「隠れ貧困」家庭で育ち、ブラック企業に入社して“地獄”を見た女性の行く末

6月20日(土)20時0分 週刊女性PRIME

※画像はイメージです

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 新型コロナウイルスで、さらに深刻化が増す「貧困」問題。中には、見た目ではわからない「隠れ貧困」の人たちも。貧困、格差問題を取材し続け、自らも「隠れ貧困」の家庭で育ったという『年収100万円で生きる—格差都市・東京の肉声—』の著者でフリージャーナリストの吉川ばんびさんに、その壮絶な体験を語ってもらった。



 今年の4月末、『年収100万円で生きる—格差都市・東京の肉声—』という本を刊行した。

 ネットカフェ難民、ゴミ屋敷の住人、売春で生計を立てる女性など、性別も年齢も境遇もまったく違う16人。今、まさに貧困に陥っている人たちを『週刊SPA!』が取材して文字に書き起こしたものに、私が各エピソードへの論考や総論を書き下ろして書籍化したものだ。

 この本の筆者である私自身も、実は生まれついた家庭が貧しく、長らく貧困の当事者だった。しかし、周りの誰にも気づかれることなくここまで生きてきた。いわゆる「隠れ貧困」だ。

■我が家には

いつもお金がなかった 



 一般的に「貧困家庭」というと、ひとり親家庭や公営団地に住む人たち、クタクタになった衣服を身にまとっている人々がイメージされることが多い。はたから見れば、両親が健在で共働き、ローンを支払いながらマンションの一室に居を構え、何度も繕った痕跡のある衣服を着ているわけでもない私のことを見て、周りが「あの子の家は貧しいのだろう」と気が付くことはなかったと思う。

 しかし蓋を開けてみれば、わが家にはいつもお金がなかった。私がまだ3歳だった1995年に発生した阪神淡路大震災で、当時住んでいた持ち家が倒壊、避難所生活を経てようやく新しい住居を手に入れるまでに莫大な費用がかかったことで、両親はコツコツ貯めていた預金を使い果たしてしまったのだ。

 いつからだったか定かではないが、父親と母親にはおそらく精神疾患があり、私が物心つくころから家庭は急速に崩壊しはじめた。

 父親は衝動的に突然、会社を辞めてしまう癖があり、たびたび転職と退職をくりかえした。いったん無職になると少なくとも半年か1年は転職活動をすることもなく引きこもり、朝から晩までアルコールに溺れてしまう。おまけに育児不干渉であったため、私とひとつ年上の兄はほとんど父親と会話した経験がない。

 母親はそんな父親に振り回され、彼が無職になるたびに借金をこしらえなくてはならないことや、子育てを一人でしなければならないことによる重圧に耐えきれず、次第におかしくなってしまった。母親はとても感情的で、少しでも彼女をイラつかせてしまうと、いつも鬼のような形相で叩かれるのが怖かった。 

 兄は中学生のころから非行に走り、家庭内でも私や母に対して激しい暴力をふるうようになった。これに関しても父親はまったく我関せずといった様子で、たとえ私がアザだらけになっていようと、顔じゅう血まみれになっていようと、まるで興味がないようだった。

 おまけに兄はこの時期から頻繁に金をせびるようになり、母親がお金を渡すことを拒否すると数時間暴れまわることもあるため、私たちの身体だけでなく家中がボロボロになる始末だ。 

 そんな環境であったから、うちにはいつもお金がなかった。母親は「恥ずかしいから」という理由で、うちが貧しいことも、家庭内暴力があることも誰にも言ってくれるなと私に強く口止めをするので、助けを求めることさえできない。

 生活保護の存在は知っていたが、自分たちが受給するものではないと思っていたし、そもそも申請するかどうかの発想すら、私たちにはなかった。とても自力で生活できるような状態ではないはずなのに、私たち家族は誰にも助けを求められず、貧しさを隠し続けて生きていた。 

 そして、いつのまにか家族同士の関係そのものが失われてしまったのだ。 



■「あのころよりはずっとマシ」



 機能不全家族に育ち、あまりにひどい暴力に耐えきれなくなった私は、就職と同時に家から逃げ出してひとり暮らしを始めた。薄給ではあったが、会社の社員寮としてアパートに住むことができ、当時、無一文で、一刻も早く安全な場所に身を置きたかった私には好都合であったため、内定をもらってからすぐに入社を決意した。 

 しかしながらその会社はブラック企業で、劣悪な労働環境ゆえに社員が居着かず、先輩社員いわく「新卒で入った15人のうち、翌年に一人か二人残っていればいいほう」だという。社員が毎日遅くまでサービス残業をしなければならないほど、慢性的な人手不足に陥っていた。 

 休日出勤を強制されるにもかかわらず手当は出ないし、タイムカードは存在しないし、経理部に理由を尋ねても明確な答えはもらえなかったが、“有給”を取ろうものなら、ただでさえ少ない給料から1日あたり謎の5000円を差し引かれた。「誰かが上層部の機嫌を損ねて左遷された」という話を聞くのも、決してめずらしいことではない。 

 当時、毎月の給与から家賃の自己負担額や諸々を差し引かれた手取り額は11万円ほど。そこから奨学金の返済、金銭的に困窮している実家への仕送り、生活費を引けば手元にはほとんど残らない。まさにギリギリの生活だった。

 毎日、激務に追われて疲弊していたが、それでも私に会社を辞める選択肢はなかった。転職するだけの時間的余裕もないうえ、仕事を辞めてしまえば住居を失う。

 住居を失えば路上生活を送るか、再び“地獄”に戻って、殴る蹴るの暴力を受ける毎日を送るかしかない。経済的に自立できるだけの蓄えがない以上は、文字どおり「生命線」であるこの仕事を続けるしかないのだ。 

 しかしそんな生命線は、予想だにしなかった事件によって安易に絶たれてしまった。

 会長の息子であり、既婚者の男性役員からの性的な誘いを断ったことで不興を買ってしまい、社内で執拗な嫌がらせのターゲットにされたのだ。

 役員から直に「吉川には徹底的に負担をかけろ」と命じられた部署長は、私に「ごめんね、そういうことだから」とだけ断って、ほかの社員に回すはずの業務をすべて私に回し始めた。

 嫌がらせをしていた張本人は、夜遅くまで業務に追い詰められる私を見にきては時折満足そうにニヤついていたが、もはや私に戦う気力は残されていなかった。 

 不運なことに、私はこのころ不眠症にも悩まされていた。毎晩、家具も何もない部屋に帰り、薄っぺらい布団に入ると、必ず殴られていたときの記憶がフラッシュバックする。脳内に当時の光景や怒鳴り声、恐怖の感情が鮮明に再現され、涙が止まらなくなる。眠りにつくのはいつも泣き疲れた朝4時ごろで、日によってはまったく眠れないまま仕事へ向かうこともあった。

 そんな日々が続いて数か月経ったころ。朝、通勤ラッシュで人が溢れかえる北千住駅のホームで電車を待っていると、突然、激しい吐き気とめまいに襲われた。しばらく回復を待ってみても足が一歩も動かない。この状態で、すし詰めの満員電車に耐える自信は微塵もなく、結局、この日は会社に行くことができなかった。

 この日を境に急激に身体を壊した私は、これまでどおりの激務をこなせる身体ではなくなってしまった。業務の負担軽減を申し出ても、役員の目が光っているなかでは誰にも取り合ってもらえない。休職制度はまったくと言っていいほど機能しておらず、申請に必要な書類すら用意されていない。 

 こうして、私は会社を退職せざるを得なくなったのだ。 



 私には頼る実家も、なんの後ろ盾もない。それでも、退職日と同時にアパートから退去しなければならない。

「今より負担がマシならなんでもいい」とあわてて転職先を見つけ、有り金をはたいて家賃の安いアパートを契約した私は、再び無一文で新たな生活を始めた。 

 しかし、悲鳴をあげる身体を酷使し続けたことが祟ってか、2年後に病を発症する。今度こそ、まったく働けない状態になってしまった。全身の皮膚が黄色くなり、激しい胃腸の痛みや嘔吐をくりかえし、食事すらまともに摂れないから体重は30キロ代にまで落ちた。外に出ると全身に脂汗をかき、めまいや吐き気でその場にしゃがみこむこともしばしばだ。

 「奨学金」という数百万円の負債をかかえているうえ、誰にも頼ることはできない。行政に相談しても、担当者は「まずは親族に援助してもらってください」と繰り返すばかりだ。もう終わりだ。本当にそう思った。

「お世話になりました、今までありがとうございました」。退職日、上司への挨拶で自分からでた言葉が、まるで人生リタイア宣言のように思えた。

■貧困と自己責任論と家庭の呪い 



 それから数年が経ち、今は、こうして文章を書く仕事で生計を立てている。 

 退職後、半年以上ほとんど何もできないまま、薄暗い部屋の天井を見続けるだけの毎日を過ごした。失業手当が底をつく直前、慌てて申し込んだアルバイトでギリギリの生活を送っていたころ、思いつきでブログをはじめ、誰かを呪うような気持ちで文章を書くようになった。するとそれがたまたま編集者の目に留まり、いつのまにかそれが仕事になったのだ。 



 初めて「原稿料」をもらってから、2年半ほど経つ。フリーランスのため収入にはバラつきがあり、相変わらず生活に余裕はないけれど、まだなんとか食いつないでいる。2週間に1度、心療内科で薬を処方してもらいながら、なんとか生きている。 

 仕事をもらえるのは大変ありがたいと思う一方で、まだこの状況を手放しに喜ぶことはできていない。吹いたら飛んでいきそうなほど軽い身分では、来月も変わらずに仕事がある保証は一切ない。

 安定した生活を送りたくても、おそらく一般企業で働くことは厳しい。会社員を辞めてから3年以上経つが、まだ体調もよくはなっていないのだ。

 今でも毎日のように悪夢にうなされ、悲鳴とともに飛び起きることがしょっちゅうある。薬の量を増やしても状況は変わらず、ふいに「死にたい」と思うこともある。

 人が貧困から抜け出すのは、なんと難しいことだろうかと思う。生まれついた家庭の呪いは、いつまで自分を苦しめるのだろうか。そんな不安に取り憑かれたまま、いつまで続くかわからない今日を生きている。

吉川ばんび(よしかわ・ばんび)

'91年、兵庫県神戸市生まれ。自らの体験をもとに、貧困、格差問題、児童福祉やブラック企業など、数多くの社会問題について取材、執筆を行う。『文春オンライン』『東洋経済オンライン』『日刊SPA!』などでコラムも連載中。初の著者『年収100万円で生きる ー格差都市・東京の肉声ー』(扶桑社新書)が話題。

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