絶望から生まれた幻の「新党ゼロ」は何を訴えたかったのか

6月15日(金)7時0分 文春オンライン

 5月に立ち上がった国民民主党。衆参62人の国会議員を擁する野党第2党だが、その内情が詳らかに報じられることはもちろん、市井の話題に上ることすらない。なぜなら、政党支持率は限りなくゼロに近いからだ。


1年生が「新党ゼロ」のPVを作成した


 ご祝儀相場なき、史上まれなる新党。その立党過程で、1年生議員5人が「新党ゼロ」という党名を提案する動きがあった。メンバーは、希望の党公認で昨年に初当選した森田俊和(43)、関健一郎(39)、青山大人(39)、浅野哲(35)、緑川貴士(33)の氷河期世代5氏。共通点は、世襲でも元官僚でもない。松下政経塾出身でもない。非東大の私学出身。「民主党政権」を経験しておらず、あのトラウマがない。


 野党の新種である彼らが作成した「新党ゼロ」のプロモーションビデオ(PV)がある。まず、こちらをご覧いただきたい。



「支持率ゼロ。これが僕らの現実」。こんなフレーズで始まる映像がYouTubeに流れると、執行部の動向よりも大きく新聞に取り上げられた。だが、あえなく不採用。党名が「国民民主党」に決まった途端、新党ゼロのPVもネット空間から消え、1年生議員の「乱」は終わった。


 幻の「新党ゼロ」は、いったい何を訴えたかったのか。彼らは時代の空気をどう読み、何と戦っているのか。民主党政権が瓦解して以降、野党界隈では久しく見られなかった「さわやかな冒険」だととらえた筆者(常井健一)は、メンバー3人に声をかけ、彼らの思いに耳を傾けた。



左から青山大人(あおやま・やまと/39歳)、森田俊和(もりた・としかず/43歳)、関健一郎(せき・けんいちろう/39歳)



せめて「民主党」という名称とは決別しろよと


——どうして「新党ゼロ」という党名を提案したのでしょうか。


関健一郎 僕たち3人の共通点は2014年の衆院選で敗れ、昨年に初当選するまでの約3年間、浪人生活してきたことです。落選中に一番やっていたことは、選挙区内での戸別訪問でした。田中角栄が新人に「戸別訪問3万軒、辻説法5万回」と言ったという逸話もありますが、僕の場合は、3年で6万5000軒は回った。すると、「世の中の中庸」みたいなものが見えてくるんです。その間、所属する政党は民主党から民進党へと形が変わったけど、政党支持率は限りなくゼロに近かった。何党になろうが、国民の期待感はゼロ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いんですよ。





 民主党政権はいいこともやったと思いますよ。でも、有権者からすれば、「政権交代、頑張ってね」と応援したのに、マニフェストに掲げた公約をひとつも実現してくれなかったという思いを持っている。本当に実現ゼロだったわけじゃないですよ。でも、「ふざけるな。お前らは総括もしてないだろ」というのが、僕らに対する世の中の感覚です。


森田俊和 世間の見方はそうでしょうね。


 だから、せっかく新党を作るなら、せめて「民主党」という名称とは決別しろよと思いました。「世間の中庸」がそういう意識なのですから。


青山大人 そうそう。





 そういう問題意識がある中で、今年の春、希望の党と民進党が合流したら党名は「ホニャララ民主党」になりそうだという、めまいがするような情報が入ってきました。残念ながら今の野党全体に言えることなんですが、「自分たちが世の中にどう思われているか」という感覚が決定的に欠如しているんです。そこで、1年生議員の5人で「新党ゼロ」という党名を提案しました。



まさに私たちの置かれた状況は「ゼロ」


青山 4月のある日、いきなり関さんから「(新党名を)『新党ゼロ』にしよう」と言われたんだよね。最初は「関さん、大丈夫!?」みたいな感想でした。その後、例のPVで流れるキャッチコピーを一つひとつ見るうちに、「やっぱり、その通りだよな」と妙に納得しましたね。なんで我々が国政を目指そうと思ったのかという「原点」をもう1回思い出すことができた。ちょっと感動しました。





 僕はノートパソコンを持って、議員会館の事務所や委員会室の前で新人議員を一人ひとり捕まえて、「新党ゼロ」のPVを見てもらいました。それで「一緒に提案しよう」とお願いした。


森田 YouTubeにも公開したんですよね。私は、それで見た。まさに私たちの置かれた状況は「ゼロ」なんで、ちょうどいいんじゃないかなと思いました。


青山 僕は古い人間だから、「民政党」とか、「立憲ナントカ党」とか、昔の戦前二大政党の名称、官僚派じゃなくて党人派に近い政党の名前にあやかろうという話を党内で訴えていたんだけども、関さんの熱意にほだされて、「俺も『新党ゼロ』の推薦人になる!」と言って、署名しました。


 「新党ゼロ」というネーミングのポイントは〈政治家が作ってない〉ということ。僕たちが作った時点で胡散臭くなるんですよ。中田英寿さんや為末大さんをブランディングした「サニーサイドアップ」というPR会社があるんですが、そこからスピンアウトした人が昔からの知り合いで、「新党名、どうしたらいい?」と相談したところ、ひと肌脱いでくれました。それから突貫工事で、1カ月もない中であの映像が出来上がった。





「民主党」「民進党」「希望の党」というキーワードがウェブ上でどのように使われ、どんな印象を持たれているかを調べ上げて、それを参考にしながら練り上げられたそうです。例えば、「民主党」と検索すると、やっぱり「うんざり」とか出てくる。逆に、そういうイメージを払しょくすればいいということを考えて、あのPVが完成しました。僕は完成品の映像を仲間に見せて、「どう?」「どう?」「どう?」と聞いて歩きました。


森田 私は「うん」と言ったんですよね。





「これに決めた!」と言ってくれた先輩も


青山 同期の中には、そもそも新党に合流するかどうかを迷っていた方々もいました。結果的に9人中8人が新党に合流しましたが、衆院選の時に希望の党を選んだ背景にはそれぞれの人間関係があって、最後まで悩んでいた仲間もいたんですよ。「新党ゼロ」のアイデアにはみんなが基本的に「いいね!」と言ってくれたけど、正直、それどころじゃない人がいたことも事実です。


 結党直前、新党の党名を提案するコンペみたいなのがあったのです。「新党A」「Bの党」という提案が続く中、僕は「『新党ゼロ』っていうのがいいんですけど、ちょっとご許可をいただければPVを流したいんですけど……」とお願いして、会議室のプロジェクターであの映像を流しました。「文句を言われたらどうしよう」とか無駄にビビりながらも(苦笑)。





青山 全議員対象に新党結成に向けた協議をする場でしたよね。


 党名案だけ聞いた瞬間に「来ちゃった、キラキラネーム(苦笑)」みたいな冷ややかな反応をしていた人も、映像を見たら「いいじゃないか」と納得してくれた。「これに決めた!」と言ってくれた先輩もいました。玉木雄一郎共同代表も「いいね」と言っていたから、一時期は、「本当に『新党ゼロ』に決まったらどうしよう!」なんて妄想をしましたが、妄想で終わりました。最後は執行部の協議で「否決」となってしまいました。



外の人たちは自虐的とは見ていない


森田 だけど、「国民民主党」の結党後、幹部の発言の中にも「ゼロからの出発」という言葉が出てくるようになりました。我々が打ち出したコンセプトが党内に浸透している証拠です。


青山 党内で議論していても、「ゼロから……」という言葉がよく出てくるもんね。





 ただ、結局は党名に「民主党」の3文字が入ってしまった。僕はまだこの党はまずいというか、瀕死の重傷だと思っています。僕らの映像には「もう一度、『ゼロ』から」「負けを認めよう」というワーディングがあったじゃないですか。党内の一部には「そんな自虐的にならなくてもいいのに」「内向きじゃなくて外を向いて訴えればいいんじゃない」というような意見もありました。


 でも、そうじゃないんだ。むしろ、外から見たからこそ、「ゼロ」のコンセプトが打ち出せた。外の人たちは自虐的とは見ておらず、「客観的な総括だ」とみなしてくれました。つまり、何度も言いますけど、この党の最大の病は、「世の中にどう思われているか」を一番気にしなきゃいけない商売なのに、その感覚が欠落しすぎているんですよね。





森田 一方で、国民民主党だから「新党ゼロ」の提案を打ち出せたという面はあります。同じく組織が小さい政党でも、立憲民主党はどちらかというと上意下達で党運営をやっている。こっちは執行部自身もたぶん自信がないこともあって、みんなでいろんな知恵を出し合って回しています。60人ほどの組織なので、1年生議員8人が一つのかたまりになるとそれなりのグループになるので、執行部も若手の意見も聞きながらやっていこうという姿勢で私たちに向き合ってくれます。


青山 確かにそうだね。ワクワク感というか、やりがいはあるよね。


森田 風通しがいいし、発言したことがそのまま党の方針になる可能性が結構ある。その代わり、変なことは言えないですけどね。





政党や組織に頼るという発想は吹っ切れています


——昨年の衆院選では、小池百合子代表(当時)の「排除発言」をきっかけに希望の党は失速した。一瞬で「信用ゼロ」。「新党ゼロ」の5人は全員が比例復活組とはいえ、あのような大逆風の中でよく初当選できたと思います。


森田 私は小選挙区(衆院埼玉12区)で自民党現職を相手に492票差でした。小選挙区での勝利まであと一歩でした。


青山 惜敗率は99.43%。森田さんは、比例区の北関東ブロックでは希望の党1位で復活当選だもんね。2位が私で惜敗率94.33%。3位が「新党ゼロ」を一緒に提案した浅野哲君(惜敗率91.29%)。「新党ゼロ」のもう一人、緑川貴士君は秋田2区で金田勝年氏(前法相)と戦って、惜敗率97.77%で比例復活当選(東北ブロック)だったしね。みんな頑張った。


森田 私の場合、国政に初めて挑む時に自民党の公認争いで敗れた時点で、政党や組織に頼るという発想は吹っ切れています。小選挙区で勝つには結局は自力がモノを言います。初当選するまで2度も落選しましたが、戸別訪問は5万軒、ミニ集会は1000回やってきました。1度目は無所属、2度目は次世代の党という吹けば飛ぶような政党でしたから、玄葉光一郎選対委員長(当時)の誘いで民進党の公認をもらった時も政党への期待は冷めていましたね。そして、選挙直前で、希望の党になった時も、「ああ、無所属の時に戻っただけか」と思って、どんなにイメージが悪いと言われていても動じませんでした。





青山 素晴らしい。でも、相手陣営には自民党の大物弁士が次々とやってきたよね。


森田 小池百合子さんが応援に来てくれた日には、自民党は時間をずらして安倍総理をぶつけてきましたね。でも、それも毎度のことなんで、「ああ、また総理が来たか」という程度で、何とも感じませんよ。


青山 うちの選挙区(衆院茨城6区)の相手候補は自民党の新人だったのですが、公示翌日に小泉進次郎さんが応援に来ていました。駅前にすごい人が集まったそうだけど、どうでも良かった。もう自分たちの目の前のことで、いっぱいいっぱいでしたから。そもそも、私の場合は選挙区で生まれ育って、県会議員も2期やっていますから、何党だろうが、逆風が吹こうが、当選できるような基盤を作ることしか考えていませんでした。



落選後の半年間は警備員のアルバイトをしていた


——3年間の浪人生活は決して短くない。支持率低迷にあえぎ、内紛が絶えなかった党からの「支援ゼロ」状態で、どうやって雌伏の日々を生き抜いてきたのでしょうか。


青山 僕は、大学を出てすぐに国会議員の秘書になって、当時の全国最年少で県議になって、政治一本でやってきて、2014年の衆院選に出た時に持ち金を全部ぶち込んでしまったので、落選後の半年間は警備員のアルバイトをしていました。朝は駅に立って「落っこちちゃいました」と謝って、昼は支援者にお礼参りをして、それから仮眠を取って警備員という生活。今はこうして言えるようになったけど、当時は恥ずかしくてコソコソしながらやっていました。





 どういうところで警備員をしていたの?


青山 これが、偶然で面白くて。霞ケ浦に茨城県が持っている土浦港という港があって、県議時代に土木委員会に所属していた時、そこを県から市に権限を移して民間委託することを決めた。その半年後、僕が土浦港の警備をすることになりました。僕を支援してくれている会社に相談したら、たまたまその仕事をもらえて。笑っちゃうよね。


森田 面白い。





青山 深夜の警備だから、電話もかかってこない。毎晩、朝までひとりの時間なんですよ。湖のほとりで、冬場は寒い。でも逆に考える時間はたくさんある。おかげで、なんで自分は政治をやりたいのか、自問自答を続けることができた。まさに、ゼロにリセットできましたね。





選挙戦最終日に燃料切れが来るように逆算


 すごいなあ。僕なんか、今年7月に4人目の子どもが生まれる予定なんですが、2014年の衆院選に落選した後から2017年に初当選するまでの間にも、家族が2人も増えました(笑)。党からのお金はすべて活動に消えていきますから、NHK時代の貯金を取り崩しつつも、自分のオヤジがまだ現役で働いていたので、正直な話、親のスネをかじらせてもらっていました。だから、2014年に負けてからは「次が最終戦」だと決め、すべてを出し切ろうと、選挙戦最終日に燃料切れが来るように逆算をしながら活動していましたね。





青山 そういうふうに吹っ切れると、逆に身軽になるんだよね。


 森田さん、青山さんと違って、僕は落下傘候補なので、オヤジには悪かったけど、借りたお金を持って不動産屋に行き、選挙区内に新居も購入しました。やっぱり借家ではなくて、家を構えることで「私は逃げない」というアピールになるので、保守層からの見られ方が変わりました。とにかく全部の不動産屋を回って相談して、「関が家を探している」という噂が広まるだけでも、地元の方々には本気度を感じてもらえましたからね。実際に支持してくれる方々もだんだんと増えていくのがわかりました。


※ #2[ 野党1年生が国会議事堂で小泉進次郎をにらみつける理由 ]に続く



森田俊和(もりた・としかず)

1974年埼玉県熊谷市生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程単位取得退学。2012年、埼玉県議2期目の途中で、衆院選に初挑戦し落選(埼玉12区、無所属)。14年、衆院選(同、次世代の党)で落選。17年、衆院選で初当選(比例北関東ブロック、希望の党)



青山大人(あおやま・やまと)

1979年茨城県土浦市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、丹羽雄哉元厚相の秘書に。茨城県議を2期務めた後の2014年、衆院選に出馬し、落選(茨城6区、民主党)。17年、衆院選で初当選(比例北関東ブロック、希望の党)



関健一郎(せき・けんいちろう)

1978年神奈川県鎌倉市生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、NHKに記者として入局。高松放送局時代に玉木雄一郎議員にスカウトされ、2014年、衆院選に立候補、落選(愛知15区、民主党)。17年、衆院選で初当選(比例東海ブロック、希望の党)



写真=山元茂樹/文藝春秋



(常井 健一)

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