歴代総理の胆力「高橋是清」(2)評価「蔵相Aクラス、総理0点」

8月29日(木)9時55分 アサ芸プラス

 しかし、どこにあってもダイヤモンドは光る。結局、引き上げられて、日銀副総裁、最後は総裁にまでのぼりつめた。ここでは、特に日露戦争の際にそれまでの培った外国人人脈を頼り、戦時国債を大量に売りさばいて軍事費捻出に貢献したのだった。

 次はいよいよ、政界からの声である。経済・財政のオールラウンド・プレーヤーとして第一次山本権兵衛内閣、そして原敬内閣で大蔵大臣に引き上げられることになった。また、山本内閣蔵相となったのを機に立憲政友会入りをした。のちに高橋内閣が成立。間もなく総辞職となった直後、貴族院議員としての爵位を辞して、衆議院議員への当選を果たしている。

 総理大臣のイスが回ってきたのは、高橋が蔵相として入閣していた原内閣の原敬総理が暗殺されたことによる。

 原の人気が世論的に抜群だったこともあり、原を支える政友会で原の「次」を誰にするかの議論はまったくなかったのは当然だった。元老の山県有朋や松方正義は第2代政友会総裁でもあった西園寺公望元総理大臣の再登場を策したが、西園寺は体調を理由にこれを固辞、代わりに高橋蔵相の総理就任を強く推したのだった。もとより、無欲恬淡で総理のイスなどは興味がなかった高橋だったが、言うならば国難、イヤイヤながら引き受けると同時に、第4代政友会総裁に就任した。

 しかし、内閣を率いた高橋ではあったが、蔵相としての手腕に比べて、総理としてのリーダーシップ、あるいは実績は極めて乏しいものとなった。

 結局、内閣は212日と短命で総辞職を余儀なくされた。内閣改造を目指したが難航、根回しなどもほとんどなく、結局、政権を放り出してしまったのだった。のちの歴史家の一般的評価は「蔵相としての手腕はAクラスだったが、総理としてはゼロに近い」でほぼ定着している。

■高橋是清の略歴

安政元(1854)年7月27日、江戸(東京)芝の幕府御用絵師の家に生まれる。アメリカ留学。日本橋の芸妓・桝吉(ますきち)と遊蕩三昧生活。総理就任時、67歳。蔵相ポスト都合7度。昭和11(1936)年、「2・26事件」で青年将校の凶弾に倒れる。享年82。

総理大臣歴:第20代1921年11月13日〜1922年6月12日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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