「天皇を爆ダンで」関東大震災で巻き起こった騒動「朴烈大逆事件」はデッチ上げだった!?

8月4日(日)17時0分 文春オンライン


朴烈大逆事件は支配階級の巧妙なデッチアゲだった! 筆者は左翼運動研究家として真相を最もよく知る人


初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「朴烈文子大逆事件」( 解説 を読む)



デッチアゲ? 物的証拠もないまま大逆罪となった「朴烈事件」


「朴烈事件」とは大正12年9月の関東大震災のまっさい中に、朝鮮人朴烈(本名朴準植)とその妻、日本人金子文子とのふたりが共同謀議して、大正天皇を殺そうとする目的で爆ダンを手に入れようとしたのが発覚したというのが表面上のいきさつである。



朴烈氏 ©文藝春秋


 だが、この事件には何ひとつ客観的な物的証拠というものはない。爆ダンもなければ、爆ダンに似たものもなかった。そしてただ「天皇を殺そうと思った」だけであり、そのために「爆ダンを手に入れようと思った」だけであるということになる。それでいながらいつのまにか大逆事件にされてしまった。文字どおりのデッチ上げである点では今日の三鷹事件や松川事件と、事件の本質はまさにそっくりである。


 それなら何故に裁判所や警視庁が、よってたかって朴烈、文子のふたりを、しゃにむに大逆罪という大罪にたたきおとさなければならなかったか。その理由は、当時の社会性の特別に重大な事情の中にあったのである。


関東大震災で巻き起こった「鮮人さわぎ」


 重大な事情とは何か。関東大震災のまっさい中に、いわゆる「鮮人さわぎ」というものがおこり、そのどさくさまぎれに、関東一たいにわたって軍隊や警察や自警団の手でおこなわれた、3000名に近い朝鮮人の大虐殺のことである。


 関東大震災は人もしるとおり大正12年9月1日午前11時59分におこった。そして午後4時ごろには、東京の本所深川をはじめ、日本橋から浅草、神田の一たいは火の海となり、横浜はほとんど灰になっていた。そして、朝鮮人さわぎはそのような焼け跡の港となった横浜に、はやくもその晩のうちにおこったのだ。焼け出された何万かの横浜市民は、波止場にちかい税関の原っぱににげこみその晩はそこで野宿した。いのちは助かったがたべ物がない。飢えきった彼らが思いついたのが税関倉庫にある輸入食糧である。倉庫をやぶってそれをもち出すことである。そういう避難民の要求の先頭に立って、勇敢に倉庫やぶりをしたのが、同じ場所に避難していた右翼団体の頭目、立憲労働党総理山口正憲とその女房である。彼らは右翼のくせに、ふだんでも赤旗赤ハチマキでおしあるいていた。そのときも赤旗をおし立てて群衆を指揮せんどうし倉庫をやぶって食糧をもち出し避難民にわけてやった。



 ところがそれだけでよしておけばよかったのに、そのあとが悪かった。山口正憲一派は倉庫やぶりの責任をまぬかれるために、それを朝鮮人になすりつけた。「襲撃したのは朝鮮人だ。朝鮮人がやったのだ。」と焼けて灰になった横浜の街の中を、その晩さかんにどなってあるいた。この悪質なデマ宣伝と彼らが赤旗をおし立てて襲撃したこととがひとつになって、社会主義者が朝鮮人と一しょになって、いたるところに火を放ち、乱暴ろうぜきのかぎりをつくしている、という、世にもおそろしい流言蜚語に、いつのまにか変っていったのである。



「朝鮮人にしてバクダンをたずさえて横行するものあり」


 その晩、猛火の中を横浜から東京ににげてきた憲兵のひとりは、それを本気になって内務省にうったえ出た。


 たまたま、加藤友三郎内閣がたおれたのが8月の末で、山本権兵衛内閣が焼けのこった赤坂離宮で組閣したのが9月2日の夜だった。そのような政治的空白状態の中で、内務省に居残っていたのが、加藤内閣の内務大臣水野錬太郎である。水野は、かつて朝鮮総督府の内務部長をしていたこともあって、朝鮮人をひどくおそれていた。それに生れつき気の小さい男なので、憲兵の訴えをきくと、すっかり青くなった。そこであらゆる警察の通信網を総動員して、その情報を関東一たいに流し、各地でてきとうな対策を立てることを命ずると同時に全国に向ってつぎのような無電を打った。



「朝鮮人にしてバクダンをたずさえて横行するものあり。社会主義その他不逞無頼の徒これに和し放火掠奪いたらざるなし、各位においてしかるべき御手配をこう。」


「朝鮮人さわぎ」の流言蜚語が風のようにとぶ中を、それも内務大臣の名前で堂々とこのような伝達が流されたのだからたまらない。無警察同様になった東京の焼け跡でたちまち朝鮮人狩りがはじまった。


 亀井戸署では600人の朝鮮人と11名の日本人社会主義者が軍隊の手で殺された。多摩川では習志野の騎兵連隊の包囲攻撃をうけて400人が全滅した。埼玉県妻沼近くの利根河原でも300人の老幼男女が殺された。その無慚さはこんどの終戦当時の満洲で開拓団の人びとが匪賊に殺されたのとまさに同じありさまだった。こうして関東地方一たいで2000人以上、3000人に近い朝鮮人の大量虐殺が公然とおこなわれたのである。


「なぜ大虐殺はおこなわれたのか?」外務省にもちこまれた抗議


 東京にいた外国の大使館員や公使館員は、そのとき一せいに日比谷の帝国ホテルに避難していた。たまたま、食堂での雑談のときにこの大虐殺が問題になった。中でも一ばん強硬だったのはアメリカ大使だった。「このようなおそるべき大虐殺が公然とおこなわれる日本という国は、断じて文明国とはみとめられない。ことに、それを平気で見ていてとめようとしない日本政府は世界中でも一ばん野蛮な政府である。このような政府と国民とを相手にして、われわれは今後とも正常な国交をづづけてゆくことができるだろうか」とさえいい出した。そして、各国の大使公使の名をつらねたげん重な抗議文が外務省へもちこまれた。



 外務省はあわてた。とくにこの際アメリカのごきげんを損じては震災の救援物資ももらえないことになるかもしれない、というさもしい根性も手つだって、こんどは逆に朝鮮人虐殺を禁止させた。そのため、だいたい9月8日あたりから、15、6日ごろにかけてようやく事態は平静にかえったのであった。


 だが、ここでひとつ、とても厄介な問題がのこった。それは朝鮮人を3000人近くも何故に殺さなければならなかったか。その原因を外国に向って説明しなければならないことだった。それには朝鮮人が大震災のどさくさまぎれにおどろくべき悪事を企てた。だからこそ日本人の反感を買ってあんなことにもなったのである、ということにしなければならない。そしてとうとういつのまにか官憲の手でデッチ上げられたのがすなわち朴烈事件である。



知識欲に溢れ、成績優秀だった幼少期の朴烈


 朴烈は明治32年に、朝鮮慶尚北道聞慶郡の麻城面格里という村にまずしい農民の子として生まれた。朴烈の子供としての最初の記憶は日露戦争であった。日本の第一軍の先発隊がまず釜山に上陸した。そして京釜鉄道が日夜ぶっつづけの突貫作業で布設された。朴準植のいる麻城面から20里ほどはなれた慶尚北道の金泉洞にも停車場ができ、目新らしいペンキぬりの家々がそのまわりにたてられた。ぴかぴか光る2本のレール。その上を煙をはきながらすばらしい勢で走る長い大きな箱。その箱には窓が一列にあいていて、下には車がついている。生まれてはじめて汽車というものを見た朝鮮人は、おどろきの眼を見張ってこのごうごうと走る箱をながめた。10里20里の遠くからべんとう持ちで、ぞくぞくと見物にいった。朴準植の一家ももちろんその中にいた。前の年に父に死なれたこの一家は、未亡人になった母親と、幼い姉と幼い弟ふたりの4人づれだった。まだ4才にしかならない末弟の朴準植は、汽車の窓からのぞいている日本兵を見て、


「島のお玉じゃくし(日本人のこと)がたくさんやってきた」


 と叫んだ。


「準植よ、黙っておいで。そんなことをいうとウエノム(夷)がお前さんをうちころすよ」


 と姉がたしなめた。朴烈はわずか4才にしてはやくも日本帝国主義に対する抵抗をその幼い胸に感じていたのである。


 やがて朴は咸昌の公立普通学校(日本の小学校にあたる)で新しい教育をうけるようになった。彼の知識欲はすばらしかった。成績はいつも優等だった。


朝鮮語は使用禁止 被圧迫民族としての怒りが芽生えた差別環境


 日露戦争のあと、初代の韓国総監伊藤博文が朝鮮の志士安重根のためにハルピン駅で暗殺されると、それを機会に日本は朝鮮を併合して日本の領土にした。



 その結果は朝鮮人と日本人とのあいだに極端な差別待遇がおこなわれ朝鮮人は日本人の奴隷同様になった。たとえば、朝鮮人はアヘンを密売すると厳罰にされていたが、日本人ならいくら売っても罰せられない。小学校では表向きは日本人と朝鮮人とは同文同種、平等一体だとおしえておきながら、じっさいは日本人の小学生はいくら成績が不良でもいつも上席についていた。学校では朝鮮語をつかうことを厳禁され、日本語をつかわないと罰をくった。朝鮮の歴史や偉人英雄のことは全然教えてもらえない。このような社会環境の中に頭脳優秀にして感じやすき少年朴準植の10代はすごされていった。そのためにいつのまにか被圧迫民族としてのはげしい怒りのほのおを胸のおくふかく燃え上らせるようになったのである。



夏目漱石を読み、民族独立のリーフレットを秘密出版した青年時代


 やがて朴は普通学校の卒業成績がとくに優秀だったため、慶尚北道の道長官からすいせんされて、大邱の高等普通学校(中学)に入学することができた。だが家が貧乏で学資がないのでやむなく師範科の給費生となった。この高等普通学校でも日本語しかつかうことを許されなかった。英語も朝鮮語も禁止されていた。しかも、師範科の給費生であるがために、学校の当局からはいろいろな抑圧と制約を加えられるし、同じ大邱の私立学校の朝鮮人学生からは「内地化した野郎」とののしられてつねに心楽しからざる日をおくらなければならなかった。この民族愛に燃えながらも進歩的で知識欲のさかんな中学生はいつとなくまったくの孤独におち入っていった。そのためにかえって木下尚江や夏目漱石、小川未明、竹越三叉などの書物によみふけるようになり、しらずしらずのうちに民族的抵抗心と社会主義精神を同時に心の中に育て上げるようになったのである。



 朴烈19才にしてさしもの長かった第一次世界大戦もおわりをつげた。アメリカのウイルソン大統領が新しい平和のスローガンとして叫んだ「民主主義」と「民族自決」の声は世界中に鳴りひびいた。その叫びが日本帝国主義にしいたげられてきた朝鮮人民の胸を魂の底までゆりうごかしたのはいうまでもない。それは大正8年3月1日の万歳騒動となってばくはつし全半島は民族の自由と独立を目ざす一大暴動の波をもっておおわれた。朴烈ももはや師範科の一学生として学窓の中にじっとしてはいられなくなった。彼はおしげもなく学業をすて革命的実践へとつきすすんだ。そして京城に出て民族独立のためのリーフレットを秘密出版して街頭でまきちらした。


 だが、このことのために、憲兵や警察のきびしい追究をうけ、朝鮮にいたたまれなくなった彼ははるかに弾圧の少い日本ににげてきた。時に20才である。


金子文子との出会いまで


 東京に現われた彼は新聞売子や新聞配達、製ビン工場の労働者、人力車夫、ワンタン屋、夜警、朝鮮にんじんうり、朝鮮あめ屋、深川の立ちん坊、中央郵便局の集配人、という風に、およそあのころ日本へ渡ってきた朝鮮人がそうであったように朴烈もまた、たえず警察の妨害をうけては職業をかえた。


 そのうちに、だんだん大杉栄の革命的無政府主義の影響をうけ、いつか無政府主義の旗、黒旗の下にあつまるようになった。やがて大杉の労働運動社や印刷工の黒風会とはべつに、朝鮮人だけの無政府主義団体黒濤会をつくり、彼はその中心的なはたらき手となったのである。



 一方、金子文子の故郷はたしか静岡県だったと思う。朴烈とおなじ明治32年の生れである。はやく父に死なれた彼女は8才のとき母に捨てられ、朝鮮の忠清北道芙江にいた伯母に引きとられた。それから女中、女工、女給、なっとううり、その他、さまざまな職業へつきながら放浪に近い生活をおくった。そのうちにいつかはげしい時代の潮流の中にまきこまれて彼女もやはり無政府主義者となり、ついに朴烈と同志的結婚の道をえらぶことになったのである。これには彼女がおさないときから朝鮮でくらしたことが、大きな力になったのはいうまでもない。そして、朴烈文子のふたりは黒濤会の旗の下に、勇敢に革命運動をおしすすめているうちに、ついに宿命の関東大震災がおそいかかってきたのである。



天皇陛下を殺そうとした」大逆罪で起訴される前日譚


 震災のすぐ前のころ、たしか8月中のことだった。朴烈がひそかに人を上海に送って爆ダンを買い入れにやった、といううわさが社会主義者のあいだにひろまった。そして、爆ダンを買いにいった男は暁民会の原沢武之助だともいわれていた。このようなうわさはその頃の情勢では当然警察の耳に入る。そして、耳に入ったからこそ、たちまち朴烈と文子のふたりを爆発物取締規則違反で起訴したのだ。


 だが、何ひとつ物的証拠はない。ただ、証拠とみとめられるのは前にものべたように「爆ダンを手に入れようと思っていた」という朴烈の陳述と、「自分もそのことはしっていた」という金子文子の陳述だけである。もちろんこんな陳述だけではてんから問題にならない。しかし、検察当局としては一たん針のメドほどの穴があいたらもうしめたものである。あとは悪らつきわまる誘導訊問とだましこみ、おどしこみの戦術で、その穴を彼らの思いどおり大きなものにすることは何でもない。



 とくに悪かったのは大震災の3、4日まえのことである。雑誌の口絵にあった、大正天皇の写真を柱にはりつけ、その前で朴烈が「こんちきしょう」「こんちきしょう」といいながら短刀でめったやたらに突きさしていたことだった。その現場を開け放した座敷の窓から尾行の刑事に見られてしまった。このふたつのことから、「爆ダンを手に入れようと思った」ことと、「こんちきしょう、こんちきしょう」をうまくからみあわせて、デッチ上げればそこに十分大逆事件が成立しうる。つまりは「天皇を殺すために爆ダンを手に入れようとした」というデッチ上げが成功すれば旧憲法第73条に該当するということになる。もしそういう結論へもってゆければ、ときの政府憲政会内閣の方針とまさにぴったり合うことになる。朝鮮人の中には「天皇陛下を殺そうとした」こんな悪い奴もいたからこそ、震災当時に日本人の怒をかってあのような大虐殺がおこなわれたのだ、ということになって諸外国のいろいろな非難に対していく分でもいいわけが立つ。政府の目ざすところはただその一点にある。ここにおいてか検察当局の頭も、当然のこととしてその方向へ急速に傾斜していったのである。


利用された金子文子の特異性格


 このような政府の謀略の手先につかわれた大逆事件デッチ上げの大仕事を引きうけさせられたのが、世に名をうたわれた声楽家立松房子の亭主であり東京地方裁判所の判事である立松懐清だった。


 立松判事がまず眼をつけたのが金子文子の特異な性格だった。幼くして母に捨てられ朝鮮に流れ、無慈悲な伯母にいじめられた彼女は、なみなみならず反抗的で狂熱的で捨て鉢で、おまけにしばしばヒステリックでさえもあった。それを見てとった立松判事は、彼女をたくみに誘導訊問にひっかけては、おだてたりなだめたり、おどかしたり、すかしたりした。そして彼女が理論的に追いつめられては、苦しまぎれの捨て鉢から興奮してヒステリックに吐き出す言葉のひとつひとつをひろい上げ、それを言質にとっては、つぎからつぎへとしめ上げていった。そして文子の陳述を裁判所の思う壺にはまるようにと追いこんではたくみに作り上げていったのである、たとえば「お前は無政府主義者なら当然天皇権力を否定するだろう」「もちろん否定します」「それなら天皇の存在そのものをも否定することになるね」「なりますとも」「それなら朴烈が何かの手段で天皇を抹殺しようと企てたときに賛成するね」「しますとも」「じゃ天皇を殺そうとするときにも賛成するね。お前は大逆犯人だ」という風に。そして、朴烈と文子のふたりこそは明治天皇を暗殺しようとして果さず空しく絞首台上の露ときえた革命家幸徳秋水と菅野須賀子の志をつぐものであるとまでもおだて上げた。こうして文子の方をまず憲法第73条にひっかけることに成功した。



 うまうまと文子をおとし入れた立松判事は、勢に乗じてこんどは主犯の朴烈に立ち向った。だが、朴烈は文子みたいにそうやすやすとはおとし穴に入れられなかった。



立松判事が用意した”おとしあな”


 立松判事は被告同志の対決訊問をするという名儀で朴烈と文子を地方裁判所の自分の部屋によびよせた。そしてふたりをならんですわらせて自由にしゃべらせた。朴烈は思わず文子の手をにぎる。つづいて体を引きよせる。それでも判事はだまって見ている。長いあいだ牢獄の中で空しく引きはなされていた若い肉体と肉体は、こうして相ふれあった瞬間、たちまちほのおとなって燃え上った。朴烈は文子を膝の上に抱き上げる。文子も朴烈にからみつく。判事はニコニコしている。がまんでできなくなったふたりは、思わず狂熱的な接吻を交わす。それでもやはり立松判事はニコニコしている。さらに長い長い、狂気のような接吻がつづく。



 このような対決訊問が3度か4度くりかえされた挙句、やがて立松判事は自分の部屋のカギ、大切な法廷のカギを朴烈文子のふたりにあずけておいて、自分は部下の書記をもつれ出して1時間もどこかへいってしまうことさえあった。判事も書記もいなくなった裁判所の一室、2つならべれば寝台ぐらいな大きさになる判事と書記との机もあれば長椅子もある。内部からドアにカギをおろして窓のカテーンを引いてしまえば、もうだれひとり入っても来られなければのぞきも出来ない。獄中で引きさかれている若い肉体がふたつ。そのような部屋の中におきざりにされた場合、いかなることが引き起されるかはだれにも十分想像できる。これこそが朴烈を大逆罪につきおとすための立松判事の最後のおとし穴であったのである。


「どうかあなたも私と一しょに死んで下さい」英雄主義を選んだ2人


 その部屋にはじめてふたりだけになったとき、朴烈はまず文子の弱さを責めた。立松判事の陰険な謀略にひっかかってありもしない事実をみとめ、いつわりの証言をしたことを責めた。ところが文子は、逆に朴烈に訴えた。「たといいつわりの証言にしろ、もう証言をしてしまった以上、自分のいのちはない。あとはただ絞首台上の死をまつだけである。それよりほかの道はない。『絞首台上の死』。これこそがかつて幸徳秋水や菅野須賀子がえらんだ道であり、およそすべての革命家がいつかはえらばなければならない道ではないか。自分はいまやよろこんで絞首台上の死をえらぶ。もしこのままいつまでも牢獄につながれたままでいるならば、それはけっきょくなしくずしの死刑と同じことになる。そんなことになるよりも、どうかあなたも私と一しょに死んで下さい。一しょに絞首台にのぼって下さい。そのときこそ、ふたりの愛は永遠に輝き、ふたりの名は日本の、いな世界の革命史のいくページかを美しくかざるでしょう。」



 文子のこの言葉に朴烈は感動した。「なしくずしの死刑か」「絞首台上の死か」。朴烈もついに後者をえらぶ決意をかためた。「一そのこと自分も思いきって大逆犯人を買って出よう。そうして壮烈きわまりなき英雄的な死をとげよう」。朴烈はついに文子と一しょに死ぬことをちかった。いく年も牢獄にほうりこまれていて、しょせん助かる見込がないと観念した場合の囚人の心の底に英雄主義の光が照り渡るとき、このような道をえらびたくなるのが人間の弱さである。三鷹事件の第2審でみずからすすんでいつわりの陳述をおこない、すきこのんで「死刑」をえらんだ竹内景助の心境にもこれと同じ動きがあったのではないかと私は想像している。



結婚式の服装で臨んだ「死刑宣告の日」


 もちろん、朴烈が一どや二どで金子文子の訴えに従ったわけではない。いく度か同じ機会をあたえられ、同じ訴えをくりかえされているうちに、愛人金子文子をひとりで殺すにしのびなくなった彼はとうとう彼女の言葉へなびいてしまったのだ。立松判事が「わが事成れり」とこおどりしてよろこんだのはいうまでもない。


 大逆事件となるともはや地方裁判所でとりあつかうことは許されない。大審院にまわされて、それも判決はただ1審で決定される。いよいよ、大審院にまわされる直前、大正14年5月29日に沼義雄判事は裁判所書記黒瀬有蔵の立ちあいの上で市ヶ谷刑務所に朴烈をたずねた。



「被告がいままで述べたとおりだとすると、たんに爆発物取締り規則違犯だけではなく、大逆罪にもなると思う。そうなると法廷を大審院に移されるので自分もこの事件に干与し立松判事に協力することになった。そこでもう一どたしかめるが、いままでの陳述はすべて事実に相違ないか」


 と、あらためてダメをおした。すると朴烈はただ笑って答えなかった。


 同年6月2日、ふたりはあらためて大逆罪として起訴された。そして9月に入ると大審院のとくべつ法廷がふたりのために開かれた。裁判は6ヵ月以上かかった。そのあいだふたりとも、一貫して弁護士の弁護をことわった。大正15年3月25日にとうとう判決が下された。この日、朴烈も文子も朝鮮の習慣にしたがい、結婚式につかう正装をまとったはなやかな姿でさっそうとして法廷にあらわれた。黒い冠をいただき白の綾絹の衣をまとった朴烈と、青いチマに緋の色の裳をつけた文子の姿は人びとの眼をおどろかした。死刑宣告の日であるこの日をもって、ふたりは一しょに死ぬ日であり、死によってふたりの愛をつらぬく日であると思いさだめた。それだからこそ、こうしてとくに結婚式の服装をえらんだのだ。判決はふたりが望んだとおりに死刑だった。ふたりは笑って最後のあいさつをかわしながら法廷を去った。


「ちきしょうめ。よくもひとをバカにしやがったな」


 ところがそれから12日たった4月5日のことである。「朴烈、金子文子の両名ともその冒した大逆行為に対して、悔悟反省の情、顕著なり。依って死一等を減ず」という発表があった。「それは山よりも高く海よりもふかい皇室の御仁慈のおかげである」ともつけ加えられた。獄中でそれをきいた朴烈は「ちきしょうめ。よくもひとをバカにしやがったな」と、泣いて怒ったということである。こうして朴烈劇という日本の支配階級がたくらんだ猿芝居はすばらしい演出効果をもっておわったのである。ただ、朴烈と文子のふたりだけは、あれほどに思いつめてえらんだ死刑とその英雄主義に無慚きわまる肩すかしをくわされ、そして何よりも一ばんいやがった「なしくずしの死刑」である無期懲役にふたりはつきおとされたのだった。


 やがて千葉刑務所に移されたとき、朴烈は思いあまって絶食をつづけた。監視が厳重で自殺できない彼は絶食して自殺しようとしたのである。だが、それは半月のあいだ、いろいろと説得されてやっと思いとまるにいたった。だが、文子は2ヵ月ほどして、たしか6月のはじめだったと思う。梅雨のまっさい中に栃木市の女囚監の檻房で首をくくって死んだ。ときに26歳だった。



 やがて朴烈は千葉刑務所から大阪刑務所に移され、こんどの戦争中は秋田刑務所の中ですごした。千葉刑務所にいるうちに朴烈は転向を声明し、日本支配階級への忠誠をちかった。1945年10月、マッカーサーの解放で秋田刑務所から出てきた朴烈はもうむかしの朴烈ではなかった。すっかり右翼民族主義の信奉者に、極度に反ソ反共にさえもなっていた。この道は日本の無政府主義者の大半が戦争中にたどった同じ道であるが、ただ、獄中にいて世界の動きを正しく理解できなかっただけ、それだけ朴烈は極端な道をえらばざるをえなかった、というだけである。


 朴烈はいまでは韓国大統領李承晩の忠実な支持者となり、在日右翼朝鮮人の中の有力な闘士のひとりとなっているということである。


(作家)



(江口 渙/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

文春オンライン

「事件」をもっと詳しく

「事件」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ