵の解体材を運び込み、組み立てたのである。
堅牢な柱、梁、床材で組まれた風雅な雰囲気を持つ蔵屋造りの旅館に、諏訪湖を一望できる高台にある菩提寺教念寺の藤森家墓所に咲く芙蓉の花に因んで『芙蓉館』と命名した。入り口近くにダンスホールを設け、25室の部屋数を有する芙蓉館は彼の思惑どおり、連日、進駐軍兵士と彼らを相手にする女性たちで賑わった。どのような伝で入手したのか定かではないが、1947年8月、進駐軍兵士の慰安所を提供する目的で設立されたRAA特殊施設部の認可証を武器にしていたのである。〉
戦後に新宿の復興の一翼を担った藤森は、職安通りと西武新宿駅前通りのぶつかる角地、現在『東急歌舞伎町タワー』(旧サウナ&カプセルホテル『グリーンプラザ新宿』)がある土地約200坪を優先的に、かつ廉価で分譲してもらった。つまりRAA『芙蓉館』は、大久保公園の目と鼻の先にあった。
売春で生きることを覚えた女性が元の生活に戻れないことも
ここに、もう1つの事実が加わる。RAAは進駐軍向けの売春窟であると同時に、比較的裕福な米軍将校が現地妻(愛人)を探す場所でもあった。当時の日本は敗戦国であり、カネも力も持った米兵の愛人になることで、安定した生活を手に入れたいと考える女性も多かった。いまで言う「太い」「定期」の客である。
しかし進駐軍の将校と愛人契約を結んだところで、相手は遠くない将来、母国へ帰ることになる。そのとき、日本に残された愛人はどうなるか。売春によって生きることを覚えた女性が元の生活に簡単に戻れないのは、いまも昔も変わりない。
横浜には70歳を超えても白塗りの厚化粧にフリルのついた純白のドレスで街に立ち、“ヨコハマメリー”と呼ばれた伝説の街娼がいたが、彼女も戦後、関西の慰安所で働いていた。その慰安所は元は料亭だったが、進駐軍相手の商売に切り替えていたのだ。
メリーはRAAで知り合った米軍将校の愛人になった。その後は米軍将校を追って上京するが、愛人関係は長くは続かなかった。朝鮮戦争により米軍将校が現地へ赴くと、戦争が終結した後も米軍将校はメリーの元へは帰らなかった。ひとりになり生活に困ったメリーは、横浜・伊勢佐木町へ移動してパンパンとしての生活を始める。
パンパンとは、在日米兵相手の街娼の俗称だ。戦災で家族や財産を失い、生活に困窮して連れ込み旅館でカラダを売った。『戦後史大事典1945‐2004 増補新版』(三省堂)によれば、1947年時点で東京に3万人。横浜、名古屋、京都、大阪、神戸を加えた6大都市の合計で4万人のパンパンがいたとされている。メリーもそのひとりだったことになる。
RAAで働くこと。進駐軍の将校の愛人になること。相手とはいつか別れが来ること。生活のために路上に立つこと。いくつもの類似点を精査すると、白塗りの厚化粧にフリルのついた純白のドレス姿で街娼をし、関西のRAAで働いた経験もあるメリーこそ、夜鷹から交縁までを紐付ける論理面の支柱だと気づかされたのだ。
進駐軍の客が付かなかったときは、付近の路上に立った可能性が…
話をまとめよう。
芙蓉館に集った女性たちは、将校たちの性処理の相手をしながら、現地妻として愛人生活を送るが、やがては別れる日が訪れる。このとき、体を売ることを覚えた女性のなかには、メリーと同じように生活のため路上売春を選択する者も少なくなかったことだろう。問題は「どこに立つか」だけだ。
彼女たちの目と鼻の先では、旭町のドヤ街を根城にした街娼たちが、夜な夜な路上に立ち、客を引いていた。捨てる神あれば拾う神あり、とはよく言ったもので、彼女たちの中には、手近な新宿の街娼へと流れていく者も少なくなかったのではなろうか。そうでなくとも、芙蓉館で働きながら、進駐軍の客が付かなかったときは、付近の路上に立つ女性がいた可能性も高い。
そして彼女たちは、数多の街娼たちと混ざりあい、やがて街娼の多さが評判になり、どこの誰とも分からぬ女性たちが春を売るために集まってくる、新宿の売春エリアが形成されていった——以上の見立てが確かならば、大久保公園が“交縁の聖地”になるルーツの1つはRAA『芙蓉館』にあったことになる。
〈 東京じゅうの売春する女性が新宿に吸い寄せられた“シンプルな理由”「ラブホテルの乱立と“あの建物”の存在が…」 〉へ続く
(高木 瑞穂)
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