加藤千洋の「天安門クロニクル」(2) ついに戒厳軍が動いた(下)投石と火炎瓶に発砲

7月8日(日)11時45分 J-CASTニュース

学生支援の輪は日に日に広がった。運転席に「学生万歳」の張り紙をした北京市営地下鉄も(1989年5月、加藤千洋氏撮影)

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天安門事件が起きた1989年6月3日。私が戒厳軍の動きを察知したのは午後10時40分から50分ごろだった。その時、北京市西部の繁華街・西単の北にある友人Aの自宅にいた。ある共産党中央機関の宿舎で、5階建てだったか、6階建てだったか、いまは正確に思い出せない。エレベーターのない旧式アパートで、最上階の友人宅を尋ねると、涼しいからとベランダに出て、缶ビールを飲んだ。蒸し暑い新月の夜だった。


午前11時前、花火のような音が...



遠方から、西と南の方角と感じたが、打ち上げ花火のようなパーンとか、ポンポンという乾いた音が聞こえ始めた。最初は花火かなと思った。


戦時中に日本留学経験のあるAは当時60歳を超え、党や政府の公式文書の翻訳を担当する部門の幹部だった。過去の政治運動で苦い経験をしてきた彼ですら、「学生たちも引き際だな。もう座り込みも続かないな」という見通しを語っていた。取材先の何人かが同じような見解を持っていたことを、私は情勢判断の根拠にしていた。


しかし、そうではなかったのである。音が段々と近づいてくる。酒好きで、缶ビールを3本ほど飲んでいたAの表情が変わった。


「おい、これは始まったぞ」


その夜、私は自転車でAの宿舎を訪ねていた。党の職員の自宅を外国人記者が訪ねること自体、当時は"危ない"行動だった。隣人に察知されて職場に報告されると、彼に迷惑がかかる恐れがあったからだ。


まさかタクシーで乗り付けるわけにはいかないので、自転車はそのためのカモフラージュであった。というより当時の北京中心部の交通事情はマヒ状態で、主要交差点には戒厳軍の進駐を防ぐために学生・市民が中央分離帯を移動させたり、大型バスなどでバリケードを築いたりなど、車は通行できず、有効な移動手段は自転車と人力車になっていた。



締め切り後に変わった見出し



Aも自転車に乗り、二人で長安街の西単交差点に向かった。いや向かおうとしたのだが、交差点の方から群衆がワーッと叫び声をあげながら、猛烈な勢いで逃げてくる。西からすすんできた戒厳軍の先頭部隊が、すでに西単近くまで接近し、その進軍を阻止しようとする群衆がレンガ片や石、そしてごく少なかったが火炎瓶も投じられた。戒厳軍は容赦なく発砲。クモの子を散らすように、群衆が逃げてきたのだ。皆、目が血走っていた。もう前には進めない。


「あんたは朝日の支局がある広場より東側に行った方がいい。長安街は危ないだろうから、胡同(フートン)を通って行け」。いつも陽気なAがいつになく真剣な口調だった。従うことにした。それが午後11時半ごろだったか。


さて、『AERA』の見出しがちぐはぐになった理由である。最終締め切りが過ぎた北京時間4日午前2時前(日本時間午前3時前)、一旦戻った宿泊先のホテルから東京・築地の朝日新聞本社内の『AERA』編集部に国際電話を入れた。なんと担当デスクが残っていた。


「武力鎮圧が始まったようです。見出しだけでも変えられませんか」


必死に訴えた。結果、3本目の見出しだけ、やっと差し替えてくれたのだ。『AERA』の印刷は印刷会社に外注していたが、印刷会社の担当者が必死の作業で、一本だけ取り換えてくれたと後で聞いた。


(次回は「バラと戦車」上)


                           

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