「彼がいれば東条の時代は来なかった」真面目なインテリ軍人・永田鉄山はなぜ殺害されてしまったのか

8月11日(日)17時0分 文春オンライン


昭和10年8月、兇漢相沢中佐に殺害された陸軍随一のインテリ将軍永田鉄山の悲劇を故人をよく知る政界の黒幕たりし筆者が描く


初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「永田鉄山斬殺さる」( 解説 を読む)



「永田殺害さる」正直なインテリ軍人はなぜ殺害されたのか


 陸軍省軍務局長永田鉄山が相沢中佐に殺害された昭和10年8月12日は、私が関係していた国策研究会の定例午餐会の日で、当日は永田軍務局長と池田純久中佐とが出席、講演をする予約があったのである。ところが正午少し前になって、「永田殺害さる」という、驚くべき電話が池田中佐からあり、さらにおくれて池田中佐ひとり出席、生々しい話を聞いた。私は、永田には3度しか会っていないが、正直なインテリ軍人だという印象を、強く持っていた。



永田鉄山 ©文藝春秋


 とくに彼が軍務局長として鮮満視察から帰った後、相沢に殺される十数日前だったが、一夜会食した席上で、関東軍の満洲国に対する内面指導は、早く打切る必要があり、また朝鮮は軍備と外交とを除き、国内自治を許す方向にもって行く必要を痛感したと語ったことである。永田によれば、満洲国と朝鮮はともに、将来は独立をも許容するがよく、そして日満鮮の間は、同盟で結合させる方策をこそ考究すべしというにあったと思う、私はこの話を聞きながら、軍人と話しているというよりも、大学教授と語っているような気がしたし、静かに落ちついて説く彼に、ありふれた軍人などのもたぬ当時としては異例の卓見を聞いたつもりである。



 また、永田は軍人がよく国家革新を論ずるが、何を革新というのか、どうすることが、どんな方法と建設プランでやることが、国家を革新することなのか、さっぱり判ってはいない。重臣を殺したり、クーデターをやることは、もはや間違っているばかりでなく、危険でもあり、愚劣でさえある、しかし多勢の軍人のことだから、理論的にも確りした、建設的な具体案で、かつ漸進的で段階的に、かくすることによって革新出来るというものを、よく得心させる必要がある、といっていた。


 こういう聡明な軍人が、今日まで世上に邪智奸侫の徒としてのみ知られ、そして当時の反対派だった人々により、現在にいたるもなお、憎悪と悪罵とが執拗に繰返されているのは、何故であろうか。


 永田が殺されて以来、これは私が暴い間抱いてきた疑問であった。もちろん彼の悲劇的運命に対する同情もあるが、しかし永田のためにというよりも、昭和政界を震撼した一暗黒事件を解く鍵としての意味で、この疑問は徹底的に究明されてもいい筈だと、私は考えている。



三月事件と十月事件は本当に永田鉄山が計画したのか


 いわゆる三月事件は、未遂に終ったクーデター計画のことであるが、永田を攻撃する者の異口同音する点は、この事件の起案者は永田だということである。そして、これは広く信じ込まれた問題のようであるが、私が今迄に調べた限りでは、否定的な材料の方が多いようだ。過日も荒木貞夫氏に会ったので、この点を確めたところ、荒木氏は、永田起案説は事実だと思っておられるようだった。問題の文書、すなわち永田の三月事件計画案なるものを、荒木氏は持っていられるそうで、私は一度見たいと思っていたが、本稿を纒めるまでに、時間がなく、その機会を得なかった。



 そこで問題になるのは、この永田文書の真偽であるが、いま私の手許にある永田の手紙類や、起案書類などを一見すると、彼は無類の悪筆家で、甚だ癖の多い書体だから、荒木氏がもっておられるという永田文書は、私にでもすぐわかるだろうと思う。だから多年永田を部下として使われた荒木氏の言葉は、事実として疑う余地はないようである。


 しからば、永田は本当に三月事件を起案したのかという問題になると、色々とわからぬ経緯が出てくる。まず、当時彼の部下であった数人の人々に聞いて見ると、皆申合せたようにこれを否定し、積極的に肯定する者の間でも、精々メモ以上の文書とは見ない。この点では、永田とは同期生で、小畑敏四郎とともに、陸軍の三羽烏と謳われたA元大将も同様、永田の起案など、あり得ないことだと強く否定される。ところが、当時仕事の関係で、深い交友のあったB元大将によると、少し話が違い、そしていくらか事態がはっきりしてくるようだ。B氏の話によると、永田は青年将校への関心が強く、若い人たちの間でもまた永田への期待が大きく、それでB氏等も加わり、時局研究のような会合を重ねていた。その何回目かの会合で、大体の議論が出つくし、それを結論的に永田が皆の前でまとめたことがある。それは自分も知っているが、荒木氏の手許にあるという永田文書は、それではないかと思う。第一に考えても見給え、思慮は人一倍深い永田が、本当に自分で起案したものなら、そんな物騒な文書なぞ、金庫の中に置きっ放したままで、後任の山下奉文などに引継ぎはしない筈だよ、というのである。


 この三月事件に次いで起ったのが、十月事件であるが、まず、この事件に永田が無関係でいること、話は聞いていたかもしれぬが、計画に参加してはいなかったことを、明らかにしておきたい。そして、この頃から、ずっと永田に師事していた池田純久と、後に田中メモで知られる田中清の両氏が、10月15、6日の頃であったろうか、参謀本部作戦課長の今村均大佐を訪ね、橋本欣五郎中佐を中心とした一派のクーデターの計画を打明けている。



終始、非合法否定論者として動いていた


 そしていま、彼等のクーデターを抑え得る人物は、建川美次少将以外には、見当らない。橋本等は、建川も自分たちの仲間だと、思いこんでいるようだから、建川なら聞くと思う。ひとつ貴官から、建川を説いて止めさせるようにして貰いたいというと、今村は同意して、直ちに建川を訪ねて、この話をすると、建川も同意して引受け、翌日橋本中佐を呼んで抑制に努めたそうである。


 ところがまた間もなく、根本博、影佐などという、橋本中佐とは仲間と見られていた人たちが、今村大佐に、橋本が建川に中止すると約束したのは、みんな噓だ。決して中止なんかしないから、どうしてもこれは、憲兵の力で、保護検束でもするより仕方がなかろう、という話である。そして橋本の外、さらに13名の将校の名前が出て来たが、これはまだ生存中の人もいるから、発表は見合わせておきたい。とにかく、根本や影佐等は、これを捕えるよりほか、抑える途なしというのだ、このとき、永田も、また東条も同じように、憲兵保護検束論を力説しているから、面白いものだと思う。


 そこで止むを得ず、その日の午後5時頃から、陸軍省と参謀本部の部局長会議を開いて相談したが、結局、憲兵によって検束するということに、全員一致したらしい。しかし、この決定に対して荒木氏一人が、絶対に承知しない。何と説いても、どうしても承知しないので、荒木氏のいわゆる人情論も、御尤もだから、という説も現われ、それでは荒木さんに行って貰って、彼等の説得役を引受けて貰おうということになり、荒木氏もこれを快く引受けた、そして築地の金竜亭に、荒木氏と岡村寧次が一しょに行き、2時間ばかり話し合ってから、漸く4日間だけ決行日延べということに、落ちついたという。


 荒木氏から経過を聞いた部局長会議は、ともかく3日間に何とか事件を処理することとしたが、間もなく大臣官邸の小使が、今村大佐の所へやって来て、こんな名刺を置いて行った人があると言って、届けて来た。この夜おそく、11時半頃だったそうだが、見ると、うら側に、「荒木閣下に約束したことは噓なり、」と書いてある。誰がこんな名刺を届けたかはわからぬが、さすがに今村氏も驚いて、さっそく永田と東条とに会って見せた上、どうしたものか、と相談した。永田はこのとき、憲兵で保護するほか、もはや処置なし、直ちに大臣に報告せよ、と力説したらしい。今村氏も同感して、遂に南次郎陸相を訪ね、その手配をしたということだ。これが、昭和6年10月17日夜明けの検束となった一こまであるが、この経過に関する限り、永田は、終始非合法否定論者として、動いていることが明らかである。



政界に荒れ狂った「国体明徴問題」に違った見解を持っていた


 永田が惨殺されるまでの悪名をいろいろ拾って見ると、三月事件のほか、真崎甚三郎大将更迭事件や、十月事件、財閥との結托、陸軍パンフレット事件などによる「赤」だという非難等、ひっくるめて、これが皇道派や、相沢中佐等によると、「皇軍の在り方を紊乱する」存在だったから、というに尽きるようだ。


 永田の意図した国政改革が、国家総力戦形態の確立を基本としたものとすれば、これは大本営条例の改正を含めて、広汎なる軍政革新にも発展すべきであり、職業軍人だけの戦争でないとすれば、政治はもちろん、経済、社会と軍部との在り方についても、多くの反省と改革とを必要とすると、考えたであろう。



 永田が軍人を民間クラブに加入させよう、と思いついたのも、原田熊雄や、唐沢俊樹氏等の「朝めし会」に誘われて出たのも、他を理解する努力とともに、自己をも理解させようと、そして必要なときには、政治的提携の円滑さなども、ねらっていたのかも知れないと思う。在満機構の改革の際、大野緑一郎氏が就任した特務部廃止後の顧問の地位に、はじめ大内兵衛氏を考え、有沢広巳氏をきに推そうとし、橋本次官の反対で中止を余儀なくされたという、(片倉元中将談)かかる永田の幅広く、そして思い切った人事方針も、彼がひそかに抱いていた計画の一端を示すものであろうし、これがまた部内に「赤」の風評を生み、ダラ幹の悪名をきた理由でもあったろう。


 また昭和初頭の政界に荒れ狂った「国体明徴問題」についても、永田は違った見解をもっていたらしい。かつて中島久万吉氏が商工大臣として、足利尊氏事件を起して紛糾した当時、彼は池田政策班長に、軍部の見解を率直に声明するよう命じたそうだが、さすがの池田氏も、極右派への刺戟を慮って、遂にそのままの発表を憚ったそうである。(池田元中将談)


 思うに永田の心中、神がかり的国体論の横行を苦々しく感じていたのであろうか。いわゆる国体明徴論の気狂いじみた行き過ぎに対しては、一般はもちろんだが、とくにインテリ軍人の中に反感が多かったようで、これが荒木氏や、真崎氏等の失脚を早めた一因となっていることも、見のがせない事実である。革新将校中の一頭梁であった橋本欣五郎氏なども、近頃は、無暗と兵舎やその他の建物に、菊の御紋をベタベタ張りつけるものだから、兵隊どもは、うっかり立小便も出来んよ、とれこれは暗に皇道派を笑殺した戯言ではあったろうが、私が聞いた記憶もこの頃のことであった。




「ズルイ林銑十郎」気の弱さと狡さを併せ持った鬼将軍


 永田がかような傾向をもったとしたら、神がかり軍人や、ウルトラ右翼に憎まれ、嫌われたとしても、止むを得ないとしたろう。そして彼がこの種の手合を軍部内から一掃すべく、強い闘争感をもったとしだら、反対派の憎悪が積極化するのもあたり前である。


 当時の陸軍で、荒木氏の精神主義的風格は、若い将校にとって尊敬すべき先生型であり、真崎氏の豪放はまた信頼すべき親分型であった。この先生と親分の名コンビを枢軸とした皇道派が、陸軍と政界とに一時期を劃した事実は大きく見るべきであろう。同時に、一世を風靡する勢いのあった荒木氏が、病気のために陸相を辞任の止むなきにいたり、その後任として、荒木氏や、柳川次官をはじめ、皇道派の精鋭を挙げて要望し、支持した真崎大将が、閑院宮を先頭に、結束した反皇道派の連合勢力によって、遂に阻止せられ、さらにその後間もなく、真崎氏が教育総監の地位から追わるるにいたった事件は、陸軍史上、あわせて昭和政治史上、充分検討せらるべきだと思う。


 まず順序として、それには林銑十郎大将の陸相就任の経緯に触れねばならない。林という人は一時鬼将軍のように伝えられたが、事実は温厚な人柄で、かつ遠慮のないところ、相当後入斎でもあり、気の弱さというか、狡さというか、それも適度にもっていたかと思う。



陸相就任の条件として出した「真崎氏の教育総監就任」


 昭和9年1月、斎藤内閣時代、荒木陸相が病気となり、議会休会明けに出席不能ということで辞職、後任で、真崎大将を推す者と、林大将を推す者とで紛糾したが、遂に閑院宮の一断で林に決した。当時の次官は柳川中将これが間もなく橋本虎之助に代り、軍務局長が山岡重厚、これを3月異動で横にすべらせて整備局長、そのあとに運命の永田鉄山が就任。東条は、前年の8月久留米に出たまま。


 このときのも、荒木氏は、辞表を書くとき、病中わざわざ軍服を着、勲章をつけ、宮城を遥拝した上でサインしたというから、その人柄がわかろう。このとき後任問題で真崎大将を囲んだ柳川平助、小畑、山岡等の諸将による熱海会談が開かれており、そして真崎氏を強く押し出して来た。これに対して、松井石根、建川美次、南次郎等の諸将軍は、強く林を押し出して、真崎に反対した。このクライマックスが、1月20日夜、林と柳川との閑院宮訪問となり、その結果が、遂に決ったのである。柳川、宮様の前で、持ち前の剛直を発揮し、真崎氏は極力推したそうだし、林も、一しょになって、真崎氏を推したということだが、それで宮様に別室にいても聞える程叱られたという。それで、林は陸相就任の条件として、真崎氏の教育総監就任をもち出し、やっとまとまったそうである。この辺の林のやり方から、彼の狡さや、人の良さやを、皆が言うわけだ。



命取りとなった「真崎甚三郎大将更迭事件」の経過


 次に、永田の命取りとなった、真崎大将の教育総監更迭の経過をざっと紹介しておこう。永田を斬った相沢はもちろんだが、戦時中から、とくに戦後になって、皇道派だった人たち、この派に関係があったり、ひいきにした評論家の全部を含めて、真崎氏を教育総監から追い出した張本人は、永田鉄山ということに決めて終った観がある。



 ところでおかしいことは、戦後の今日までに、私が色々調べた限りで言うと、永田が、真崎氏を追い出すべく策動したという確証は、ひとつもないのである。そして、岡村寧次氏のような荒木、真崎氏等とも親しく、永田とも同期の親友で、斬られたあとの葬儀万端の世話をした人に聞いても、また同じ時代に、参本の課長として、永田と交渉の多かった今村均元大将や、河辺正三元大将等、及び永田時代の沢山の後輩軍人たちの話を総合しても、すべて否定する人ばかりであることだ。


 軍務局長という地位と権限には省部の人事、それも将官人事に対して些少の発言権も、したがって発言力もなく永田という人物は、典型的な合理主義者であって、だから策動家ではない、という説明に一致している。


 すると、永田は何のために惨殺されたか、デマと、謀略の犠牲になった者は、むしろ永田ではなかったかという疑問が起るが、いまの私には、この問題について、まだ決定的な答を出すまでの用意はない。そこで真崎氏を追い出した者は、一体誰かということになるであろう。


 結論から先に言うと、真崎排斥の中心は、さきに林を陸相に推進した勢力とくに参謀本部を加えたものが、その主勢力となったようである。これが結集して、閑院宮を動かし、宮様から辞めるのは嫌やだと頑張る真崎に対して強引に、詰腹を切らせたという。


 ここでうがった見方をする人の言によると、真崎更迭の真の張本人は、林自身だというのである。林と真崎との間が、いつ頃から悪くなったかは知らぬが、しかし教育総監となった後の真崎氏の所へ、依然として人事局長は日参しているし、憲兵情報も、毎日届けられ、青山の寺などに、青年将校を集めたりしている真崎氏のやり方に、まず林が腹を立て、これを周囲からもたきつけたろうが、林にして見ると、ロボットになっているようで、ひどく不快だったらしい。


 間もなく次官が柳川から橋本に、軍務局長に永田がなってから、林は今井人事局長を相談相手に、真崎の更迭を計画したらしい。そして簡単に辞めると考えていたのが、強硬に居直られて、はじめて松井大将や南、建川等が動き、協力して閑院宮を動かし、三長官会議にも込ち込んだ。


 しからば、なぜ真崎大将は、かく大がかりな陣容で排斥されたか、という問題になるが、これは沢山理由があるようだ。荒木とは違って、真崎氏は味方もあったが敵も多く親分的性格で豪放だっただけに、大派閥の頭目として、反対派からは厄介な存在となっていたろう。


「オレの失策であった」永田斬殺に沈痛した林の真意とは


 では、何故真崎更迭事件に、どうして永田張本説が出たか、であるが、遠慮のない批判をする人々によれば、林が終始狡く、責任回避をした結果だという。ありそうな話だが、もう暫らく、結論は留保しておきたい。ただ一言附け加えておくが、相沢は永田を殺したあと、さらに林も斬るつもりだったということ、それから、永田が相沢に惨殺されたとき、林は、風邪か何かで官邸私室にいたそうだが、知らせを受けて、ひどく驚いたという。



 これは驚くのが当然だろうが、知らせに行った者の話によると、非常に沈痛の面持ちで、「オレの責任である。オレの失策であったと、長歎息した」という。失策というのは、何を意味するのか、ちょっとわからぬが、しかし、永田への政治的風当りがあまりに激しいので、この年の12月、彼を外遊させることに決めていたそうだから、もっと早く外遊させておけば、という後悔じゃなかったかと、いう者がある、いずれにせよ、この辺の事情は、甚だ複雑を極めているから、さらにもっと調べる必要があるだろう。



「三井大牟田事件」で加速した永田鉄山斬殺まで


 永田の生命を縮めたもう一つの事件に、三井大牟田事件と、これに絡る満井佐吉中佐の問題がある。事の起りは、昭和7年から8年にかけて、北九州および久留米、大牟田等の各地に、各種の右翼団体が集結して出来た大日本護国軍等というものがあった。団員四万と号したが、組織は、今日の社会党に例をとると、支部長格を軍団長と称し、書記長に当る役を参謀といい、すっかり軍隊の真似をしていた。


 いくら真似をしても、民間人だけなら大したこともなかったろうが、これに久留米師団の連隊附満井佐吉中佐を中心に、片倉大尉や、多くの青年将校が参加していたから、喧しい騒ぎとなったのである。この団体を中心に、満井中佐を指導者として活躍した当時の模様を、少しばかり紹介すると、警察はすべて「特権階級の手先」と決めつけ、既成政党、財閥は「国賊」と罵倒するのだから、社会主義者顔負けの痛快ぶりを発揮している。



 当時下関にカゴトラ組というのがあり、市政と実業界を牛耳って、商議副会長、代議士だった保良浅之助を首領としたものだが、満井中佐は、この中心地に乗込んで大演説会を開き、「かくの如きゴロツキ共を退治せよ」と絶叫、市民の喝采を博したことがある。これが、8年の7月30日、大牟田における三井財閥と、市の商工会議所とが、長年の間抗争していた真只中に割って入り、会議所を支持して三井問責の大運動を起したわけである。その結果、満井中佐は8月1日附で、(陸軍)中央の新聞班に転任となった。それでまた大牟田の騒動を今度は東京へ移して、満井氏自から、三井本社を相手に糾弾運動を起し、当時の有賀長文、池田成彬を相手に散々手古摺らせた。軍服帯剣の将校が、三井八郎右衛門邸に押しかけ、長時間面会を強要したなどという事件も、また大牟田所長属最吉氏が、暴漢に襲われ、重傷を負うたのも、このときの話である。それで、かねて永田を知る者で太田亥十二氏という、池田の姪むこで東京ガスの重役が連絡に働き、永田と池田とが会見という場面などもあり、そんな因縁から、永田が、週末に太田氏の久里浜の別荘を利用するという事もあって、これがいわゆる、永田と三井財閥との結托云々となったのである。太田という人物は私も懇意にしているが、ブルジョアというより、今も昔も同じ一介の社員重役に過ぎす、ずぶの財界人というよりも、多分に浪人じみた風格が多く、感激居士で早合点をするくせがあるから、交際していた永田としても、周囲から誤解される一因にはなったであろう。それに満井中佐がまた、腹を立てるとジンマシンが出るといわれる位、感情の激しい人物であるし、中央転任後、一時永田に接近しようと非常に努力していたのが、池田、秋永、影佐などという、永田の周囲にいた人たちに拒まれて、失望したというようなこともあって、満井氏の皇道派への急傾斜があり、次第に、三井事件などもからみ、永田との間のもつれが激化したと考えられる。


永田が生きていたとしたら、歴史は変わっていた


 以上のほか、永田が斬られる原因の一つとなったものに、十一月事件というのがあるが、これを簡単にいうと、当時三笠宮が士官候補生になったので、辻政信大尉が中隊長として懇望され、参謀本部から士官学校へ移った。この頃は革新運動の盛んなときだったので、士官候補生を利用されては困るということから、警戒は厳しかったようである。ところが、辻大尉の生徒の中に佐藤某という者が近歩一にいて、これが10月末頃他の候補生を誘い、磯部浅造、村中という革新将校を歴訪した。そうして11月中句、磯部や村中方から西田税に紹介され、大いに革新論をやったらしいが、佐藤方は、あまりに西田の生活の豪奢なのに疑いをもつようになって、遂に経過を辻大尉に報告したという。そこで辻大尉は直ちに片倉少佐に連絡をとり、この話を伝えた、そうして18日学校に行って調査した上、参本と陸軍省から次官、軍務局長等が参集、五・一五事件等の例もあるという心配から、関係者を処断して終った。このときの軍務局長が永田であるのはいうまでもなく、これが永田の皇道派圧迫と見られたのであるが、さらにも一つの理由として、辻大尉と、真崎大将の副官だった原田少佐との仲が悪かったそうで、この対立がまた永田の皇道派圧迫、とくに真崎排撃と結びつけられたというのである。同じような事件は、永田の下に高級課員となった武藤章中佐もまた、歩一附の時代、青年将校をきびしく教育するとともに、磯部、村中等を排撃する措置に出たという事実があるし、永田を支持する若い将校が、次第に各部局において、皇道派の実践将校と対立抗争を演じつつあったという。


 私は、永田は殺されねばならぬ理由はないと判断するのであるが、しかも当時の皇道派は、尖兵相沢中佐をして、いわゆる統制派の本営に永田を奇襲して斬らしている。永田亡き後の統制派は四分五裂したが、皇道派もまた、間もなく二・二六事件を起し、遂に軍部内からは玉砕し去って終った。そして、このあとに東条の時代を作っているのだが、永田が生きていたとしたら、軍部の歴史も、したがって日本のその後の歴史も、大分違うのではあるまいか。




(矢次 一夫/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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