「戦車に火炎瓶とシャベルで挑む」たった1人の軍人・辻政信が推し進めた“ノモンハン事件”とは

9月22日(日)17時0分 文春オンライン

解説:「失敗の本質」最初の事例、強気一辺倒の参謀の行く果ては?


 今年80周年を迎えたノモンハン事件。「事件」と銘打たれているが、日ソ両軍で計約4万5000人の死傷者を出した、れっきとした戦争だった。昨年もNHKの8月企画で取り上げられ、中心人物の著書が最近復刊されるなど、話題は尽きない。それは、戦争に表れた大日本帝国陸軍の特質がそのまま、その後の太平洋戦争に持ち込まれたからでもある。いわば帝国陸軍の「宿痾」が如実に表れたといっていい。「事件からは多くの教訓と示唆が得られたはずであり、物量を誇る米英との大東亜戦争に対する貴重な教訓になるはずであった」(戸部良一ら「失敗の本質」)。しかし、実際はそうならなかった。それはなぜか。そして、その特質は80年たったいまも、日本人の組織や集団に付きまとっているのではないか。それがノモンハン事件の持つ現代性だろう。



ノモンハン事件 ©文藝春秋


ガダルカナル島の戦い、インパール作戦に続く「日本陸海軍の問題点」


『「太平洋戦争を止められた」エリート軍人・永田鉄山は本当に歴史を変えることができたのか』 の回で日本のエリート軍事官僚の限界について触れたが、ノモンハン事件で浮き彫りになるのは、その極端な例というか、いまでいうなら「キャラが立った」軍人がほぼ1人で事態を動かし、結果的に多くの人命を失わせた悲劇だ。辻政信。石川県出身。陸軍士官学校(陸士)36期。陸士は首席、陸大(陸軍大学校)は恩賜の軍刀(6位までが受け取る)組という超エリートで、常に積極果敢、強気一辺倒の作戦指導をする参謀として知られた。ノモンハン事件の1939年当時は関東軍の作戦参謀の少佐。それが事件の性格を決定づける。経緯は本編にある通りだが、筆者・高宮太平氏は読売新聞や朝日新聞の記者として陸軍省などを担当。戦後は二・二六事件を取り上げた「軍国太平記」などの著作で知られた軍事ジャーナリストだった。


 ベストセラーになった「失敗の本質」は、ノモンハンに始まってガダルカナル、インパールなど6つの海陸の戦闘を事例に挙げ、共通する日本陸海軍の戦略的・組織的問題点をまとめている。それは以下のようなものだ。



戦略上の失敗要因


(1)あいまいな戦略目的 作戦目的が明確でなかった


(2)短期決戦の戦略志向 長期的展望のないまま戦争に突入した


(3)主観的で「帰納的」な戦略策定・空気の支配 科学的思考が組織で共有されなかった


(4)狭くて進化のない戦略オプション 海軍の短期決戦・奇襲・艦隊決戦、陸軍の精神主義・歩兵主兵主義・白兵主義


(5)アンバランスな戦闘技術体系 旧式武器と最先端兵器の混在、零戦と「大和」




組織上の失敗要因


(1)人的ネットワーク偏重の組織構造 官僚制の中に情緒性を混在させた特異な組織


(2)属人的な組織の統合 陸軍海軍の統合的作戦展開実現されず


(3)学習を軽視した組織 ノモンハンの戦車・重砲の重要性など、敗戦の教訓を生かせず


(4)プロセスや動機を重視した評価 結果よりリーダーの意図、やる気を評価



 ノモンハン事件はその最初の事例として取り上げられ、次のように指摘されている。「大兵力、大火力、大物量主義をとる敵に対して、日本軍はなすすべを知らず、敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。情報機関の欠陥と過度の精神主義により、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていたのである」(同書)。さんざんな評価だが、さらに言えば、失敗を認めず訂正しない……。これらは、常に積極的な姿勢を示して攻勢を主張することが評価された陸士、陸大の教育方針と無縁ではないだろう。冷静で合理的な慎重論や撤退論は「弱腰」「敵を恐れている」として頭から否定する。そうなれば、そうした意見は表に出てこなくなる。ノモンハンでもそれが端的に表れた。



ソ連軍戦車に対して火炎瓶とシャベルで挑んだ日本軍


「失敗の本質」は「(ノモンハン事件は)当初、関東軍にとって単なる火遊びにすぎなかったが、結果は日本陸軍にとって初めての敗北感を味あわせたのみならず、日本の外交方針にまで影響を与えた大事件となった」と位置づける。


 事件の結果、日本は対ソ連戦を意味する「北進」を断念。東南アジアに資源を求める「南進」に大きくかじを切った。「ソ連恐るべし」の空気が強まり、日ソ中立条約締結に至る。さらに同書は、「(事件は)本来荒涼たる砂漠地帯における国境線をめぐる争いにすぎなかったが、第一次世界大戦を経験せず、清、帝政ロシア、中国軍閥と戦ってきた日本陸軍にとっては、初めての本格的な近代戦となり、かつまた日本軍にとって最初の大敗北となった」「やってみなければ分からない、やれば何とかなる、という楽天主義に支えられていた日本軍に対して、ソ連軍は合理主義と物量で圧倒し、ソ連軍戦車に対して火炎瓶と円匙(シャベル)で挑んだ日本軍戦闘組織の欠陥を余すところなく暴露したのである」と厳しく断じている。



 同書が言うように、事件からは多くの教訓と示唆が得られたはずだった。しかし、それはとても望み得ないことだっただろう。関東軍は事件1カ月前の1939年4月、辻少佐が起案した「満ソ国境紛争処理要綱」を正式な作戦命令として部隊に示達していた。それは次のような点を基本方針とした。



▽ソ軍(外蒙軍を含む)の不法行為に対しては、周到なる準備の下に徹底的にこれを膺懲し、ソ軍を摺伏せしめ、その野望を封殺す



▽彼の越境を認めたる時は、周到なる計画準備の下に十分なる兵力を用いこれを急襲殲滅す。右目的を達成するため一時的にソ領に侵入せしむることを得



▽国境線明確ならざる地域においては、防衛司令官において自主的に国境線を認定して、これを第一線部隊に明示し、無用の紛争惹起を防止するとともに、第一線の任務達成を容易ならしむ



▽(第一線部隊は)事態の収拾処理に関しては上級司令部に信頼し、意を安んじてただ第一線現場における必勝に専念し万全を期す



 これでは、紛争惹起防止どころか、紛争を起こすのが目的としか読めない。


「戦争は敗けたと感じたものが、敗けたのである」


 これについて辻本人は「『負けてはならぬぞ』との責任感は当然の結果として全関東軍将兵の決意を固めさせた。この命令は画期的な意味を持つものであった」と戦後の著書「ノモンハン」で述べている。関東軍は要綱を参謀本部にも報告したが、参謀本部は正式には何も意思表示せず、関東軍は容認されたと受け止めたようだ。これでは、国境線が不明確な以上、本格的な戦闘になるのは火を見るより明らかだろう。


 辻は事件を振り返って「かえりみて微力、統帥の補佐を誤り、名将の武徳を傷つけ、数千将兵の屍を砂漠に空しく曝した罪を思うとき、断腸切々、悔恨の涙は惜しからぬ残生をなげうって、在天の英霊に心からのお詫びを願うのである」と、大時代的な表現で反省の弁を述べている(「ノモンハン」)。しかし、それは本音だろうか。独断で戦場を離脱したとして自決に追い込まれた捜索隊隊長・井奥栄一中佐についての記述は人ごとのようだし、同書の最後にはこう書いている。「戦争は敗けたと感じたものが、敗けたのである」




「幕僚中、誰一人ノモンハンの地名を知っているものはない」?


 満州事変(1931年)と、その結果としての「満州国」建国(1932年)は関東軍にとって大きな成功事例だった。


 その結果、関東軍はソ連や外蒙古と国境を接して向かい合うことになり、対ソ戦への危機感は一気に増した。「中央の政府・陸軍省・参謀本部の情勢判断が、ややもすればなまぬるいものと感じられるようになった。そして、その過剰なまでの責任意識、対ソ危機感が、満州国を築いた自信や実力と相まって、特に中央との対立関係を起させることになった」(島田俊彦「関東軍」)。「下克上」の条件はそろっていたといえる。


 よく知られていることがある。最初に外蒙古軍が「越境」してきたとき、辻少佐は「幕僚中、誰一人ノモンハンの地名を知っているものはない。目を皿のようにし、拡大鏡をもってハイラル南方、外蒙との境界付近で、ようやくノモンハンの地名を探し出した」(「ノモンハン」)。大事件を起こしておいて、にわかには信じがたい話だ。それにしても、名参謀は頭も切れるし筆も立つようだ。



「上に厚く下に薄い」階級社会の軍隊の暗部がもろに表れた戦争


 本編では触れていないが、この事件では、戦争の苛烈さと軍隊の非情さ、人間の醜悪さが随所に顔をのぞかせている。ソ連軍の大量の戦車による攻撃に、日本軍は白兵戦で応戦するしかなかった。1939年7月11日付東京日日は「対戦車攻撃に火炎ビン作戦」という記事を載せた。「部隊長が後方へやってきて『サイダー壜を二十本ほど都合してくれ』と言うので『どうするのか』と聞くと、『サイダー壜にガソリンを詰めて敵戦車にたたきつけるんだ』と言う。戦車は日中焼けつくように過熱しているので、たちまち燃え上がり、戦車内の敵兵ははい出る暇もなく具合よく火葬になるそうだ」。


 実際に当初は戦果があがったという証言もあるが、兵隊に犠牲を強いる攻撃がどれだけ通用したのだろうか。それ以上に、そうした反撃しかできない兵の苦衷はいかばかりだったか。


 部隊長の多くは戦死し、生き残った者も責任を問われ、何人もが自決などをした。例えば、小松原師団長は、部隊が損耗し、食糧も弾薬もなくなって戦場を離れた井置少佐を「無断撤退した」と叱責。自決に追い込んだ。辻もある連隊長を「戦場でビールを飲んでいた」と告発。連隊長は「ビール瓶に入れた水だった」と弁明する騒ぎもあった。捕虜になった兵は送還後、処罰された。作戦に関与した高級軍人のほとんどは戦後、事件について沈黙を貫いた。完敗だっただけでなく、「上に厚く下に薄い」階級社会の軍隊の暗部がもろに表れた戦争といえる。事件自体が秘匿され、戦後になるまで実情は国民に知らされなかった。




 事件の背景には複雑な国際情勢もあった。日本にはドイツ、イタリア、ソ連との4カ国協約構想があったが挫折。ソ連が持ち掛けた不侵略条約を拒否したことから、ソ連は不信感を強め、日本軍に打撃を与える機会を狙っていた。そして、ソ連が圧倒的な優勢の中で停戦協定に応じたのは、ヨーロッパの軍事情勢が切迫していたからだった。1939年9月1日、ドイツのポーランド進攻が始まり(第2次世界大戦の勃発)、ノモンハンの停戦協定が成立した翌日の9月17日、ドイツとの密約の下にソ連もポーランドに進駐した。



「ハエが群がり、ウジ虫のはい回る日本兵の屍が累々と……」


 ノモンハン事件にはもう1つ、秘話がある。現在国立近代美術館にアメリカから「無期限貸与」されている絵画の中に、藤田嗣治の「哈爾哈(ハルハ)河岬之戦闘」がある。縦約1.5m、横4.5mの大作。広大な草原の中、破壊されたソ連軍戦車の内部に銃剣を突き刺している日本兵たちを描いている。


 田中日佐夫「日本の戦争画」によると、この絵は本編にも登場する第六軍司令官・荻洲立兵中将の依頼で描かれたという。荻洲中将も、苦戦が続いている中、「小松原師団長の死を希望する」趣旨の発言をして辻少佐にとがめられるなど、問題のある人物だった。



「この年(1940年)の九月、藤田は荻須(洲)立兵という予備役中将の訪問を受けて、中将が戦い破れたノモンハン事件の戦の絵を、部下の冥福のために描いてほしいと依頼された。藤田は引き受け、藤田邸に差し向けられた兵士たちを写生し、戦車や飛行機の写生に出かけ、さらに満州にまで足をのばして、満州の大平原をその目で確かめたという」(同書)。


 さらに奇妙なのは、ノモンハンを描いた藤田の絵はもう1枚あったということ。1941年の初め、藤田のアトリエで「哈爾哈(ハルハ)河岬之戦闘」が公開された。ある美術誌の編集者が遅れて訪れると、藤田が「実はもう1点、見てもらいたいものがある。絶対の秘密」と言ってカーテンを引くと、全く同じ大きさの絵があった。


「ハエが群がり、ウジ虫のはい回る日本兵の屍が累々と横たわり、その上をソ連軍の戦車が冷酷無残に踏みにじっている情景があった」(同書)。藤田は「これがほんとの戦争なんだよ」と言ったという。この話にはほかにも証言者がいる。その絵は戦災で焼けたといわれる。



「絶対悪」イギリス兵の人肉食の噂も出た、辻政信のその後


 辻政信は以前から石原莞爾に私淑。満州と関東軍に精通し、持ち前の積極的な性格もあいまって、発言力は関東軍内部でも大きかった。さらに彼を支えていたのは直属の上司である作戦主任参謀の服部卓四郎中佐で、こちらも陸士、陸大卒のエリート。本編にもある通り、このコンビはいったん閑職に追いやられたように見えて、2年後の太平洋戦争開戦時には参謀本部の中枢で強力な戦争指導を行う。特に辻は、太平洋戦争開戦直後のマレー半島からシンガポール進攻の電撃作戦で大成功を収め、「作戦の神様」などとうたわれる。一方で、シンガポール陥落後、華僑虐殺を命令したとされたり、イギリス兵の人肉食のうわさが出たり、悪い話題にも事欠かなかった。いまも「絶対悪」とする歴史家がいる。服部、辻のコンビはさらにガダルカナル戦で研究事例になるような拙劣な作戦指導を行い、再度閑職に追いやられる。



 辻は敗戦時、大佐でタイ・バンコクに駐在していたが、行方をくらまし、東南アジアや中国、帰国してからは国内で潜伏生活を続けた。戦犯解除後の1950年、当時を回想した「潜行三千里」を出版してベストセラーに。1952年10月、衆議院石川1区から無所属で出馬して6万票余りを集め、トップ当選。当時の新聞記事を見ると、石原莞爾が設立した東亜連盟の肩書も使っている。やがて自民党入りするが、その後首相となる岸信介を批判して自民党を除名され、今度は参院議員として復活。そして1961年、東南アジア視察の名目で出国したまま消息不明となる。1968年7月、失踪宣告。


辻・服部だけでない、戦後も暗躍した“懲りない面々”


 足取りは長くナゾとされてきたが、1970年4月、ラオス・ビエンチャンの朝日・伴野朗特派員(のち作家)が送った「私は辻政信氏の通訳だった」という特ダネ記事が消息を伝えた。それによると、辻は旧知のホー・チ・ミン北ベトナム(当時)首相と面会するため、隣国ラオスに入国したが、パテト・ラオ(ラオスの共産勢力)に逮捕された。仏教僧侶の姿に変装していたことが疑われたという。他の証言からも、間もなく処刑された可能性が強いとされる。波乱万丈の人生だった。2018年8月放送のNHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」を単行本化した同名書では、辻の次男が父がいかに人間的であったかを力説している。地元石川ではいまも尊敬されているという。そういう面もあったのだろう。確かにこれまで、彼だけを帝国陸軍の諸悪の根源のように言いすぎた傾向があったかもしれない。それによって彼以外の責任がうやむやになったことは否定できない。



 辻は戦後、政治家となったが、コンビだった服部卓四郎もGHQ(連合国軍総司令部)に取り入り、日本の再軍備研究のための「服部機関」を創設。警察予備隊(のちの自衛隊)発足に大きな貢献をする。一方で、1953年には、日本側の戦史の決定版とされた「大東亜戦争全史」をまとめている。しかし、その中ではノモンハン事件について、「当時、日本陸軍は対華(中国)長期戦態勢の整備中であって、約三十個師団に及ぶ極東ソ連軍に対し、日本の在満兵力はわずかに八師団であった」と戦力不足を吐露しただけだった。戦後も暗躍した旧軍人はほかにもいる。彼らが敗戦の責任をとることはなかった。“懲りない面々”といえるのかもしれない。


本編 「ノモンハンの敗戦」 を読む


【参考文献】

▽戸部良一ら「失敗の本質」 ダイヤモンド社 1984年

▽辻政信「ノモンハン」 原書房 1975年

▽島田俊彦「関東軍」 中公新書 1965年

▽田中日佐夫「日本の戦争画」 ぺりかん社 1985年

▽田中雄一「ノモンハン 責任なき戦い」 講談社現代新書 2019年



(小池 新)

文春オンライン

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