まるで戦争「日本刀44本を押収」 殺人が起きても止まらない”野田醤油ストライキ”のすべて

9月8日(日)17時0分 文春オンライン


暴力団の侵入、学童盟休等、凄惨苛烈を極めた昭和2年9月から翌年4月まで行われた日本労働組合史最長のストを参加した筆者が描く。


初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「野田スト血戦記」( 解説 を読む)



 昭和2年の9月から翌年4月まで、一世を震撼させた大労働争議が発生した。千葉県野田町(現在市)は東京から約八里、江戸川と利根川の合するところに近く、江戸川の流れに沿った田舎町である。人口1万8000を数え、古くから醬油の都として知られていた。


 野田町が醬油で名を知られるようになったのは徳川時代、200年も昔である。然し近代的会社組織として発足したのは大正7年であり、野田醬油は茂木六家と高梨家の合同した一族会社である。



野田醤油株式会社本社(「野田血戦記」より)


醬油屋者といえば恐れて近附かず、娘などは遠くから道を避けた


 野田が醬油で栄えたのは、江戸川の利用、小麦大豆の集散等理由はいろいろ挙げられているが、要するに商売熱心、代々経営の才に恵まれて発達したもので、醬油の分析、機械化等経営の上では思い切った改革をやっており偶然に大会社になったのではない。只、労働者の待遇は驚く程時代おくれであり、「倉人」と称して口入業を通じて1年契約の制度をとっていた。労働者は工場の中に「ひろしき」と称して雑居して働いていた。雑居生活は環境が良かろう筈がない。低賃金と前借で妻も持たず、賭博と酒色に過ごし、当時醬油屋者といえば恐れて近附かず、娘などは遠くから道を避けた程である。



 こういう自暴自棄の生活に、労働者の権利、労働組合、団結などが説かれたのである。労働組合は救世主の如く迎えられ、忽ち強力な結成を見るに至った。特に極端な最低生活は起上るに何ものをも恐れない強い力となった。


 野田醬油は当時資本金700万(現在8億)従業員約1500人、工場数16、石高50万石と称して事実上日本一の醬油会社であった。この田舎町に大会社が存在しているのだからその勢威は推して知ることが出来よう。



 会社は醬油工場の外、銀行、運輸、鉄道を独占し、旅館、映画館等も合せ持っており、重役は王侯的存在である。もとより町長、町会議員はその傘下にあり、当時重役4名が町議の席をもっていたが、他の町議とは区別され、その坐る椅子は白いカバーを附して特別席を与えられていたのである。県知事が就任すると真先きに挨拶に来るのが野田であり、次が成田山新勝寺だといわれた。その富豪ぶりは東京から青森迄の間、右に出るものがないと迄いわれていた程である。



労働者の悲惨な生活に目をつけ組織化


 当時労働者は2つに分れていた。店員と現場に働く「倉人」である。店員は小僧から番頭まであり、何れも子飼いの郎党で労働問題には知識が暗い。工場の管理と販売に当っていたが古いしきたりをその儘続けていたに過ぎない。現場労働者の悲惨な生活に眼をつけて組織化を始めたのが、総同盟の小泉七造君であった。東京から入って機械の据付けなどをやり乍ら同志を獲得し、大正10年12月14日、愛趣園の境内で結成式を挙げた。この時は約300名が集った。慌てた会社が御用団体を作って対抗した。然し翌年2月迄には会員が加入し、気勢は頓に上った。


 これより組合は要求を次ぎ次ぎに出し、ストを以て闘い、必ず勝った。労働者の条件は忽ち驚く程改善され、「ひろしき」の雑居生活は廃止された。多くの者は家庭を持ち、独身者には2棟の奇宿舎が建てられた。当時重役も店員も着物を着て働いているのに、労組員は洋服を着用してその新しいところを見せた。講演会は工場の中で毎日行われ、眼に一丁字のない者も堂々たる演説をぶつ迄に向上した。大正10年春に結成して昭和2年迄の約7年間に組合はかくて長足の進歩を遂げたのである。



如何にして組合に勝つか


 醬油屋者に何が出来るか、と高をくくっていた会社も組合員の進歩と組織の強化を見ては今や従来の対策では間に合わないとしてここに専門家を雇い入れた。東葛飾郡長であった並木秀太郎氏を工場課長に、協調会より太田霊順氏を顧問に、14年、15年には大学卒の優秀な者を雇い入れて専ら対策を練った。その目的は云うまでもなく如何にして組合に勝つか、である。


 大争議の起きた昭和2年には5月に賃上げをやって不発に終った事件がある。組合があわやストライキに入ろうとした時、本部から差止められた。当時日本の経済界は不調のドン底にあり、ストをかけて闘うのは世論を敵に廻すものとして中止を命じた。この時の使者には、西尾末広、原虎一、斎藤健一の3氏が来ており、使者の顔ぶれから察して、野田支部が容易に命令を受けなかった事情がわかるのである。この時は組合の方から要求したのであるが、いよいよ会社から仕掛けて来た。



 7月になるや従来会社は荷物の全部を丸三運送店に扱わせていたのが、突如丸本運送店にその大部を扱わせるようになった。原因は丸三従業員が組合に加入しているので、丸本を新設し、組合に入らない者に荷扱いをさせようとしたのである。この方法は先に新設した第十七工場にとっており、十七工場の工員は組合に入らないことを厳重な条件にして雇い入れているのである。丸三の組合員は荷物が扱えず、収入が激減したので交捗したが解決つかず、遂に野田支部が荷主である会社と交渉したが、会社は荷物を誰に扱わせようとこちらの自由であると突っ撥ねた。



争議最大の問題は「工場の争奪」


 この問題が大争議の切っかけとなるのであるが、会社は充分用意を整えて臨んでいた。従来負け続けの会社がこの辺で一戦ものにしようとしていたのである。この時も総同盟の本部は抑えにかかったが、意気上っていた組合員は聞かず、交渉は遂に決裂状態となり、組合は9月15日の総会で遂に全面的ストライキの決行となった。



 この時組合の総勢は1430名、16の工場が参加していた。大正14年落成した第十七工場は工員数320名、他の16工場の約3分の1を生産する力を持つ近代的新鋭工場であるが、会社はこの工場には組合員を1名も入れなかった、一人一人組合に加入しないことを誓約させて雇っていたのである。従って今、争議に突入して、最大の問題はこの工場の争奪にあった。十七工場をこうしたのは会社にとっては外堀を埋めたものであり、組合にとっては致命的欠陥であった。当時ストを決行するに当って組合の幹部がこの事実をどの程度評価していたか問題である。


勢い戦いは陰惨なものとなり暴力は至るところで演じられた


 果せる哉、スト突入となるや第十七工場の争奪戦となった。組合は16日朝より十七工場工員の出勤阻止を図ったが、説得がまずく、中には暴力を奮って追い返したりしたので失敗した。この間会社は店員を中心として工作し、工場内に籠城戦術をとり、第十七工場工員を密かに招じて、9月27日には早くも工場の再開に成功したのである。スト突入以来僅かに12日、天王山とも云うべきこの工場の生産がはじまってはストの効果は薄い。勝敗の大勢はここに決し、日本最大の長争議はかくて、戦略的に絶対不利の中に続けられる結果となった。



 先ず成功した会社は暴力団多数を雇い入れて工場の内部を固め、争議団員の切り崩しと工場再開に全力を注いだ。招致隊を編成して一軒一軒訪問し脱退を奨めた。応ずる者があると暗夜自動車に乗せて工場内に運び込んだ。かくて団員約400名の脱会があり、次ぎ次ぎに工場の再開が行われた。11月末には全17工場が操業し、黒煙を上げるに至っては最早争議は如何とも成し難くなった。


 従って組合は勢い防衛に転じ、団員の結束をはかって脱落を防ぎ、有力な調停を入れて解決をはかろうとした。然し今や勝利歴然たる会社は、只無条件降伏を求めて調停には応じない。勢い戦いは陰惨なものとなり暴力は至るところで演じられた。



「大きくなって何になりたいですか」「正しい立派な労働者になりたい」


 会社は行徳工場の社宅が争議団本部に利用されるや、人を派して粉微塵に叩きこわした。争議団の演説会に壮士を送って暴れさせたり、堀越副団長を拉致したり、籠城している劇場を買収して明け渡しを迫ったり、生活の拠点とした消費組合の建物の差押えに出たり、可成り派手に闘いを挑んでいる。この間、会社側の暴力団は争議団員と小競合いを起して、団員3名を短刀で刺して瀕死の重傷を負わせている。



 争議の長期化するにつれて色々な事件が起ったが、1月16日より遂に団員の家族、児童546名が同盟休校し、争議団の指令の下に少年軍、少女軍を編成した。毎日、組合本部に集合、幹部がその教育に当ったが、先生の中には赤松常子氏もいた。学童盟休事件は学校当局はじめ各方面から問題になったが、強行した。盟休児童の教育は専ら戦意を高めることに置かれた。次に紹介する「我等の誓」も毎日繰り返したものである。



我 等 の 誓



問、我らは誰と共に闘っているか


答、父母と共に闘っている



問、我らは何の為に闘っているか


答、頑迷なる資本家を懲らす為に



問、我らはいつまで闘うか


答、敵を倒すまで闘う



間、未来は


答、我らのものである



 試みに教育中の調査をみれば、


「大きくなって何になりたいですか」の問に「正しい立派な労働者になりたい」と答えている者が5年生91名中55名もいた。


竹槍1000本、日本刀44本、ピストル8挺、弾丸80発


 全国の労働者からは学童慰問袋が到着し、学校用具に不自由はしなかった。同時に激励の手紙も届いている。



私のお父さんは醬油屋の職工です。こんど野田町では、醬油屋の仕事を休んで会社と闘っているそうですが、最後まで勇気を出して下さい。お父さんお母さんに孝行して下さい(横浜市 5年生 女子)



皆様に何か送りたいと思いましたから毎日一、二銭ずつ貰った金一円送ります、争議に使って下さい。又御手紙差上げます。元気な勇気のある労働小学の子供になって下さい(群馬県藤岡町 高1年 男子)



 児童の団結は必然的に家族の団結であり、主婦達も黙ってはいなかった。婦人組合員と合流してデモに参加し気勢を上げている。町内にある重役達の豪荘な邸宅に押しかけたり、神社にお百度をふんで必勝を祈願したり、或る時は内務省本部に陳情の為主婦達200名が松戸まで片道五里の道を歩いている。野田に駅はあったが警察に押さえられるので、松戸駅に間隙を求めたのだが、矢張り押さえられて一部の者しか上京は出来なかったりした。



 さらに一方、右翼団体も各地から入り込み、大和民労会、国粋会等が来ている。警察が押収しただけでも竹槍1000本、日本刀44本、ピストル8挺、弾丸80発にのぼっている。



人に硫酸を浴びせるなど暴力の末に


 組合員は「ひろしき」の悪条件の中に起居していたのだから、その行動はつねに暴力がつきまとっており、直接行動が随所に展開された。竹槍を作っているところを検束されたり、会社側についた商店の硝子窓は、一大デモを行って投石の上叩きこわした。労働者の前面に現われた、太田霊順、石塚常太郎氏の父、関根保次郎氏等には硫酸を浴びせて顔面に重傷させた。脱会した団員の家には何者とも知れぬ放火が行われたり、3月20日には東京駅頭に於て堀越副団長が当時としては破天荒な直訴を敢行した。解決の見通し困難な為に社会問題にしようとしてやったのだが、警察は極力本人の思い付単独犯行として取扱った。最後には幹部が重役と刺し違えて一人一殺の案まで立てられ、あわや実行にうつろうとした時解決の運びとなったのである。



 戦略的に緒戦から敗れた組合は長期に亘ってストライキを決行したものの、敗勢を挽回することが出来ず、途に4月20日、涙をのんで会社の条件を受諾し、ここにストは終ったのである。その条件はまさに苛酷を極め、全員解雇である。然し300名だけ会社の選任で新採用されることとなった。涙金38万円、外に7万円、計45万円が支払われたが、借金の整理をすましては手には何程も残らなかった。当時日本は不景気のドン底にあり、職場を失った団員は悲惨の極みで、三々五々、つてを求めて四散した。或る者は発狂し、或る者は労働会館の梁にぶら下って自殺した。敗戦がいかに悲惨なものであるかはここに説く迄もないのである。



なぜ争議に敗れてしまったのか


 この争議に敗れた第一の理由は会社の闘争準備の整っていたのを組合が気がつかなかったか、又は故意に無視したかである。丸本運迭店は明らかに会社の誘いの手であり、争議が終ってからはいくばくもなく解散して今は存在しない。


 第二は第十七工場の工員をどうして組合に加入させなかったかである。元より努力は払ったのであろうがこの儘でストを決行したのは根本的に誤りであった。先ず加入させることが先決であった。結成以来勝利の連続の為、相手を甘くみたとしか思われないのである。


 第三には幹部に行き過ぎがあり、結成当時の絶対的な信頼から相当異心を抱く者があらわれていたのである。消費組合の幹部を兼ねたことも良くなく、本部で酒を飲んだりしているのを組合員に見られ、それが手銭で飲んでいても、そうはみられず、幹部不信が生じた。戦後組合の多くが全国大会などの前夜、麻雀で徹夜しているのを見受けるが、こういう状態は必ず幹部不信になって現われてくることを心すべきであろう。



 第四にはストの理由が直接的でなく、丸三運送店の問題であったことも、影響が無かったとは云えない。会社の狙った通りである。要するにこの争議の敗因は組合側が慎重さを欠き、会社の戦意を甘く見たところにあるのである。振り返ってみる時、一人の卓越した智将が欲しかった所似である。



1000余名もの組員が戦い続けた野田争議


 野田争議は組合運動の中からみれば実によく闘った争議である。脱退者が出ても最後まで1000名の者がふみ止まり困苦欠乏に堪え、意気軒昻、勇猛果敢、戦勢挽回の為に、血の努力を結集したのである。



 或る団員は女房から生活苦を訴えられ脱会を奨められたが、同志を裏切るならお前と別れる、と妻に別れて同志への誓いを立て、一同を感奮興起させた。別の意味からは問題もあろうが、兎も角組合を信ずることかくの如く鉄血の誓いをしたものが1000余名もいたのである。


 全国の労働組合からも物的、精神的援助をうけカンパの総額は3万6000余円の巨額に上った。


 戦後21年2月に至り現在の組合が結成される迄野田の地に組合運動はなかった。当時の争議は暴力的であった為、附近の人々はこれを労働組合と呼ばず「労働会」と呼んで恐れたものであり、戦後組合が結成されてもこの恐怖は尚続いて「組合に入るな」と新採用者の父母は教え込む者が多いのである。会社の圧倒的勝利と組合の惨敗を眼に見ている為に、こう考えるのであろう。同時に会社も又この争議に払った莫大な損失と名誉恢復の為に、再び繰り返すまいとして細心の注意を払うようになっている。


争議に敗れても、醬油労働者が掴んだ偉大な力


 争議に払った費用は争議団が約50万円、会社が500万円とみられている。1対10の損失比率はどの争議にも大体共通したものである。



 会社は争議が終ってから労働対策は協調会の意見を取り入れた。協調会は福利施設の拡充を教えている。


 この結果スポーツの奨励、家族慰安会の開催をしている。又本社前に2000人を収容する興風会館の建築を行い、附属として図書館、育英事業をやり、附属病院の経営、職域保育園も設置した。


 労働政策は従前「ひろしき」に雑居していた時代は主として茨城方面の次三男を集めたが、争議後は一変して野田周辺の比較的富農の長男を雇うようになった。長男はおとなしい者が多く、家と田畑がついていて賃金に不満があっても移動をすることが出来ないからである。


 争議は敗れたが、7年足らずの間に醬油労働者は偉大な力を摑んだ。組合が自省と戦機を誤ったことは惜しまれるが、労働者を解放したその功績は、今も尚消えるものではない。争議にルールの確立していなかった当時として、双方に暴力行為の多かったのは或は止むをえなかったかも知れないが、充分反省を要するところである。今日多くのストライキを見る時、この野田争議の教訓が充分活かされていないのを遺憾に思うのである。組合が順調に勝利を納めている時、次の闘いに慎重でなければならないことをこの争議は語っている。


              (左社代議士)



(横銭 重吉/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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