「下山事件」の真相は他殺か? 自殺か?——側近が振り返るあの日の”後悔”とは

6月30日(日)17時0分 文春オンライン

解説:記者も“病気”にかかる犯罪の魔力


 この「35大事件」には、事件の当事者か極めて近い人物によって書かれたものがいくつかある。ちょうど70年前に起きた「下山事件」についてのこの文章も、著者の加賀山之雄氏は被害者の後任の国鉄総裁(当時)。一部の国鉄関係者から「事件で最も得をした人」と評された。掲載は事件から6年後だが、まだ関係者も多く、配慮も働いたはず。読むには一定の予備知識が必要だろう。



国鉄の下山定則総裁


「帝銀事件」「松川事件」と合わせて「戦後3大事件」といわれるのが下山事件。朝鮮半島で緊張が続き、戦後間もない占領下の日本では保守と革新が鋭く対立し、世情は騒然としていた。下山、三鷹、松川と怪事件が連続したこの年の夏は、のちに「戦後史の曲がり角」とも呼ばれる。20万人に上る国鉄職員の首切り計画が浮上。労使交渉のさなか、矢面に立つ総裁が行方不明になり、翌日轢死体で発見された。衝撃的な事件は他殺説と自殺説が対立し、話題性は弥が上にもにも高まった。


 政府は、勢力を伸ばしていた共産党の関与を匂わせる「他殺」の見解を発表。解剖に当たった古畑種基教授率いる東大法医学教室が「死後轢断」と鑑定したことや、家族や友人らが「自殺する理由がない」と言明したことなどから、警視庁捜査二課と朝日新聞も他殺を主張した。


 対して、慶応大の中舘久平教授が「死後轢断と断定できない」と判断し、現場周辺で下山総裁を見たという証言が多数あったことなどから、捜査を担当した警視庁捜査一課と毎日新聞は自殺説を採った。毎日の記者だった井上靖氏は翌年、自社の主張を基に小説「黯(黒)い潮」を書き、映画化もされて話題に。松本清張氏は米軍謀略部隊犯行説を「日本の黒い霧」で打ち出し、反響を呼んだ。



 警視庁は自殺とした報告書をまとめ、同年中に捜査を終結したが、報告書は公表せず、翌年「文藝春秋」などがスクープ報道。事件は政府やGHQ(連合国軍総司令部)を含めた複雑な思惑に揺れ動いた。いまに至るまで自他殺のどちらか、確定はされないままだ。


 他殺説には、松本氏らのように、実行犯として米軍関係を挙げる見方と、共産党関係を指摘する見方があった。加賀山氏は当初から他殺説を主張。この文章も共産党の関与をうかがわせるように読める。直面する労組対策など、政治的配慮がひそんでいることは否めない。関係者が少なくなる中、近年は、犯行に関与したとみられるグループを特定し、“逆算”して謎を解明しようとする手法が目立つ。1999年に「週刊朝日」で連載された内容を基に、関係した3人が2002〜2005年にそれぞれ本を出したのがその例。


 帝銀事件の回で事件の洗い直し取材をしたと書いたが、中心は共同通信社会部の先輩の「茂サン」こと斎藤茂男氏だった。日本記者クラブ賞などを受賞した大記者で“ホームグラウンド”は「下山」。朝日新聞の矢田喜美雄記者(1936年ベルリンオリンピックの走り高跳び5位入賞選手)と連携。他殺説に立って取材を進めた。


 こうした大事件にはたいていマニアがいる。その条件は(1)被害者数や規模が際立っている(2)社会的な影響が大きい(3)未解決であるか謎がある——などだろう。マニアは事件に“ハマった”人たちで、強い関心から情報を収集して独自に推理する。茂サンも取材経験を回顧した本で「“下山病”にとりつかれて」「下山事件は不思議に人を魅了し、引きずり込む」と書いている。大事件にはそれだけ魔力があるということか。


小池新(ジャーナリスト)


◆◆◆



 事件当時の副総裁たりし筆者(加賀山之雄氏)が7回忌を迎えて始めて筆を執る下山事件秘録。


 初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「下山事件の陰」



一口に「断定」できないその真相とは


 あれからもう満6年になる。命日に当る7月5日には芝の青松寺で7回忌の法要が営まれた。7回忌ともなると参拝者は施主の国鉄幹部達や近親、それに極く親しかった人々等に限られ、あれ程世人に衝撃を与えた事件も真相が究明されないままに忘れ去られようとしているのだ。時々、知人などから『あれは一体どうしたんですか、貴君はどう思うか』など訊かれて戸惑いするようなこともあるが、その度に私は所謂自殺説を強く否定して来た。一口にあれは自殺だ、或は他殺だと片づけて了えない所にあの事件の複雑性があるのだと思う。



混沌とした社会の激動と混乱の頂上で起きた事件


 昭和26年3回忌を迎えて発刊された故下山総裁の追憶集の序に求められて書いた私の一文を再録してみる。


『今でこそやっとの思いで筆をとる事が出来るが、あの当時のことを思い出すだに身も凍る思いである。早くも下山さんの三年忌を間近にひかえて傷恨永く尽きるところがない。それにしてもどうしてあれ程の大きな出来事が今以て国民の前に明らかにされないのであろう。いや、普通社会の常識や通常人の推理で解き得られぬのがあの事件の本質であったかもしれない。行手にどんなことが待ち構えているか、人間にそれが解る筈もないし、苦境に在ってはやがてはというはかない望を続け楽しみの中に在っては何時それがくつがえるかも知れぬのをつい忘れて了う。それが人生である。生者必滅の理は頭の中に心得ていても一旦現実にぶつかれば魂は飛び心乱れて徒らに因果のきずなをまさぐり戸惑うのが人の常であらう。


 下山さんの死はそうした世の常の法則を超えた出来事であったに違いない。こんなことが起り得るのか、当時我々は自らの眼や耳を疑わざるを得なかった。常識や普通の因果の法則ではとても説明出来ないことなのである。科学者達は真剣な探究を続けたし一方では小説もどきの勝手な推理も随分行われた。然しながらそのどれもが所詮は真に謎をとく鍵にはなっていない。私は思う、全く因果の法則を起えた、いわば超人間的な事柄がひそんでいるとすれば我々にそれがたやすく解明出来ないのも已むを得ないことなのかもしれないと。歴史の激動期などには何かしら一つの強い力で個々の意思も生活も生命も押し流されふりとばされて行くように見える。革命の歴史は我々に普通の社会では考えられない事態が相次いで人々の意思や常識をとび超えて起きることを教えている。下山さんの死は日本の歴史が大揺れに揺れて国がどちらへ行くのかどうなるのかさえ気づかわれ国民は右往左往、社会も産業も秩序というものを失って了った、そうした激動と混乱の頂上で起きた事件であった。』


 実際国鉄は戦争中から戦後にかけて全く苦難の道を歩み続けたが昭和24年という年は恐らくその頂点であったろう。資金と資材の不足、老衰した施設、超過剰な職員、インフレの昻進というような悪条件はその極度に達し、戦後労働問題に関するG・H・Qのミスリードとこれに乗ずる日本共産党の戦術にかきまわされて、いわゆるニッチもサッチもいかぬといった状態である。



 どの事業を見ても経営側はこのはき違えか或は故意に勢に乗じたこの民主主義の擡頭によって辛酸を嘗め中には腰が抜けて了ったのではないかというような様が見受けられた。一方では革命近しと呼号して今にこちらでお前等のほんものの首を切ってやるぞとおどかすちんぴら共産党員もあったし、笑い話でなく共産党に入って居れば命だけは大丈夫だからというようなもの迄出る始末である。



下山総裁就任の序曲


 そういう嵐の中で定員法が国会を通過して国鉄は12万名近くの人員整理を行うことになった。それが昭和24年の春のことである。実はこれより先昭和21年の夏から秋にかけてまだ運輸省であった頃7万余の人員縮少を企てたのであったが当時の産別の応援というよりは徳田等の直接の指導で伊井弥四郎とか鈴木市蔵とか、後には共産党でかなりのものになった連中が国鉄に居って猛烈な抵抗をやり時の運輸大臣が少々ぐうたらだったりしてもう一歩の所で腰がくだけ整理が不能になって了ったことがあった。所謂九・一五といわれてこれで国鉄のたて直りも4、5年遅れたし、争議に勝利を得た労働組合を益々手がつけられないようにはするし、他の民間の事業の経営にも決してよい影響を与えず、ひいて日本経済の建て直りをそれだけ遅らしたと思っている。残念なことであった。


 人員を整理するということは勿論望ましいことではないが当時の国鉄には召集解除や大陸からの引揚げの為にふくれ上って60万を超す職員をかかえこんで置く余地は到底なかったので、経営の合理化の為に真に已むを得ない措置であり、それは早い程よかったのであった。そしてこの第一段の計画の蹉跌後は火のついた組合攻勢の反撃を食って政府が定員法の決意をする迄遂にその機会がなかったのであり、そしてそれが下山さんが一命を落す機会となって了ったわけであった。私はそれを思うだけでも昭和21年の争議の失敗は残念でたまらない。



死に近づく「総裁就任」のいきさつ


 下山さんの死についてはもう一つ因縁話をしなければならない。それはこの私に関係があることで書きづらいのだが、氏が総裁になった当時のいきさつである。昭和23年の春運輸次官だった伊能君(繁次郎)が退いたので次官を作らねばならない。運輸大臣は改進党(当時国民協同党)の岡田勢一氏だったが鉄道総局長官だった私に次官をやって貰いたいという話があった。戦争中から運輸省は陸と海とを分けて一方は鉄道総局、一方は海運総局というように2本建てとなり夫々長官制をとっていたのである。


 私はもともと鉄道に入ったのはその運営に強い関心を持った為であり監督行政にはあまり興味もなく経験もない。1度は辞退したがどうしてもというので致し方なくそのつもりになった。そこで岡田氏が内部的に一応そうきめて当時の習慣によってC・T・S(G・H・Q内の交通を監理する部門)にO・Kを得に行った処が一寸待てということで実は承知しないということが解った。色々アメリカ側に運動したり、あることないことを耳に入れたりする日本人が多かったことは承知しているが私はそのほんとうの理由は知らない。知る必要もなく却って本来の鉄道業務に専念出来ることを喜んだ次第である。



「12万人の首切り」という使命を背負った下山総裁


 私はむしろ我が意を得たのであるがおさまらないのは大臣の岡田氏で私にはすまんすまんとあやまられるし、第1他の人を探さねばならない。私にも相談があったので一も二もなく当時東京鉄道局長であった下山君を推薦した。これが他の方面の意見とも一致しG・H・Qも幸その人物、才幹を知っていたのでそれならよかろうということになって下山運輸次官の出現となった。これは官庁のならわしとしては異例の人事でありそれに総司令部の意図に影響された1つの例である。下山君は案の定次官として立派な役割を果した。経歴からいえば新しい畑である海運の方にも特によく眼をそそぎ、下僚の人達からも親しまれその尊敬をあつめていたように思う。



 当時世間ではラッキーボーイと下山君のことを批評していたが豈図らんやこれが後から考えるとラッキー処か死出への第一歩となったのである。というのは翌昭和24年の6月マックアーサーの手紙から国鉄は改組されて運輸省から離れ新たに日本国有鉄道という所謂パブリック・コーポレーションとして発足することになりその初代総裁を決めるに当って、自薦、他薦色々の人物の登場となったが、その権限を知ったり殊に12万人の首切りをひかえているのでは普通の頭を持った人なら飛びつく筈がない。


 案の定様子が解るにつれて皆が皆尻込みをし結局次官である下山君に持って行く他はなかろうということになった。その当時下山氏が『大臣が俺に暫定的に総裁をやれという。誠に失敬な話だがどうしたものだろう。』と相談された。私は言下に『この国鉄の重大な時機に暫定とは何事だ。そんなことならはっきりお断りなさるがよかろう。』と答えたら下山氏も『俺もその通りだと思う。』と言われ、これは大臣の失言ということで更めて是非お願いするということになり初代下山総裁の実現となったのである。下山総裁は就任の直後私の手を何時になく固く握って『国鉄の為にどこ迄もしっかりやろう。』と言われ意気軒昻そのものであった。その時の氏の面持を私は今だに忘れることが出来ない。これが昭和24年6月1日。実に下山氏だからこそ誰にもましてこの仕事の困難さを熟知しその試練を経てこそ始めて国鉄の復興は遂げられることを信じ難事を覚悟して敢えて引受けられたと思う。



「国鉄のため」信念に燃えていた総裁の姿


 下山総裁就任後の最初の仕事は言う迄もなく運輸省時代から鉄道総局で検討に検討を重ねて来た大整理の実施であった。氏は極めて用意周到であり我々が気がつかないような点をも事務的に注意された。


 東京鉄道局時代に団体交渉では散々苦労を重ね、或る時は引揚げ台湾人の集団に局長室迄踏み込まれて暴行を受けたような経験もあり『俺は急所をやられてもビクともしないぞ。』と云っていた位で話合いの室迄こと細かに予め点検して机を二重に並べて相手方との間隔を広くとる事だの、組合員がこちらの側に入って来られないように室をぎっちり2つにしきるように机の両側を隙間なくすることだの、缶詰にされないように此方側の後にずっと他の室迄通り抜ける扉のあることを確認したり、それはほんとうに到れり尽せりで、ぼんやりした私など思いも及ばず敬服したものである。


 私は1つは負け惜しみと冗談交じりに『総裁総裁、こんな時には我々が頭の1つや2つなぐられた方がいいんですよ。』といったので下山氏も『それもそうだなあ。』と云って2人で笑い合ったものである。これ程の大仕事で我々がひどい目に会うことは覚悟の前だったし、唯心配なのは現場で直接この事務を扱う幹部の身の上であったが、神ならぬ身の旬日を出でずして総裁の身にあんな異変が起ろうなどとは露程も考えられない。


 7月2日組合との最後の話し合いに於ける総裁の態度は稀に見るきっぱりしたものであり見事であった。話し合いは緊迫し組合側は『それではどうしてもやる気か。』と最後の駄目を押すと毅然として『国鉄の合理化の為だ。やらなければならないことはどうしてもやるのだ。』と宣言して立上った総裁の眉毛の間には持ち前の強い意思に国鉄を愛する固い信念が燃えているように見えた。




前日にもGHQと交渉を進めていた形跡


 矢は弦を離れた。我々は事務的に整理の具体的進め方の協議に入り、7月4日がアメリカ側の独立記念日であることからこの日は本庁関係の者に止め、現場第一次の整理言い渡しの日取りは7月5日と定められた。


 当時の状況としては、これだけの大きな仕事は政府とアメリカ側の強い支持がなければ単に法律だといっても国鉄のみの力では容易でない。従って万一の場合を慮りこれ等との連絡には特に念を入れていたわけである。C・T・Sでは1日も早くやれという。我々は万全の備を立ててからでないとやれないと主張しこのように決定したのである。その間7月の3日だと思うが、夕刻を過ぎてこの決定をしC・T・Sに下山総裁と2人で連絡の為に担当官のシャグノン氏を訪ねたが不在だった為、当直の将校にその旨伝達を依頼して午後11時頃帰宅した。その直後零時を過ぎていたと思うが下山氏から電話があり『シャグノンが東京駅から電話をかけて来て大変怒っている。俺の家へ来ると言って電話を切った。何かあったら又連絡する。』という話。



 私も寝ないで待機していると再び総裁から電話で『今シャグノンが帰ったよ。酒をのんでいるらしいが大きなピストルなんかを胸につけて何かくどくど言っていたが了解したと見えておとなしく帰って行ったから別に心配はない』という話。7月3日以前にやれといって居たのを5日にしたのが不満で一杯機嫌も手伝ってやって来たに過ぎないのだが、これが誇大に伝えられてピストルで総裁が脅迫されたなどと伝えられている次第である。


 尤も当時シャグノンあたりの処迄どこからか知らぬが随分脅迫めいた事があったらしくうそか本当か知らぬが『俺の車が今日3度もパンクさせられた。』とか言っていたし、その事件の前後は大きなピストルを何時になくいかめしく胸間にぶらさげていた事は事実である。シャグノンはかなり悪い事もしたが伝えられている程の大悪人ではなく、私は彼のことをドンキホーテを地でいったような人間だと思っていた。



もう少し捜索が早ければ……


 7月5日、我々は例によって午前9時から関係者が集って会議を開いていた。登庁されれば必ずお早うといって私の隣の総裁席につかれるのに今日に限って10時を過ぎても見えない。11時には揃って総司令部に行く約束になっている。


 おかしいなと思ってお宅へ電話すると平常通り8時一寸過ぎに出かけられたとの報告、それから手分けをして立寄られそうな処を片っ端から電話をかけても依然不明(総裁は出勤前に政府や政党、先輩達の処へ時々寄って来られることがあった)どんなに都合が悪くとも約束の時間はきちんと守られたし、殊に占領軍に対しては特別に気を遣っておられたことでもあり、不安がフッと頭の中をかすめたが我々のどの1人にも見当さえつかぬ。


 約束の11時が来たので私1人で総司令部へ出かけ話を済ませて帰庁したのがお昼一寸前、帰れば総裁がひょっこり出て来られて『今朝こんなのに会ってこんな話を聞いて来たぞ。』といつもの穿索好きの手柄話が出る位を予想して、帰るなり『総裁は。』と問うと『まだどうしてもわかりません。』という答、私は漸く最初の不安が胸の中一杯に広がって来るのを感じた。


 もう猶予はならぬので政府、警視庁、司令部等に直ちに連絡をして捜索の手配をとった。それからの事は新聞や色々のもので報ぜられた通りなので省略するが、私が今でも残念でたまらないのはもう少しこの手配が早ければどうだったかという事である。お伴の大西運転手さえ午後5時迄三越の南側でぼんやりと待って居り、最初は随分怪しまれたがこれは全く善意である事がわかった。三越に入られてからの足取りは今だに何も解っていないのが真相であろう。



数々の目撃情報もはっきりしない足取り


 私共の頭に最初にピンと来たのは労働関係の情報を得る為に誰かに会われてそのままその話に深入りされているのではないか、最悪の場合はそのまま何処かへ拉致されたのではないかということであった。


 この疑は今日も解けないが当時の事情からいうと最もあり得る事であった。三越の中や地下鉄線浅草駅や、現場附近で似た人を見かけたという人が出て来ているが、その誰れも下山さんとは一面識もない人々であって、捜査の材料になる程のものは1つもない。考えようによっては、事実をまぎらわしくする為に故意にこんなカモフラージュをする位の事は極めて簡単なことだ。



 翌6日早朝総裁は常磐線の線路上に言うに忍びないなきがらとなって発見された。悲痛というか憤激というか。当時の我々の気持を現わす言葉を私は知らない。



科学捜査、警察の捜査……決め手を見つけられなかった総裁の「死」


 自殺説は早くから人の口の端に上り、それを半ば断定的にあつかった新聞すらあったし捜査が困難を極めて来ると真先きに警視庁の捜査第一課では自殺説をもち出し、時の警視総監田中栄一君迄がその説をいとも簡単に述べたのであった。


 私はその瞬間から総裁が自殺されるわけのないことを信じていたが、自殺者の心理は到底普通にはわからないということも聞いていたので、所謂自殺説の根拠とされるものは一々調べて見たが科学的なより処は1つも見当らない。相変らずかんだとか土どり、足どりだとかを言って居って強力犯ならいざ知らず、智能的犯罪には全面的には通用しかねる議論ばかりである。



 私の知っている範囲ではこの調査に当って感心した事が2つある。1つは直後死体を解剖に附された東大病院の慎重な検査であり、1つは警視庁捜査第二課の智能的、科学的捜査である。一は科学的検証によって死後轢断と鑑定されたし、一はこれだけでも自殺説を全然否定する材料とも思われる総裁のズボンだけに附着したしぼる程多量の特種の油(現場附近からはもとより検出されないし、機関車の放出する油とは全く違うもの)と取っ組んで都の内外40数ヶ所の油について涙ぐましい位の検討が続けられたが、遂にきめ手となる発見が出来なかったことは返す返すも残念なことであった。


周辺で起こっていた、いくつかの不思議な出来事


 考えれば考える程当時不思議なことが起きた。5日の夕刻行衛不明が伝えられた直後位東鉄の労働組合事務室に電話があって総裁が自動車事故で亡くなったとの報せがあり組合員が喚声をあげた(これは後で尾久駅からの電話とまでわかったが誰がかけたものか遂に判明しない)という報告だの、同駅の便所の中に下山と書いてこれを抹殺する×が書いてあったり、事件に一番関係が深いと見られる田端機関区では7月1日から9日迄の業務日誌が切り取られていたり、問題の貨物列車は起こし当番が乗務の機関士を起こすのが遅れその上何時の間にか機関車のかまのプレッシャーを下げてあって、その為に発車が16分位も遅らされたりした事実がある。



 一番最後のものなどは前に通過する電車と貨物列車の通過との間隔を引き延ばし作業をし易くする為の故意の行動と見られないことはない。そうとすれば明かに犯罪に関係があることになるのだが、不思議にも偶然の出来事ということになり、因果関係は遂にたぐり出し得なかったのである。



やたらと国鉄を非難に躍起になる共産党


 共産党の連中は或はドイツの国会焼打事件を例にひいて右翼の陰謀であると宣伝し又一方では心ならずも職員を整理することが良心の苛責に堪えられなかった為の自殺だなどと誠しやかにとなえた。何故こう自殺、自殺と問われもせぬのに宣伝しなければならないのか。私にも不思議に思われたが、後で考えれば同月25日、20日間を置いて三鷹の電車暴走事件が起きた。この時の事件発生と同時に現場で党員が六三型の自然発車だとわめきたてた。


 越えて8月18日、同じく20日程置いて松川では自然脱線顚覆と思わせるような事件が起きた。当時は共産党の活動に国会や新聞などに国鉄線の脆弱な処や欠陥を誇大に撮影して売り込み、かく国鉄はきずだらけだ、これは幹部と組織が腐敗している為だと宣伝に躍起であったことがあった。真相であるならば国鉄が予算を得る手伝いをしてくれるので甚だ結構なのだが、多くは欺瞞であり最大限の誇張が主であった。



下山、三鷹、松川で続く3つの事件の共通点


 当時我々がひそかに得た情報に正確な言葉は忘れたが『革命の近いことを確信して各自が持場持場で飽く迄闘争をすること。革命を起こすには先ず人心不安を起こす事が先決であること。社会や施設の欠陥をついて、その欠陥の為に人心不安をかもすような事件が次々と起るよう企らむこと。それはどこ迄も人為的でなく自然発生的に見せかけるよう仕組むこと。』というような趣旨の指令がある。


 私はこの指令と3つの相次いだ何れもせいさんな事件との因果関係までつきとめていないから勿論何とも断定出来ないが、これらの事件がいずれも社会と施設の弱点をついたものであり、揃って自然発生的に起きたことに何だか関連性があるような印象をどうしても払い除くことが出来ないのである。


 下山総裁の死はこのように依然疑雲に包まれたまま6年を閲し、近親をはじめ我々関係者一同悲涙をとどめる術もないが、国鉄としては多年の懸案の1つが解決して合理化への軌道はひかれ、一方労働組合の反省をも促す契機となったことは事実であり、同時に一般の経営者側の奮起もみられるようになり、我が国の産業史上一時機を劃する様になった。



 総裁の死はこの点からいえば単なる徒死ではなかったと考えるのであって、故総裁の霊も今後国鉄の再建が真の実を結び、我が国の自立経済が確立された暁には僅かに慰められるところがあるのではないかとひそかに思うのである。    


(緑風会・衆議院議員)



(加賀山 之雄,小池 新/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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