発見に満ちている人工河川・利根川の“流域”

6月18日(火)6時0分 JBpress

布川(茨城県北相馬郡利根町)から利根川をはさんだ対岸の布佐(千葉県我孫子市)を見る(筆者撮影)

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(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)

 先週から関東地方も梅雨に入った。梅雨の存在しない北海道を除いて、日本列島のほぼすべてが梅雨入りしたことになる。

 スーパーマーケットの店頭には、梅酒や梅干しづくりのための梅の実が並んでいる。なるほど、梅雨とは梅の実がなる季節なのだなあと実感する。季節感の乏しくなったといわれる日本だが、湿度の高いこの日々には季節を実感するものが多い。

 梅雨時には水について考えざるをえない。梅雨の時期は、正直いってうっとうしいが、空梅雨(からつゆ)で雨が降らないと逆に困ることになる。もちろん雨が降りすぎても問題だ。梅雨が終わる頃には、毎年ほぼ必ずといっていいほど、日本のどこかで豪雨災害が発生する。

 人間が生きるために水は絶対に不可欠だが、同時に人間存在を脅かす存在でもある。何ごとであれ、過ぎたるは及ばざるがごとし。メリットあればデメリットあり。水を求めて苦労してきたと同時に、水の害を防ぐために知恵を絞り、苦労してきたのが人間の歴史だ。水の惑星である地球に生きる生命体としての歴史である。

 こんなことを考える際にうってつけの本が、つい最近出版された。『水運史から世界の水へ』(徳仁親王、NHK出版、2019)である。徳仁親王(なるひと・しんのう)とは、先月即位されたばかりの天皇陛下の本名。即位前に皇太子時代に出版されたために、私が購入した本には「皇太子殿下のご講演の記録」と書かれているが、徳仁(なるひと)というお名前が変わることはない。普段あまり意識することはないが、上皇様のお名前は明仁(あきひと)である。

 今回は、天皇陛下のご著書をひもときながら、水をめぐるさまざまなことについて考えてみたいと思う。とくに注目したいのは、天皇陛下のもともとの専攻である水運史。ご著書でも取り上げられている江戸時代中期から明治時代中期まで続いた利根川の水運について考えながら、利根川流域を中心に、人間と水との関わりについて総合的に考えてみたい。


「文理融合」をみずから実践されている天皇陛下

『水運史から世界の水へ』は、皇太子時代に行われた8本の講演録で構成されている。

 内容は、学習院大学の学部時代の専門である「日本中世水運史」関連の講演が3本、英国のオックスフォード大学に留学して研究テーマとした「産業革命時代のテムズ河の水運史」関連が2本、「3・11」の東日本大震災の津波災害を機会にあらたに研究を始めた「水災害とその歴史」、そして「水問題」に関する講演が2本。「世界の水問題の現状と課題」は、国連での基調講演をもとにしたもの。もともとの英文による講演も収録されている。

『水運史から世界の水へ』というタイトルにあるように、もともと歴史学から始められた研究が、地球環境問題まで視野が拡大し、視点が増加していった経緯がよく理解できる構成になっている。まさに「文理融合」モデルのお手本ともいうべき内容だ。この講演録を読んでいると、天皇陛下の問題意識のあり方が手に取るようにわかる。

 このような問題意識を持たれている方が日本国の「象徴」となられたということは、グローバル時代に生きる日本人にとって、大きなソフトパワーになることは間違いない。ありがたいことだ。


400年前に人工河川として造られた利根川

 天皇陛下のそもそものご専門は、日本中世の水運史だ。考察の対象は歴史的に開発が進んでいた西日本の琵琶湖と淀川、そして瀬戸内海が中心である。『水運史から世界の水へ』の「第6章 江戸の水運」では、利根川についても簡単に触れられている。「利根川の東遷」(とうせん)についてである。

「利根川の東遷」とは、江戸時代初期の17世紀前半に行われた大規模土木事業のことだ。もともと江戸湾(現在の東京湾)に流れ込んでいた利根川の中下流を、人工河川を開削することによって流れを変え、東の銚子河口から太平洋に流れ込むようにしたのである。重機の存在しない時代であり、着手から完成まで約60年かかっている。

 日本の三大暴れ川の1つであり、坂東太郎の異名をもつ利根川は、日本最大規模の河川だが、現在の形になってから、まだ400年弱の存在に過ぎないのである。

 利根川の付け替え工事が始まったのは、1590年に徳川家康が、天下をとった豊臣秀吉の命令で江戸入府して以降のことだ。家康が初めて入った頃の江戸は、現在からは想像もつかないような葦(よし)の生い茂る未開発の湿地帯で不毛の地であった。縄文時代には海だったのだ。

 ところが家康は、東日本の未開の土地に大きなポテンシャルを見出した。食糧生産に関しても、燃料生産に関しても(当時は木材が中心であった)、西日本はすでに開発され尽くしていたからだ。そして反転攻勢のためのチカラを関東の地で蓄えることにしたのだ。

 利根川東遷事業は、つまるところ徳川が天下を取って政権を安定させるための軍事目的が中心であった。第一目的は、利根川を北関東の外堀とすることで東北諸藩による北からの侵略の備えとすることだった。

 だが、同時に土地開発政策であり、洪水対策であり、物流政策でもあった。治水事業であり、利水事業である。どういうことかというと、江戸を水害から守ると同時に、関東平野を湿地帯から水田に変えることで安定的に食糧を確保し人口増加を図る。さらに、東北から江戸に物資を運ぶ際に銚子から河川交通によって安全かつ安定的に輸送することを可能とし、所要日数とコスト削減を実現したのである。

 この点に関しては、インフラの視点から文明論を展開し、日本史の見直しを行っている竹村公太郎氏の仮説が注目に値する。『日本史の謎は「地形」で解ける 【文明・文化篇】』(PHP文庫、2014)の「第4章 なぜ家康は「利根川」を東に曲げたか もう一つの仮説」、『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫、2013)の「第1章 関ヶ原勝利後、なぜ家康はすぐ江戸に戻ったか−巨大な敵とのもう一つの戦い」で展開されているが、地形と気象という人間存在を規定している条件からの考察は理に適っており、じつに興味深い。


江戸時代、利根川は水運で活用されていた

 軍事目的や新田開発、そして洪水対策の話には深入りしないことにするが、江戸時代の河川交通による水運に関しては、『河岸(かし)に生きる人びと−利根川水運の社会史』(川名登、平凡社、1982)が、江戸時代初期から明治時代中期までの利根川の歴史を社会史として総合的に扱っていて、たいへん参考になる。

 そもそも江戸時代初期においては、那珂湊(現在の茨城県ひたちなか市)から水揚げして陸路を利用し、そのあと霞ヶ浦から再び水路を利用していたが、利根川東遷の完成によって、銚子河口からダイレクトに利根川を利用する水運が可能となった。東回り海路と利根川が結びついて、大規模な物流ルートが出来上がったのである。

 銚子から利根川をさかのぼって舟の関所であった関宿まで、そこからは江戸川を下って行徳に至り、江戸時代になってから開削された運河である小名木川を通ってターミナルとなる浅草の蔵前まで年貢米を運ぶというルートである。

 世界有数の大都市の江戸は文字通りの百万都市で、19世紀当時はロンドンと北京と並んで、世界三大都市であったとされている。その膨大な人口が生み出す総需要をまかなうために、このルートが大きな意味をもっていたのだ。西日本から太平洋岸に沿って浦賀水道から江戸湾に入る西回り海路と、利根川水運を利用した東回り海路が、百万都市江戸を支えていたのである。幕府にとって利根川は、戦略的な意味をもつ大動脈だったのだ。

 そして利根川には、物流の中継ポイントとなる河岸(かし)が発達した。河岸(かし)とは、河川の港のことであり、物資の積み卸しだけでなく、さまざまな生業がそこで行われていた物流ステーションのことである。物流の中心は河川交通であり、動力は風、つまり帆掛け船であった。産業革命以前の話である。

 交通体系と物流体系がまったく変化してしまった現在ではその面影を想像するのも難しいが、下流域の佐原、中流域の布川、布佐、木下(きおろし)などの河岸は、江戸時代には繁栄していたのである。現代でも、場所を変えて次の飲み屋に行く際に、「河岸を変える」と表現することがあるが、この表現は江戸時代の河川交通から生まれたフレーズである。


幕末に出版された利根川に関する“百科事典”

 利根川は、もともと人工河川として成立したものだが、時間が経つにつれ、その流域に生きる人々にとって生活にとってなくてはならないものになっていった。さらには、そこで生まれ、そこで生きていく人々にとっては、愛着を生み出す対象ともなっていった。

 利根川流域を訪れる際には、必ず参照したい本がある。必ずしも持参するわけではないが、旅に出る前、あるいは旅から帰ってから、必ず開いてみることにしている本だ。それは『利根川図志』(赤松宗旦、岩波文庫、1938)と『新・利根川図志』(山本鉱太郎、崙書房、1998)。この2冊で、これから訪れる予定の土地、すでに訪れた土地に関する記述を読んでみるのだ。『新・利根川図志』は、言うまでもなく『利根川図志』の現代バージョンである。

『利根川図志』は、江戸時代末期に町医者の赤松宗旦(あかまつ・そうたん)が企画し執筆した利根川の中下流域の地誌である。幕末の1858年(安政5年)に出版された。赤松宗旦は、利根川中流域の河岸であった布川(現在の茨城県北相馬郡利根町)に生まれ育った人だ。その当時は全盛期を過ぎていたとはいえ、布川は現在からは想像できないほど賑やかな河岸(かし)だったようだ。

『利根川図志』は、多感な少年時代を布川で過ごし、たまたま見つけたこの本を愛読していた日本民俗学の父・柳田國男によって、初めて活字化されている。原著の出版から80年後の1938年のことだ。柳田國男と『利根川図志』の関係については、のちほど取り上げる。

 内容については、岩波書店のサイトにある文庫解説の文章が簡にして要を得た文章となっているので、引用させていただくことにしよう。

下総の国布川を中心に大利根流域の地誌を精細に図説した本書は、安政年中、同地に住んだ一医師の篤志によって著わされた。歴史や風物、民間の異聞、伝説、棲息する鳥魚類、神社仏閣等が数十の挿絵とゆかりの詩歌俳文を配して多彩絢爛に述べられる。興趣尽きない読みものであり、民俗学的にも示唆に富む文献である。

 著者の赤松宗旦が生まれ育ち、そこで生きてきた布川から記述が始まり、利根川をさかのぼってから、海への出口まで下っていくという構成になっている。

 具体的にいうと、舟の関所があった関宿(せきやど)の先にある、現在の渡良瀬川合流地点までさかのぼり、そこから下って太平洋への出口である銚子まで。現在の茨城県古河市から千葉県銚子市までの広い流域だ。

 利根川流域にある名所旧跡や故事来歴、土地の物産や、動植物が書き込まれた百科事典みたいな本だ。内容的には、18世紀の西欧の「ナチュラル・ヒストリー」(博物誌)のようなものだといっていい。「文理融合」が当たり前だった時代の産物である。著者が医者だっただけに、観察力にすぐれているだけでなく、本草学すなわち薬用動植物関係の記述も多いのが特色である。

 高校時代にこの本の存在を知ってから現在に至るまで、とくに自分が住んでいる地域に関連する記述を読んできた。利根川流域には、鹿島神宮や香取神宮だけでなく、利根川からだいぶ離れた場所にある成田山新勝寺なども含まれる。

『利根川図志』は、利根川を舟で移動し、陸地に上がっては足で歩いたフィールドワークの記録であり、さらにそれらを膨大な文献をひもといてまとめた記録である。「あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく」という梅棹忠夫の方法論とよく似ているものがあると感じている。


『利根川図志』の著者、赤松宗旦とはどんな人物か

 では、赤松宗旦とはどんな人だったのだろうか。おそらくこのコラムを読んでいる方の大半は、一度も耳にしたことはないのではないか。

『利根川図志』の著者・赤松宗旦は、下総国相馬郡布川村(現在の茨城県北相馬郡利根町布川)に生まれ、そこで暮らして生涯を終えた地方の町医者であった。専門は産科医。1806年(文化3年)に生まれ、1862年(文久2年)に57歳で没している。江戸時代後期に生まれ、幕末の動乱のなかに晩年を生きた人だ。

 残念なことに肖像画の一枚も残っていないので、どんな人だったかビジュアル的に想像するのは難しい。医者だったので、髷(まげ)を結っていても月代(さかやき)は剃らず、あるいは蘭方医の緒方洪庵のように総髪だったのだろうか。想像できるのはそれくらいだ。

 幸いなことに赤松宗旦旧居が現在でも保存されているので、どんな生活を送っていたのか想像することは可能だ。先日のことになるが、初めて布川を訪問し、現地在住で現地事情の詳しい友人に案内してもらった。基本的に往診が中心で、お産を中心になんでもこなしていたのだろう。小さくて狭い居宅である。

 ほぼ唯一の伝記といってもよい『評伝 赤松宗旦−「利根川図志」が出来るまで』(川名登、彩流社、2010)によれば、交友関係が広く、土地の文人サークルの中心的存在であったようだ。医者になるためには学問が必要であり、その副産物として文筆にも精通した人も出てくる。国学者として有名な本居宣長も、本業は小児科医であったことを想起する。

 赤松宗旦が父親の意志を継いで、『利根川図志』の執筆を開始したのは幕末の安政年間のことであった。安政といえば、ペリー艦隊の黒船来航に始まり、「安政の大獄」が知識人たちを震え上がらせ、さらには江戸では「安政大地震」が発生して人心を動揺させていた。すでに動乱の時代に入っていたのである。

 安政大地震に関しては、赤松宗旦は間一髪で命拾いしたというエピソードがある。大地震が起こる直前まで江戸に滞在し、出版の打ち合わせをしていたばかりであった。版木を受け取って布川に戻っていたその日の夜に大地震が発生したため、災害には巻き込まれずに済んだ。水戸藩の藩士で水戸学の大家であった藤田東湖は、水戸藩の江戸屋敷の崩壊で圧死していることを考えれば、赤松宗旦は強運の人であったといえよう。

 大地震では命拾いした赤松宗旦であったが、もともと依頼していた出版社は倒産してしまったようだ。だが、幸いなことに版木が助かったので、出版元を変えて『利根川図志』を出版している。地方の無名医師による著作であり、自費出版であった。

 幕府から正式に出版許可がでて、全国で販売されることになったのは、1858年(安政5年)のことである。いまから160年前のことになる。聖堂学問所で許可を与えた最終責任者は、当時87歳の儒者・佐藤一斎であった。奥付には、京都と大坂、江戸の書籍販売業者が販売を請け負っていたことが記されている。

 初版の620部を売り切ったので採算はとれたようだが、重版に際しては時局柄好ましくないとされ、幕府から書籍流通を妨害されたらしい。「安政の大獄」が起きたのは1860年(安政7年)のことであり、その2年後には「桜田門外の変」が発生している。交友関係の広かった地方文人の赤松宗旦もまた、要注意人物としてマークされていたようだ。


「柳田民俗学」の原点となった布川と『利根川図志』

 先述の通り、『利根川図志』が、日本民俗学の父・柳田國男によって初めて活字化されたのは1938年のことであった。原著の出版から80年後のことであり、奇しくもいまから80年前のことになる。赤松宗旦と柳田國男は、切っても切れない関係にある。

 柳田國男(1875〜1962)は、辻川(現在の兵庫県福崎町)に生まれたが、13歳のときに布川に移り住んで、そこで約3年間にわたる多感な少年時代を過ごしている。布川は、柳田國男にとって「第二の故郷」となった。帝国大学を卒業し、医者となっていた長兄の松岡鼎(まつおか・かなえ)が、布川で開業することになって経済的に独立したために、親元を離れて呼び寄せられたのであった(國男は松岡家に生まれたが25歳で柳田家の養子となったため柳田姓になった)。

 柳田國男の長兄は、医者であった当主が若死にして困っていた小川家の離れに診療所を設けて開業していたのだが、少年時代の柳田國男がその小川家の土蔵のなかで見つけて読みふけっていたのが『利根川図志』であった。この本をガイドにして、利根川流域の小旅行を何度も行ったことが、『故郷七十年』(1958年)という回想録や、みずからが校訂した『利根川図志』の解題に、当時の思い出として記されている。

 その意味では、『利根川図志』は、まさに柳田民俗学の原点となったといえるのである。赤松宗旦、柳田國男、梅棹忠夫と並べてみると、「自前の学問」を開拓した人たちの知られざる「知の系譜」が見えてくるのではないだろうか。

 私も子どもの頃に、親の仕事の関係で関西から関東に移り住んだ経験をもっているので、柳田國男には親近感を感じてきた。ことばの違いや文化の違いに敏感になる体験を多感な少年時代にもったことが、柳田國男の民俗学の原点になったのであろうと想像している。


赤松宗旦の「いま、ここ」からの発想

『利根川図志』は全6冊で構成されているが、その第1冊は著者・赤松宗旦が生きてきた布川から始めている。第2冊から第6冊までは、中流域から河口まで利根川を下っている。そのなかで途中にある布川も再び取り上げられる。

「自叙」には漢文でこう記している。「皆係利根川之事、吾生其傍、不能無感」。現代語訳すれば、「すべて利根川にかかわることであり、自分はその傍らで生きてきた。感慨がないわけがない」。ほぼこの文言に言い尽くされているのではないだろうか。

 第1冊の「総論」で、まず自分が生まれ暮らしていた布川から記述を始めることについて、なんだか言い訳めいた弁解口調で断っているが、私は本意は別のところにあると考えている。

 それは、「いま、ここ」から始まる思考である。自分が生まれ、暮らし、生きてきたその土地から、すべてが始まるのである。だが、それはけっして自己中心的なものではない。出発点が「いま、ここ」であっても、流域を上下しながら拡がっていくのである。

「いま、ここ」の「ここ」は空間に関するものだが、「いま」は時間に関するものだ。空間については利根川流域ということになるが、「いま」はなにを意味しているのだろうか。それは赤松宗旦の執筆の動機に密接に関わっている。

 執筆の動機は、自分が愛着を感じてきた利根川流域の自然環境が破壊されてしまうのではないかという強い危機感であった。自然環境破壊は景観の破壊だけではなく、生態系の破壊にもつながってしまう。「いま現在」を記録として残しておかなくてはという危機感。それは「未来」から「現在」を見つめる視点である。「現在」についてよりよく知るには、「過去」にさかのぼることが必要になってくる。

 危機感の背景にあったのは、江戸時代には三度にわたって取り組まれながらも、いずれも失敗に終わった印旛沼開拓がある。利根川から印旛沼を経由して江戸湾まで至る河川工事を行うことで、印旛沼の開拓を行うと同時に、河川交通の利便性を高めるという発想であった。

 印旛沼開拓は、第1回目は吉宗時代の1724年、 第2回目は老中・田沼意次時代の1781年〜1789年、第3回目は老中・水野忠邦時代に企画されたが、難工事のためいずれも途中で挫折している。だが、いつ再開されるかわからない状況にあった。

 赤松宗旦は、印旛沼開拓が実現してしまうと、環境破壊によって自分が愛してきた利根川が消えてしまうという危機感を強く抱き、『利根川図志』の執筆と出版を急いだのである。


かろうじて維持された利根川の生態系

「流域」の発想は、「すべてはつながっている」という発想でもある。生態系のなかで人間も動植物もみな、つながっているのである。帆掛け船による水運が消えて久しいが、利根川をさかのぼる鮭はいまでも健在だ。

『利根川図志』には、利根川をさかのぼってくる鮭についての記述がある。下流域の佐原あたりでは塩気がぬけてない鮭も、布川あたりでは塩気が抜けて美味だという記述もあり、主観的な感想ではあるが面白い。布川では、大々的に鮭漁が行われていたのである。

 利根川は、鮭の遡上の南限であるが、現在でも利根川鮭は健在である。首都圏の取水口である利根川大堰では、さかのぼってくる鮭を捕獲して、人工孵化のために卵を採取しているという。ぜひ一度見学してみたいものだ。

 水は地球を循環し 鮭は太平洋をアラスカまで回遊している。いずれも江戸時代の日本人は知らなかった事実だが、すべては地球においてつながっているのである。水問題も地球環境問題の一環であり、ローカル(地域)とグローバル(地球)を同時に考えることが必要である。


「流域の発想」で地域のポテンシャルの再発見を

 先月のことになるが、NHKの人気番組「ブラタモリ」で「“ちばらき”〜“ちばらき”はニッポンの要!?〜」が放送されたが、これは画期的なことだ。というのも、千葉と茨城をあわせた「ちばらき」が全国的に広まる契機になるからだ。

 赤松宗旦の故郷の布川と、その対岸にある布佐は、それぞれ現在は茨城県と千葉県に属しているが、現地在住の友人によれば、祭りなどの際には住民同士の交流は深いのだという。

 県境を挟んでいるので行政的には異なる地域なのだが、そういうことは住民にとっては関係ないことなのだ。そもそも、利根川をはさんだ布川も布佐も、もともとはおなじ下総国だった。利根川流域は常陸国ではない。「ちばらき」という発想は、その意味では当然なのである。

「流域の発想」は、河川の周囲に拡がる土地も含めた「面」の発想でもある。「地方の時代」には、「流域の発想」もぜひほしいものだ。

 今回は、利根川を中心に取り上げたが、どんな地域にも、その地域を流れる河川が存在する。地域とは、規模の大小は問わず、河川の流域でもある。この視点が重要だ。

 水害が起こった有事の際に初めて「流域」が意識されることが多いが、そうではない平時にも「流域」で考えることが大事なのである。ぜひみなさんも、自分が暮らしている地域で「流域の発想」でものを見る視点を身につけてほしいと思う。

筆者:佐藤 けんいち

JBpress

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