「あなたの力で難病を治してください」23歳女性のもとに日本中から依頼が殺到!? “催眠術ブーム”の陰で起こった「千里眼」事件とは

2023年8月25日(金)12時0分 文春オンライン

 今回取り上げるのは、厳密には事件ではない。


 刑事事件となる要素も一部あったが、核心は“超能力”をめぐる大騒ぎだ。「金属などの中にある物が透視できる」「遠隔地の人や物が見える」「念じただけで字が書ける」といった“超能力”を持つとされる人間が次々登場。彼らは、遠隔地を透視できる能力を指す「千里眼」の名で呼ばれた。その“超能力者”と周辺の人々、さまざまな学者たち、そして新聞報道によって巻き起こされた一連の騒動とは——。


 当時は、日露戦争の勝利で沸き立った世情が落ち着きを見せない中、世紀の冤罪事件とされた大逆事件の捜査と裁判が進む一方、飛行機やエックス線といった科学技術が一斉に登場してきた。「坂の上の雲」の時代から下り始め、「大衆の時代」大正へと向かう明治末期、この騒動はどんな意味を持っていたのだろうか。今回も当時の新聞記事は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。


◆ ◆ ◆


あらゆるものを透視できる、“千里眼”をもった女


 騒ぎの発端は1909(明治42)年8月14日付の東京朝日(東朝)に載った1本の記事。この年、韓国併合への動きが着々と進んでいた。



〈 不思議なる透見法 發(発)明者は熊本の女 木下博士の實驗(実験)


 前の京都大学総長、法学博士・木下廣次氏はこのほど井芹・熊本濟々黌長の紹介で、同校の舎監・清原猛雄氏の妹である河地千鶴子(23)を京都の自宅に引見。同女が研究・発表した不思議な透見法の試験をし、その心理的治療を受けること3回に及んだ。〉



 記事は、この千鶴子という女性の“能力”について、木下はこう語ったのだと続く。



〈「この透見法は、厳封した袋の中の物は言うに及ばず、鉱物や身体も透かし見て内容を探ることができ、患者の治療は神通自在の奇妙な療法だとの説明を聞いて招いた。


 まず密封した封筒に内田銀蔵氏の名刺を入れて彼女の手に渡したところ、彼女は別室で沈思黙座約5分。鉛筆をとり、封筒の上に正しく『内田銀蔵』と書きつけた。しかも、字画が正しく筆跡が確かで、実物と違わなかったのはとても不思議だ。


 治療を受ける際も同様。あたかも禅僧が精神を集中するような態度で患部をなで下ろすだけで、病気の方はさほど著しい効果を見るには至らなかった。家に招く前、自分が京都の住所を記入した名刺を、当時大阪にいた彼女に渡したが、彼女は年齢、容貌や患部などについて詳細に分かったという。とにかく奇妙というべきだ。彼女は年齢23歳というが、年より若く、口もろくろくきけず、学力はやっと高等小学校を卒業したぐらいだ」〉




「千里眼」をはじめて報じたと思われる東京朝日の記事


 木下廣次は法学者で旧制一高(現東大教養学部)校長、貴族院議員などを歴任。井芹という人物は井芹経平(いせりつねひら)で、33歳で濟々黌(現・済々黌高校)の校長に就任し、22年間務めた。2人は熊本出身で、その縁で井芹が千鶴子を木下に紹介したという。木下は初代京大総長に就任したが、長く肺を病んでおり、辞職して東京で療養していた。この記事の1年後の1910(明治43)年8月、千鶴子が世に知られ始めたころに死去している。


医師の娘はなぜ“能力”に目覚めたのか


 千鶴子とその周辺については上木嘉郎「『千里眼の女』・御船千鶴子の栄光と落魄」=『火の国の魂』(熊日出版、2021年)が詳しい。それによると、千鶴子は1886(明治19)年7月、熊本県宇土郡松合村(現宇城市不知火町松合)の士族の家に生まれた。


 父は付近に知られた名医で、「千鶴子は富裕な医家の次女として生まれ、容姿端麗であったが、生まれつき右耳が進行性の難聴であり、寡黙で、一つのことに集中すると、他を顧みなくなる傾向があった」(同書)。進学した私立学校は、いまで言う「いじめ」に遭って退学。初対面の人には強い警戒心を抱くようになった。1908(明治41)年に河地という陸軍中尉と結婚したが、この記事が出た翌年の1910(明治43)年に離婚。御船姓に戻った。


 清原猛雄は正確には千鶴子の姉の夫(義兄)で、1903(明治36)年ごろから、当時全国的に流行していた催眠術にのめり込み、千鶴子にもかけるように。千鶴子も関心を持って催眠術の習得に励んだ。1904(明治37)年、清原は千鶴子に催眠術をかけて透視ができると暗示をかけ、ある透視をさせた。


 この年の2月、日露戦争が始まり、6月に玄界灘で輸送船「常陸丸」がロシア軍艦に砲撃されて沈没。陸軍将兵600人余りが戦死し、国民の怒りが沸騰していた。当初、広島・宇品を出航した同船には熊本第六師団の兵士も乗っているとされ、清原はその安否を尋ねた。千鶴子は、同師団兵士が長崎から乗った船は途中故障で引き返したため、常陸丸には乗船していないと返答。3日後、事実は千鶴子の透視通りだったことが分かった。


 その後、清原は催眠術なしでも、深呼吸して無我の状態になれば透視できるとして、千鶴子に毎朝練習するよう指示。千鶴子は毎日1時間、深呼吸をするなど修練を続けた結果、10日ほどで、庭の梅の木の幹の中に小さい虫がいるのを透視できるようになったという。同書には、千鶴子の透視として、紛失したダイヤモンドの指輪や、財布の中から消えた現金などの例を挙げている。


明治後期、催眠術が空前のブームに


 一柳廣孝「千里眼は科学の分析対象たり得るか」=金森修・編『明治・大正期の科学思想史』(勁草書房、2017年)所収=によれば、それまであった催眠術は19世紀になって心理学、生理学の研究対象となり、明治維新後の日本に持ち込まれて話題に。1903年以降には社会問題になるほど流行が広がり、催眠術によって生じる不思議な精神現象の存在は一般にも認知されていた。幸田露伴や夏目漱石、森鷗外も関心を持ち、小説に取り上げている。


 そんな風潮の中で、催眠の心理学的研究で学位を取得し、学問的な立場から積極的な発言を続けていたのが、この「千里眼事件」の中心人物、福來友吉(ふくらいともきち)・東京帝国大学文科大学(現東大文学部)助教授(当時)だった。現在の岐阜県高山市出身。代用教員(※旧制度の小学校で、免許状をもたずに教員を勤めた者のこと)をするなど、苦学して東京帝大に入り、将来を嘱望された心理学者だった。『千里眼の女・御船千鶴子の栄光と落魄』によると1909年5月、上京した井芹は福來を訪ねて千鶴子の透視能力の研究を勧めた。


 木下の時と同様、井芹が千鶴子の存在を強力に“売り込んで”いたことが分かる。その木下は京都帝国大学医科大学の今村新吉教授(精神科医)に千鶴子の研究をするよう話した。


学者たちが関心をもち、千鶴子は“実験”へ臨む


 翌1910(明治43)年2月23日付の九州日日新聞(熊本日日新聞の前身の1つ)は社会面トップで「今村博士の自己睡眠の實驗(実験)談 鐵(鉄) 瓶中の名刺が分る」の見出しで次のように報じた。



〈 京都医科大学教授、医学博士・今村新吉氏は市外本庄村(現熊本市)、清原千鶴子の自己催眠状態についての試験のため熊本を来訪。20、21の両日にわたって前後13回の試験を行った。〉



 記事はこの後、今村の話として続く。



〈 試験の方法は簡単。名刺または名刺型の紙片に、あるいは文字、あるいは文様などを記したものか、白紙のままを厚紙、色紙もしくは金属の中に包み置いて、中の文字や文様などを感知できるかどうかを試験する。


 しかし、こうした人は感情が激しくて神経を悩ませることが多いか、恐怖心に捉われやすいので、試験されるといえば、少なからず神経を痛める傾向がある。今回も前夜来、安眠できず食欲も進まなかったということで、第1日の試験は結果が比較的よくなかった。だが第2日はやや安心したと見え、試験の結果も前日よりよかった。2日間を通じて前後13回のうち、間違えたのは2回。それと1回、名刺の文字を書くのに「雄」を「夫」と間違えただけで、ほかは全て感知できた。ことに最後の試験として、鉄瓶の中に1枚の名刺を入れてみたが、2分とかからずに正確に感知できた〉



 疑問となる問題を付け加えた。



〈 通例、試験者に背を向けて座り、沈思黙考することしばし(長いと30分以上を費やすことがある)、包みの中の名刺の文字などを知るのだが、対面で座って試験物を前に置いた時は間違った。


 あるいは、手で触ることが必要だということかもしれない。「雄」を「夫」と間違えたのは、覚醒後、おぼろげな記憶をたどって書くまでに錯誤が生じたのかもしれず、はじめから感知できなかったとは断じられない。この状態はトランス、すなわち自己催眠と称すべきもので、人は五感の感触以外に妙な感知の能力を有するとみることができ、千鶴子の場合はその能力が極度に発達したものだ。〉



 今村の実験はおおむね成功だったとみられる。九州日日の記事には、千鶴子の写真も小さく添えられている。


「国宝」と呼ばれた千鶴子の能力


 同年4月、今村は福來と打ち合わせてともに千鶴子に実験を行った。4月24日付萬朝報には「心理学上の國寶(国宝) 福來博士の實驗(実験)せし千里眼」の記事が。「文学博士、福來友吉氏は千里眼の名がある陸軍中尉夫人、千鶴子について、さる10日より5日間、実験を行い、20日帰京した」とし、福來の談話として次のように続く。



〈「京都大学の今村博士とともに午前中、千鶴子の心を平静にさせ、それより実験に着手した。彼女は早くて1分間、遅くとも十数分間のうちに無念無想に入り、名刺の入った木、石、金属の箱を取り換えては透視。名刺の文字をことごとく当てた。はじめは実際の視力が催眠状態に入ったためと思ったため、さらに持参の試験機を使用した結果、それは実際の視力ではなく、一種の感覚で、不思議な能力を持つ者であることが分かった。心理学上の参考例としては実に国宝と呼ぶべきもので、心理学上の新記録というべきだ」〉



 この実験については翌4月25日付東朝も「天眼通の研究」の見出しで報道(※「天眼通」は仏教用語で千里眼のこと)。実験方法について、「名刺を錫製の茶壷か、錫製の二重蓋の茶入れ、または鉄瓶の中に入れ、密閉して中の名刺の文字を読ませた」と書く。


 5月10日付読売には1面に福來の署名記事で「千里眼婦人の實驗(実験)」という記事が載っている。そこでは千里眼の例として、梅の木の虫の話以外に(1)医学校で肺のジストマ菌の標本を見て「さっき会った人に同じものがあった」と言い、調べると、その人もジストマ菌を持っていた(2)井芹の妊娠中の妻の腹を見て男の子か女の子かを言い当てた——ことがうわさとして挙げられている。ただ、ここで福來ものちに問題となる千鶴子の言動を書き留めている。


透視中に居眠りして失敗? その的中率は……



〈 井芹氏から実験を依頼され、「瀬踏み」のつもりで通信実験をやった。それぞれ違った19枚の名刺の上に、全部あるいは1〜2字を隠して錫箔を張り、前後に不透明な色の紙を1〜2枚張って封筒に入れ、厳重に封印して送った。しかし、こういう不思議な精神能力の婦人だけに時々の気分の変化を感じることは人一倍激しい。19という数の多さに自分の能力が疑われたように思って感情を害したらしく、半分だけ見て、後の9個は「精神がことのほか疲労したから」と言って見ずに返してきた。また、封筒を持って火鉢に手をかざして目をつぶって考えているうちに、うとうとと眠りこけ、思わず3枚の封筒を火の中に落として焼いてしまった。これでハッとしたのがだいぶ気分に触ったとみえて、その後の実験にも二、三不都合を来したが、大体において成功だった。〉



 同年6月27日付大阪朝日(大朝)1面から「透視に就て 醫(医)学博士 今村新吉」の連載が始まった。前日6月26日付1面の予告には「福來博士は心理学上から実験したが、今村博士は精神病学上から最も真面目に研究し、その結果を本紙上で発表することになった」とある。連載は19回に達し、その中ではそれまでの千鶴子に対する実験結果がまとめられた。



〈(1)実験は、今村が行った第1回が14回、今村と福來の共同は18回で、その他、井芹が福來に提供したもの、福來の通信実験などで計52回
(2)そのうち、完全的中と認めるべきものは36回。不完全的中とすべきもの10回。全くの誤りは6回で、「完全」「不完全」を合わせれば的中率は88%
(3)的中は決して偶然とは認められない。目的物と答えとの間に一定の動かせない因果関係があると認めざるを得ない
(4)千鶴子に見る透視能力はわれわれ五感による知覚作用と同様、さまざまな影響で間違うことがある。ただ、千鶴子の正確さに至っては五感の視覚か触覚と同等と言うことができる
(5)実験の内容を見ると、千鶴子の透視能力は直接視覚とは関係がないと断定できる


(6)触覚との関連は断定はできないが、今後の実験ではわれわれの面前で物体に触ることなく透視できる状態に導くことを期したい
(7)千鶴子の持つ透視能力は、物質的実在を対象とする、五感以外の1つの感覚と仮定して初めて理解できる。ただ、この感覚は信じる者が少ない〉



 この時点では、今村も千鶴子の“超能力”を疑っていないようだ。


 同年8月、千鶴子は父や義兄の清原らとともに大阪へ向かった。8月29日付大朝は「千里眼婦人の來阪」の見出しで報じているが、書き出しは「今村博士によって先頃本紙に紹介された透覚婦人、御船千鶴子」。いきさつを説明し、大阪市内で2日間、公開実験が行われると予告した。朝日、特に大朝が今村と連携して千鶴子の透視能力の“旗を振る”姿勢を明らかにしたと考えられる。


透視依頼は2日間で800通! 中には警察からの驚くべき依頼も


 9月2日付では「大阪に於(お)ける千里眼婦人」として、30日夜の実験は満員の盛況で、中に200〜300人の女性がいたと記述。千鶴子が知人の妻の病気を言い当てたことから、透視依頼で寄せられた書状が2日間で800通に達したと書いた。中には「先祖が千両箱を庭に埋めたらしいが本当か。発見すれば半額進呈するが」という申し出や、ある警察が犯人の行方を尋ねてきたものもあったという。千鶴子の透視能力が一種のイベントやショーになりつつあった。


 千鶴子はその後、8月31日に京都、9月8日に名古屋、そして9月9日に東京に入った。9日付読売に載った福來の談話によれば、京都では西本願寺法主の脚の病気を見たが、透視の結果は以前に医師がエックス線に照らして見たのと同様だった。


 ただ「同地における実験は概して不結果に終わった」と記事にはある。「千里眼は科学の分析対象たり得るか」は、京都滞在の1週間は、福來が千鶴子の透視能力にトリックがないかどうかをチェックし、今後の科学者の視線に耐え得る実験のための準備期間だったとしている。


 9月10日付読売は、京都では難病の人が連日、旅館に押し掛け、その数は3日間で500人余りに上ったと報じた。


日本中で知名度を上げた千鶴子。一目見ようと、駅には人が殺到


 名古屋では、地元紙、名古屋新聞(中日新聞の前身の1つ)が9日付で「千里眼婦人來る」という記事を掲載。その中で千鶴子の「療法」について記している。



〈 当市では従来から女史の遠隔治療を受けている関係上、百春楼の主人、知事の令息・深野亮氏、瀧定助氏の令息・弘三郎氏らのため、昨日(8日)は1回、本日は2回の精神治療をし、なお服部小十郎氏らもその治療を受けるはず。


 女史の療法は、ただ患者4〜5人を並べて無我の境に入らせ、患部の辺りを軽く触れるようにして、女史もまた無我の境に入る。精神の統一から少しずつ治療に至る。遠隔治療も、時間を決めて女史と患者が遠距離で互いに目をつぶり、天地宇宙に合体して初めてその治療の意思を通じる。この方法は成績が顕著で、目下各地で受けている者が何百人といるそうだ。〉



「百春楼」は有名な料亭で、愛知県知事は内務官僚の深野一三。瀧定助は名古屋の大商人で、服部小十郎は実業家で国会議員だった。地方の名士やその親族の間に千鶴子の「療法」が広がっていたことがうかがえる。いまから見るといかがわしいようにも思えるが、こうしたことは法令に引っかからなければ信じる者次第。「千里眼の醫療(医療)」が見出しの9月11日付東京日日(東日=現毎日新聞)は、腹膜炎が治ったという証言を紹介した後に、福來がこうくぎを刺したと書いている。



〈「千鶴子の透視が病気そのものに効果があるとは肯定し難い。千鶴子の透視法は患者の精神に非常な慰安を与えて、患者を精神的に快方に向かわせるということはあるだろうが」
「千鶴子の透視は、医師が患者に投薬する以前、その患部について診察するのに効果がある」
「病気そのものを直ちに治療するのではなく、病気の治療を助けて多大の効果がある」〉



「これは私だけでなく、誰にもなし得ること」


 9月10日付読売「千里眼婦人入京」の記事には、9日に新橋駅に着いた千鶴子の印象を記者が書き留めている。「中肉中背でひさし髪に結い、糸織矢絣の着物に厚板の夏帯を締め、手に薄ねずみ色のこうもり傘を携えている。一見、質実な田舎の令嬢ふう」。その場には「世にも珍しい千里眼婦人を見ようと、列車が着く前から改札口に群衆が集まり、新聞の写真と見比べて、あれかこれかとひしめき合っていた」。記者が透視について問うと千鶴子は、こう話した。


「気を静めていれば、ありありと物が見える。これは私だけでなく、誰にも成し得ることだと思う」


 そして千鶴子は、名だたる研究者たちの前で、“超能力”の実験を披露することとなる——。

〈 「彼女の“千里眼”の方が上だ!」日本中から求められた千鶴子(23)だったが、40歳女性に話題をさらわれて…女たちの“超能力対決”の壮絶な結末 〉へ続く


(小池 新)

文春オンライン

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