志らくが津田大介との“あいトリ”生討論で露呈した“お上忖度体質” 「慰安婦像は政府が認めてない」と独裁国家の検閲官なみ芸術観

10月11日(金)6時59分 LITERA

『グッとラック!』で“あいトリ”を生討論した志らく(番組HPより)

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 8日に展示を再開した、あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」。周知のように、同企画展をめぐっては、「慰安婦」問題を象徴する「平和の少女像」が“反日バッシング”の標的となり、大浦信行氏の作品「遠近を抱えて PartⅡ」が「昭和天皇の肖像を燃やしている」などとしてネット右翼と政権周辺の政治家から攻撃され、電凸や脅迫が相次いだことで、8月1日の開幕からわずか3日で中止に。先月には、文化庁がすでに採択していたあいちトリエンナーレへの助成金を全額取り消す決定まで下した。


 剥き出しの圧力を仕掛ける政権と極右政治家、テロ予告に及んだネトウヨたちの思い通りに終わらせず、対策をとったうえで展示再開にこぎつけたことを、本サイトとしてはしっかりと評価しておきたい。


 ところが、テレビのワイドショーは、再開された「表現の不自由展・その後」の厳重な警備体制や観賞人数制限などを「企画側が不自由を強いている」と揶揄するかのごとく扱っている。逆だ。本来は「放火の対策をしないと自由に表現ができない社会」こそ異常なのである。にもかかわらず、マスコミは「再開は賛否両論」という言葉で濁しつつ、いまだに「表現の不自由展・その後」に問題があるかのようなスタンスを続けているのだ。


 その典型例が、落語家の立川志らくだろう。志らくといえば、テレビで“反ポリコレ”的な発言を繰り返し、予防線を張りながら安倍政権への批判言説を叩いてみせる “炎上コメンテーター”としておなじみ。その話芸から滲み出る浅識にもかかわらず、なぜかスポーツ紙など一部からご意見番扱いされ、9月末からスタートした新情報番組『グッとラック!』(TBS)のMCにまで抜擢された。


 そんな志らく司会の『グッとラック!』が、昨日9日の放送で「表現の不自由展・その後」展示再開の話題を取り上げ、あいちトリエンナーレの芸術監督である津田大介氏と中継をつないだ。そして、スタジオで唯一「再開反対」と表明した志らくが、津田氏と“生討論”に臨んだわけだが……これがまた、本気で目を覆いたくなるほどの無知蒙昧を垂れ流したのである。


 まず、スタジオで「時間があれば(座り込みをした)河村市長の横に行きたいくらい反対」と大ミエを切った志らく。中継先の津田氏に対して、なぜか自信満々な様子で「VTRであったように『表現の不自由展』なのに観るほうがものすごく不自由だと、ちょっと言われてますが、それはどう思ってます?」と質問した。


 いやはや、最初に聞くことがソレ?と首をかしげてしまうが、津田氏が「他の展示観賞などへ影響が出るため、現場管理上、このかたちを取らざるを得なかった」「少しずつ観られる人を増やす運用をしたい」と語ると、志らくはとくに人数制限や警備体制の話を膨らますこともなく、「これだけ大騒動になるということは想定していなかった?」と、どんどん前のめりになっていき、「私が個人的によくないなと思うのは、みんなが言ってることではあるんですけども、たとえば陛下の写真を踏みにじるような、それが表現の自由だと。それは果たして芸術なんですか、それは?」とイチャモンをつけ始めた。


 さらには「たとえば津田さんには、お子さんはいらっしゃいますか?」と尋ね、津田氏が「いないですね」と答えると、こんな意味不明な例えを持ち出すのだった。


「じゃあ、お子さんじゃなくて、たとえば自分の親、自分の子ども、それにいろんな理由をつけて、それも表現だといって、大勢の人の前でその写真を、子どもの写真を踏む、親の写真を破く、あるいは子どもの虐待の映像を見せる、これも表現の自由なんだと、そういうことをやりはじめたらば、津田さんはどう思いますか? 自分の親の写真をいろんな人が焼いたり踏んだりするのを芸術だと言われたら」


 いったい、この人は何を言っているのだろう。真面目に突っ込む気も失せるほどの頭の悪さだが、どうやらその自覚がないらしいので、ちゃんと指摘しておこう。


●「明治憲法における最高権力者たる昭和天皇」と「虐待される子ども」を同列に語る志らくの不見識


 まず、「昭和天皇の肖像を焼く映像」と「子どもの虐待映像」はまったくの別物である。昭和天皇は大日本帝国憲法における最高権力者、公人中の公人であり、戦中そして戦後を含む日本のもっともシンボリックな存在だ。かたや、「津田氏の子ども」(実際にはいないが)は誰がどう見ても私人であって、しかも虐待は当たり前に犯罪である。それを同列に並べて「どちらも表現の自由なのか」と聞くこと自体、馬鹿げているとしか言いようがない。


 そもそも大前提として、表現の自由は本来、国家権力から個人を守るための権利だ。志らくが叩いてみせる「誰をも無制限に傷つけてよい権利」では決してない。というか真逆で、いわば「傷つけるもの/傷つけられるもの」の非対称性(強者と弱者の関係、たとえば権力構造はその代表である)に抗するためのものだ。


 志らくが得意げに語っているのは、単に「ある行為がある人にとって不快であったときにはそれをやめなさい」ということにすぎない。通俗的な道徳の話としてはありえるが、実のところ、表現の自由の議論の根底にすら触れていない。たしかに表現の自由は無制限ではないが、「快/不快」のみを根拠に封殺されることがあってはならない。むしろ、表現の自由は言論と反論、報道や出版、芸術表現、政治活動や結社などの基盤をなす概念であり、それらによって人々の討議が喚起されるからこそ、近代民主主義社会の最低条件なのである。


 津田氏もまた、こうした表現の自由の基本的考え方を念頭に「自分自身が不快になるかということと、表現の自由の範囲であるかということは別の問題だと思います」などと返したのだが、それでも志らくは「悲しむ人がいっぱいいる」などと繰り返し、あげく「それをやりたいというのであれば、自分のお金でやればいいじゃないですか。なにも税金使う必要ないんじゃないんですか。その一点ですよ。なぜ税金を使ってやるのか」と、今度は税金を使ってやるのはまかり通らんと主張し始めたのだった。


 これもまたネット右翼が連呼している内容そのものだ。本サイトではすでに反論しているが、志らくのためにもう一度言っておこう。まず、作品の政治的スタンスを公権力が解釈し、補助金支出の可否を判断するのは、憲法で禁じられた検閲そのものだ。表現の自由は、国から補助金をもらっているかどうかとはまったく関係なく保障されねばならない。なぜならば、「国から金をもらっているのだから国の言うことを聞かねばならない」という論理がまかり通れば、表現文化が死滅するのはもちろん、一般の市民生活にも多大な抑圧をもたらすからである。


 志らくは番組のなかで、一応、「私もいろんなものを表現するということは、これは国が規制してはいけないと思うんですよ」と述べていたが、これは予防線にすぎない。事実、その後に続く言葉は、あきらかに「政府が認めたものだけが芸術だ」という、まるで独裁国家の検閲官のような呆れた“芸術観”をさらけだすものだった。


●「政府が認めたものだけが芸術」志らくが開陳した独裁国家の検閲官並みの芸術観


「津田さんがおっしゃるとおり、いろんな人が考えるというのはこれはものすごい大事なことで、それは大事なことなんだけども、でも、みんなが、みんなって言っちゃおかしいんだけども、陛下の写真を踏むとか、それから、日本においてあの慰安婦像、向こうでは平和の像とは言われてるけども、これだけ政府がまだ認めていないものを芸術だって言い張っちゃうと。たとえば言論の自由を認めれば何言ってもいいんだけど、何言ってもいいからといって、人のこと誹謗中傷しちゃいけないっていうルールのなかでやってるじゃないですか」


 大浦氏の「遠近を超えてPartⅡ」やキム・ウンソン氏とキム・ソギョン氏の「平和の少女像」を「誹謗中傷」と言ってのける読解力のなさも相当だが、「政府がまだ認めていないものを芸術だって言い張っちゃうと」なる発言こそ、本性が露わになったと言わざるを得ない。つまるところ、志らくは普段、尊大なまでに「俺は正論を吐いている」というポーズをとっているが、自覚の有無にかかわらず、結局は“お上”を忖度しているにすぎないのだ。


 いや、単なる忖度よりもタチが悪いかもしれない。この落語家は「政府が認めたものだけが芸術だ」と考えているだけでなく、国家権力による表現弾圧を積極的に肯定、扇動すらしていたからだ。討論のなかで、文化庁の交付金取り消しの決定について触れた志らくは、実にこう口走った。


「私が思ったのは、萩生田さんでしたっけ? 自民党のほうが、手続きの問題で交付金を出さない、と。あれはちょっと卑怯だと思ったんですよね。はっきり言えばいいと。自民党なりの国の考えを。こういうヘイトを含むものを芸術としてやるならば、国は金を出しませんよと。そうはっきり言ってくれれば、それに対してまた、いろんな意見が出てくるんだと思うんだけど、手続きで逃げたと」


 たしかに批判を避けるため手続き問題にすり替える政府のやり口は「卑怯」だが、つまるところ、志らくは「自民党が認めないから金は出さないとはっきり言え」と公器たるテレビで煽っているのだ。しかもヘイト(=差別)の意味を誤用した「日本ヘイト」なるネトウヨ論理に乗っかって。


 こんな滅茶苦茶な発言が許されれば、それこそ「公金を受け取ったら政府の命令どおりのプロパガンダをつくれ」とか「生活保護を貰うなら一切文句を言うな」というネトウヨ言説がどんどん加速していってしまう。最終的に行き着くのは、「公共のサービスを受けているのだから、政府を批判するな」というような言論管理社会だ。もはや、この人が本当に言葉で飯を食う落語家なのかすら怪しく思えるではないか。


 もう十分だろう。なるほど、「子どもの虐待映像を認めるのか」なる筋違いの批判を繰り返すわけである。ようは、この人は表現の自由について語る前に、なぜその権利の保障が民主主義国家の最低条件であるかをまったくわかっていないのだ。


●志らくは番組終了後もツイッターで「やっていいことと悪いことがある」と強弁


 もとより、志らくに情報番組のMCとして何かを期待している人は多くないと思うが、この際、はっきり言っておこう。問題の根源を考察せぬまま、あまりに雑な珍論を強弁し、権力の暴走に対する危機感など微塵もなく、あげく「政府の言うことを聞け」と得意げに説教をかます感性。言論人として、メディア人として、あまりに致命的である。


 ちなみに、志らくはスタジオでも、番組コメンテーターの若手ライター・望月優大氏から、その主張の雑さを浮き彫りにされていた。望月氏は「志らくさんのような意見を持つことは自由」としたうえで、「展示を見て、むしろ別々の意見を持っている人が話し合ったりとか、あるいは、もともと持っていた意見が少し変わったりとか、そういうものがアートの役割」と反論。「仮に、多数の人がこの展示に反対であったとしても、そういうときにこそ表現の自由であったりとか、国家がそこに対してお金を出す出さないということでコントロールを効かせるということの問題が先鋭に出てくる」と、実にまっとうな指摘をした。


 だが、こうした原則を志らくが心に留めるとは思えない。津田氏との生中継による約20分間の討論の終わり際、この落語家は、「津田さんのおっしゃってることは、論理的にちゃんとはしてるんだけども、唯一感情が抜けてると思う。みんなが悲しむって、これをどう思うのかって。感情が抜けてるのがちょっと、気にいらないって言ったら気に入らないな」と捨て台詞を吐いた。おまけに、番組終了後にはTwitterに〈グッとラック。表現の不自由展で素直に感じたこと。やっていいことと悪いことがあると子供の頃に親から教育を受けなかったのかなあ〉と投稿している。


 恐ろしいことに、この人は自己の無謬性を決して疑わない。他人からしてみれば劣情としか言いようがない感情を平然と一般化し、押し付ける。そして、表現の自由本来の目的を無視して「こんなのは表現の自由じゃない」と吠え、排除を促す。全国放送の情報番組のMCとしてかくも不適格な人物はいないだろうが、しかし、こういった人物は志らくだけではない。


 たとえば、名古屋市の河村たかし市長はその典型だ。もともと慰安婦問題を否定してきたゴリゴリの極右政治家だが、「表現の不自由展・その後」の展示再開初日、愛知県庁前での再開反対の「抗議集会」に参加し、会場建物の前で数分間の「座り込み」などを行なった。なお、河村市長と共に「抗議」を行なった少数集団のなかには、在特会と排外デモを共催し、ブログでも「在日特権」のヘイトデマを垂れ流す極右市民団体の関係者がいたことが確認されている。


 そもそも、行政権を持たない市民による座り込み等の抗議運動を、まさに権力者である首長がその表層だけ借りて利用すること自体、倒錯もいいところだ。河村市長ら極右政治家がトリエンナーレへの電凸を煽った事実は、検証委員会による中間報告でも認定されていた。いずれにしても、この極右首長は「座り込み」のパフォーマンスをメディアに拡散させることで、またぞろ「表現の不自由展・その後」の再開を潰しにかかったわけだ。


●河村たかし名古屋市長はヘイト極右市民団体と一緒に“座り込み”


 河村市長は同日、「ハフィントンポスト」のインタビューで「こんな日本人の普通の人の気持ちをハイジャックして。暴力ですよ。そんなことやる人が、なぜ表現の自由なんて言えるんですか? 恥ずかしい」と発言した。つまり、志らくとまったく同じ論法で表現の自由を曲解・矮小化し、政治圧力を正当化していたのである。


 志らくや河村市長、そして安倍政権と周辺の政治家にも言えることだが、この人たちは最初から作品の理解を試みてはいない。たとえば「平和の少女像」は“反日の象徴”としてつくられていない(過去記事参照https://lite-ra.com/2017/01/post-2843.html)。また、彼らが「昭和天皇の肖像を燃やすなどけしからん」とがなりたてる大浦信行氏の映像作品「遠近を抱えて PartⅡ」についても、ネトウヨの表層的な批判を聞きかじったレベルなのは明らかだ。


「創」(創出版)10月号には、8月、「表現の不自由展・その後」の中止を受けて開かれた緊急シンポジウムでの大浦氏の語り、および篠田博之編集長によるインタビューが掲載されている。大浦氏は「単なる天皇批判」ではなく、「自分の中に湧き上がってくる自己のイメージを外へ外へと拡散させていく。一方で内側に収斂されていく天皇のイメージと、その2つを重ね合わせて自画像を作ろうと思ったのが、そもそもの動機」であり、「今回の映像の出発点にあって、天皇像が燃えるという形で完結を図った」。戦中の「慰安婦」の女性のなかに抱え込まれた「内なる天皇」を燃やすことによって「昇華」させる作業なのだという。


「戦前はみなお国のために死んでいくという考え方を吹き込まれて育ったわけじゃないですか。その一人一人の内側に抱え込まれた『内なる天皇』ですよね。それを自分の中で意識した時に『燃やす』という行為が出てくるわけです。だから『祈り』なんですね。
 それは映像に出てくる特攻隊の人たちも同じだし、靖国の空に舞っている慰安婦たちも同じですよね。あの人たちも皇民化教育をうけてきたわけだから。その『内なる天皇』を見つめようということなんです」(「創」より)


 作者を離れた「作品」は鑑賞者のものでもあるが、「昭和天皇の写真を燃やしている」ことだけをあげつらう人々は、作者の声に聞く耳を持とうとしない。もともと「遠近を超えてPartⅡ」は、大浦氏が1986年に富山県立近代美術館の美術展に出品した「遠近を超えて」の一部を元にしている。こちらは、昭和天皇の写真などとコラージュした版画作品だ。富山での美術展後、県議会議員がこの作品を問題視し、右翼が街宣等で圧力をかけ、図録が非公開にされた。結果、富山県は1993年に購入した作品を売却し、残っていた図録も焼却処分された。「天皇の肖像」を「燃やし」たのは、他ならぬ権力だったのだ。


 いずれにしても、「表現の不自由展・その後」中止問題は、政治と狂乱が躊躇なく表現の自由を潰すことを証明した。今後も、マスメディアを通じて、立川志らくのような「政府の言うことを聞かなりなら黙れ」という圧力の扇動が垂れ流されるだろう。この美術展に限った話ではない。突き当たりにあるのは、私たちひとりひとりの表現・言論の一切が公権力に管理される閉塞的社会だ。座視してはならない。
(編集部)


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