「『万引き家族』は犯罪行為を助長する」という人々に伝えたい大事なこと

7月2日(月)11時0分 文春オンライン

 映画やテレビ、書籍などの文化から、反社会的な内容を排除しようという動きが進んでいる。


 カンヌ映画祭でパルムドールの栄冠を手にした是枝裕和監督の映画『万引き家族』は、家族ぐるみの万引きや幼女誘拐などの話が出てくる。これに「万引きと言う犯罪行為を助長してしまわないか」という声が出た。また、中学生の少女と誘拐犯の生活を描いた漫画のドラマ化作品『幸色のワンルーム』にも「実際に起きた誘拐事件を肯定的に描いている」と批判が出て、東京のテレビ朝日は放送を取りやめた。


「相模原事件」被告の手記刊行という話も浮上


 これらの騒ぎに続いて、相模原市の知的障害者施設で46人を殺傷したと起訴されている被告の手記が刊行という話が浮上した。出版を取りやめるよう求めた2000人の署名が版元に提出されている。NHKの報道によると、署名を提出した大学教授はこうコメント。「被告の差別的な思想が本という形で拡散すれば同調する人が増えるおそれがあり危険だ」


 確かに46人殺傷事件の被告手記については、注意が必要だ。被告は「意思の疎通が取れない人は安楽死させるべきだ」などと露骨な差別発言を行っており、そのような発言そのままの手記が刊行されれば、ヘイトスピーチに該当する可能性もあるからだ。しかし出版社は手記だけでなく、専門家の意見や被害者の家族の声も併せて掲載するともしている。まだ完成した書籍が表に出ていない時点では、その可能性は判断できない。



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 加えて、犯罪者の書籍については印税の扱いの問題もある。米ニューヨーク州には「サムの息子法」という法律があり、加害者が書籍の出版や映画などから得た収入は、犯罪被害者への補償のために取り上げることが定められている。日本でもこの議論は必要だろう。


 上記の注意点に留意した上で、『万引き家族』『幸色のワンルーム』、46人殺傷事件手記の三つのケースについて考えてみたい。共通していることは二つある。第一は、それらの作品が公開・放送・刊行されていない段階でいずれも批判が出てしまっていることだ。つまり内容がどのようなものなのかが問われないまま予防的な規制が求められてしまっており、これは表現の自由の観点からきわめて危険である。



私たちの社会は凶悪犯罪とどう向き合うのか


 第二に考えなければならないのは、私たちの社会が凶悪犯罪とどう向き合うのかという論点である。


 もちろん、犯罪は許してはならない。犯罪を実行し、それが立証された者は罪を償わなければならない。またそういう犯罪が起きないように、社会は抑止力を持たなければならない。これらは当然のことである。


 しかし一方で、私たちの社会は決して完璧にクリーンな場所ではない。この平和に見える社会の薄皮を一枚めくれば、そこには犯罪者や逃亡者、暴力団、半グレなど、社会の裏側で生きる人たちがうごめいている別の層が立ち現れてくる。こうした異世界は、決して消えてなくならない。


 さらには「モンスター」としか呼べないような、犯行理由がさっぱり理解できない者による凶悪犯罪もある。


 私は1980年代の終わりから90年代の終わりまで毎日新聞で事件記者稼業をしていて、たくさんの凶悪事件を取材した。新聞紙面に書いた事件の数は、100件は下らないと思う。殺人や強盗、誘拐などの凶悪事件の多くは、貧困が理由だったり、愛憎だったり、さまざまな要因がからみあっている。明らかに「社会が悪い」としか言いようのないケースもある。



本当に理解できなかった「東電OL殺人事件」


 しかし中には、本当に理解できない事件もあった。たとえばこれは加害者ではなく被害者の側の話だが、1997年に東電OL殺人という驚くべき事件があった。東京電力に勤める女性社員が、渋谷の場末のアパートで殺害されているのが見つかったというもので、捜査によって被害者の意外な素顔が明らかになり、世間を驚かせた。彼女は慶應義塾大学を卒業し初の女性総合職として東電に入社したエリートだったが、勤務が終わると渋谷のホテル街の路上で街娼をしていたのである。


 犯人は彼女の売春の客と推定され、ネパール人男性が逮捕された。いったんは無期懲役が確定したが、その後証拠不十分で再審無罪となっている。真犯人はいまだにわかっていない。


 事件が起きた時、私は毎日新聞社会部の警視庁捜査一課担当で、後輩と一緒に被害者の周辺をかなり綿密に取材した。しかしどんなに取材しても、なぜ彼女が街娼などをしていたのかという心の深部については、結局よくわからない。彼女の語った言葉をいくら探し出しても、その向こう側にあったであろう心理までは読み取れなかったのだ。取材の限界というものをひしひしと感じた。



「勝てない。小説だけができる仕事だ」


 この事件から6年後、ある小説が刊行された。作家・桐野夏生さんの『 グロテスク 』(文藝春秋)である。この小説を書店でなにげなく手に取り、購入して読み始め、そしてすぐに東電OL事件をモデルにした小説であることがわかった。そして一晩かけて一気に読み終えて、激しく打ちのめされた。あれほどまでに取材したのにまったく理解できなかった被害者の心情が、フィクションでしかないはずのこの作品には鋭く暗く、強い説得力を持って描かれていたのだ。


「勝てない」と思った。「事件記者にはこんな力はない。小説だけができる仕事だ」と思った。小説や漫画、映画、ドラマには、こういう想像の力がある。もちろん、フィクションはフィクションなのでそれが真実であるかどうかはわからない。しかし想像力という翼によって、見えない闇の部分に光を照射することはとても大切だ。



 加えれば、ノンフィクションであっても当事者によって書かれたものは、第三者の取材では描ききれない重さを持っている。埼玉愛犬家連続殺人を共犯者の目から描いた、タイトルもそのものずばり『共犯者』(新潮社)という本はその典型で、園子温監督の映画『冷たい熱帯魚』のモデルにもなった。


「犯罪者だからこそ書ける文学」もある


 最近では、2011年に出た『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』(幻冬舎)という本もある。英会話学校講師のイギリス人女性を殺害し、逃走し続けた加害者が、逃走の日々をみずから描いたものだ。この本が出た時に私は朝日新聞読書面の「売れてる本」コーナーで取り上げ、こう書いた。


「罪を問われた者が国家権力から逃げ続けるという逃亡譚は、物語の大きなジャンルのひとつとなっている。19世紀の『 レ・ミゼラブル 』や『 罪と罰 』、アメリカのテレビドラマで映画にもなった『 逃亡者 』。日本でも吉村昭氏の『 長英逃亡 』など、この分野には傑作秀作が目白押しだ。そういう潮流の中でとらえれば、本書も卓越した逃走譚のひとつである」


「ところどころで被害者への謝罪も語られるが、言葉に真実味はあまりない。被害者との間に何があったのかも明確に語られていない。しかしそれが結果的に本書を、ピュアな逃走の物語へと昇華させていると思う。そういう意味でこれは立派な文学だ」


 この書評は「犯罪者の書いたものを文学と呼ぶな」と批判もされた。しかし犯罪者だからこそ、書ける文学もある。古い例で言えば、1960年代の連続ピストル射殺事件の犯人、永山則夫がそうだ。米軍キャンプから盗んだ拳銃で4人を射殺した永山は、逮捕後に『 無知の涙 』という手記を書き、ベストセラーになった。続く著書『 人民をわすれたカナリアたち 』も合わせて、印税は4人の被害者遺族に支払われている。



永山は獄中で精力的に執筆活動を続けた


 永山は獄中で精力的に執筆活動を続け、1983年には『 木橋 』という小説で新日本文学賞を受賞した。そして1990年、死刑が確定した年に日本文藝家協会に入会を申し込む。しかし協会は入会を拒否し、これに抗議して中上健次や筒井康隆が協会を脱退する事態になった。


 筒井は「自分だって人を殺すかもしれないという認識や想像力のない者が小説を書いてはいけない」とコメントし、これが報道されて「お前は殺人を認めるのか」というたくさんの批判が出た。


 筒井は、直後に朝日新聞に寄稿した短いエッセイ『おれは逃げた』(『悪と異端者』中央公論社に所収)で自分の考えを詳しく説明している。筒井は以前から人を殺し、警察に追われる夢を見続けていたという。汗をかいて目覚め、しかし夢でよかったとホッとする。


「しかし実際に人を殺し、死刑宣告された者の身の重さは、夢などから類推できる筈がないのである。その重さを人並み以上のすぐれた文章で表現できる人物が入会を求めてきている。三顧の礼をもって迎えるべきではないか」


「拒否の決定があったということを知ったときは身の置き所の悪さを強く感じた。作家の集まりを『虞犯者(佐々木注:犯罪を犯す恐れのある者)の集団』と認識して反体制的な梁山泊のごときロマンを求めていたことは間違いだったのだ」


「戦争に関係した人だってたくさん会員にいる筈だろう。その人たちに『罪あり』の現象はないのだろうか」


 筒井がこのエッセイを書いてからすでに30年近くが経っており、社会における倫理の感覚はかなり変化している。しかし社会の倫理が変化したからと言って、理解できない凶悪犯罪に走る者がいなくなるわけではない。



凶悪犯罪の謎を問い続ける意味


 相模原46人殺傷事件の被告も、そういう理解できない者のひとりだ。私はこういうモンスター的な犯罪について社会に要因を求めすぎるのは無理があると考えているが、しかし彼らのような凶悪犯罪者が決して消滅していかない以上、その謎を問い続けることは意味があると考えている。そのために犯罪者の自己表現には価値があるし、フィクションとして犯罪を描く映画やドラマ、漫画、小説にも大きな価値があると考えている。


 モンスター的な犯罪は理解しにくい。しかし「何を考えているのかまったくわからない」という認識も含めて、認識しようとすることは大切なのだ。実際にそこに存在している闇を、覆い隠すだけでは決して認識は深まらない。













(佐々木 俊尚)

文春オンライン

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