9月になっても続くよ不登校 〜発達障害児たちの場合・開き直り篇〜

9月1日(日)7時0分 おたくま経済新聞


 夏休みが既に終わり、一部の地域では始業式を迎えたところもあるなか、多くの学校は9月最初の月曜日に始業式を迎えます。そしてこの時期にみる報道が、休み明けの子どもの自殺。追い込まれた子どもの居場所を何とかしようとあちこちで取り組みがなされていますが、ここで不登校中学生女子二人の母である筆者の例をご紹介してみようと思います。

■ それぞれの発達障害
 二人の娘は、それぞれ発達障害という大きなくくりで何らかの支援が必要と認定されています。長女は広汎性発達障害(ASD)、次女は注意欠陥多動性障害(ADHD)。最初にこの二人の特性が分からなかったのは、発達障害女児あるあるな、「特有の言動」がはっきりと出てこなかったことと、親が発達障害についての知識を持ち合わせていなかったことに起因します。

 思い返してみれば、長女は園児時代に特に周りともトラブルもなく、おゆうぎも集団行動も問題なく、園の行事も楽しく行えていたのに、家では物の扱いが乱雑だったり、悪いことをしたときに叱った時の反応がやたら反抗的だったように思います。

 そんな長女が小学2年の時に発達障害と診断され、本人にも「他の子と上手く行かない時や自分が思い通りにならない時に固まって気持ちが落ち着かなくなるのは、そういう気持ちを上手くコントロールできる部分が上手く働かないからだよ。だから、嫌な時、イライラした時は、保健室や人のいないところで落ち着くまでいるようにしようね」と説明してました。

 もちろん、診断を受けるまでに色々なエピソードが重なり、それがきっかけとなり受診し、母である私自身も発達障害について勉強して、この言葉を出せるようになったわけですが、その特性を理解するまでにだいぶ遠回りしてしまいました。時には不必要なまでの叱責を与えてしまった事もあります。

 次女も、園児時代は特にトラブルもなくお友達に囲まれて楽しく園児生活を送っていました。しかし、家ではよく物を壊す、見境なく落書きをする、自宅内で「何故そこから」っていうところから転げ落ちるなどの行動がみられていました。

 今思えばADHDの傾向にがっちりあてはまるのですが、長女と同じく、明らかにこれは違う、と思ったのは小学1年の秋。そして長女と同じ医師に診察してもらい、やはり疑った通りADHDと診断が。

 二人とも、発達障害の診断を受けてから薬が処方されましたが、出るのは副作用ばかり。それぞれ、「怒られるようなことをしたくない」という気持ちもあって、苦手な薬も飲んでいたのですが、効果は現れず、ただ「気持ち悪い」「だるい」「頭が痛い」といった訴えが続くばかり。二人とも薬が嫌いになってしまいました。

■ それぞれのトラウマ
 一番の大きなトラウマは、父親の無理解だと、現在15歳と13歳の娘たちは口を揃えます。当時の夫は、発達障害について勉強してほしいと本を渡しても一向に向き合おうとせず、娘たちは「自分を理解してくれない、怖いだけのクソ」と自分の父親について話しており、「私には父親なんていない」とまで。

 そして、長女は同じようなASDで暴力的な2学年上の男子に執拗な暴言と暴力を受け続けたトラウマ。次女は登校できなくなってからの、当時の担任である男性教諭の不適切な対応がトラウマとなって、男性に対する恐怖心が強くなってしまいました。

 結局、二人とも学校にはいけず、児童デイサービスにお世話になってみたものの、それぞれ通えなくなってしまった理由ができてしまい、長女は特別支援級から中学校へ上がったことをきっかけに、次女は感覚過敏に気が付かない状態でクラス内で自分が無理をしていることに気が付かないまま、ある日突然「学校に行けない」と言い出し、そのまま不登校へ。

 当時は専門のカウンセラーもおらず、学校にもお世話になっていた学童保育にも相談してはいたものの、結局自分一人だけが全てを背負い続けたこともあり、母である自分自身までもがうつ状態に。一番のストレッサーである夫と別居・離婚して環境の改善を図りましたが、現在もうつと闘いつつ仕事をしている状態。

■ 「普通」に縛られて深刻化する事態
 こんな状態で、それでも私は「学校には行かせないと」という思いに縛られていました。まだそれぞれの特性を自分の中で消化しきれていなかったのです。長女の進学時に、進学先の先生方と長女と私で何度も面談して、長女も最初だけは頑張ろうといい笑顔でした。しかし、小学校時代に仲良くしていた子と上手く行かなくなったのか、「学校は怖いところ、友達は裏切る」という言葉を繰り返すようになり、引きこもるように。

 次女も次女で、支援級ではなく普通のクラスで過ごしたい、と言いつつも、結局自覚のない無理がたたったのか、学校に通えなくなりました。児童デイサービスには通えていたので、そこでしばらくは過ごす事が出来ていたのですが、やはりそこでも無自覚に無理を続けてしまったのでしょう。長女とは違うデイで過ごしていた次女の指導員にも、不登校の事も含めて何度も相談しましたが、やはりひとりで思い詰めてしまう結果に。

 結局、子どもたちに少しでも良かれと思って行動し続け、それでも何も改善の無い状態に錯乱状態となった私は、精神病院に措置入院という形で子どもたちと1か月離れて養生する事態に。児童相談所の保護施設で保護された二人。長女は帰りたいのに帰らせてくれない、と大暴れしてしまった結果、やはり児童精神科のある病院に入院。残った次女は、私が借りていた部屋に実母が泊まり込みで来て、私の退院まで面倒を見てくれるという状態に。

■ 心機一転したら悟りが開けた?
 私は1か月で退院できたものの、長女の入院は思ったよりも長くかかりました。その時住んでいた部屋から長女の入院先まで、車で約40分。うつ状態自体は小康状態ではあったものの、週に何回もこの距離を往復するのはやはり心身ともに疲弊していったので、次女とも相談し、心機一転、長女の入院先に近いところに引っ越しました。

 引っ越した当時、次女の転入先の学校では学芸会の稽古の真っ最中。演目は次女が昨年の学芸会に辛うじて参加できたもの。その勢いに巻き込まれるように、最初の3週間くらいは登校できていたのですが、学芸会が終わったとたん、プツンと糸が切れたように引きこもるように。やっぱりな……。

 一方、長女は院内学級で少しずつ授業を受けていました。そして、病棟内の他の子たちと触れ合う様になってからは徐々に変わってきました。人と接することに対し、以前よりも恐怖心が減ってきたのです。しかし、市が運営しているフリースクールに見学に行った時には、建物に入ったとたん表情が曇り、学校と同じつくりの建物内で他の教室からのにぎやかな声が聞こえてきた時には、耳を塞いでしゃがみ込んでしまいました。

 二人とも、発達障害によくある感覚過敏があったのです。それに気が付いたのは、二人がそれぞれ小学校高学年に入ったあたりから。建物内で反響している音が、キーンと耳をつんざくように感じられてしまうのです。それぞれの嫌がり方から、私は「どんなところの音が嫌?」「どういう感触が嫌い?」と、少しずつ聞き取り、子どもたちの感じている感覚を言語化するように取り組んでいきました。

 結果、長女は怒鳴り声・大声と反響音が苦手、苦手な感触と人混みが無理。次女も同じような音がダメな状態に加え、やはり人混みや視覚的にも苦手なものがあることが本人たちも言葉で表現することができるようになりました。この状態で学校に行かせても、苦痛にしかならない……。

 とりあえず、交友関係は大事にしたいらしい次女は、学校に行けた日は放課後に友人と遊びに行くようにまでになったので、小学校でできた友人、中学に入って3か月は頑張った時に出来た友人らと遊べるようにさせたいという気持ちもあるので、最低月に1度は学校に顔を出す程度でいいので登校するということに。

 長女は、退院後に病院併設の思春期児童デイケアに通う、という約束となったのですが、だんだんつまらなくなり、行ったところで特に親しい人もいないという状態で遠のいている状態。

 結局、学校に通うことを「普通、当たり前のこと」と考えないようにしました。学校に通える状態の子どもだったら、とっくに他の子と同じ様に通えているっての!!!

■ 試行錯誤の果てに
 言い訳がましいかもしれませんが、それぞれの環境がどうすればベターにできるか、何ができるか、本人たちがどうしたいかを優先しながら試行錯誤した結果がコレなんです。

 今はまだ、精神的な成長の道半ばである二人。まだ自分のことを自分で理解しきれていない部分もあります。私が指摘して初めて気が付いていることもあります。成長とともに、自分の特性についてさらに理解を深め、特性をどう活用できるようになるのかは、未知数。しかし、将来なんて誰にも予測が付くものではないことがほとんどなんだから、遠回りしてもまぁしょうがないよね、と気楽にかまえられればいいのではないでしょうか。

 どうか、いじめでも発達障害ゆえの特性でもなんでも、学校に行けないことを、親も行けていない子ども自身も責めないで受け入れてあげてください。一番の理解者で、一番の居場所が親や同居者であり自宅であることが何より大事。そして、その土台の上に、他の人との交流ができる居場所を、親子で見つけられるように、福祉の専門家の人などの力を借りてみてください。私も、そうしてきましたから。

(梓川みいな)

おたくま経済新聞

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