賛否両論の映画『ジョーカー』が、「M-1グランプリ」を真面目に見てしまう構図と似ている理由

11月1日(金)6時0分 文春オンライン

 先週こんな新聞記事が。


「大阪、ピエロの覆面強盗相次ぐ」(毎日新聞夕刊・10月26日)


 捜査関係者への取材によると《上映中の人気映画「ジョーカー」の主人公に似たピエロの覆面だった》という。



映画『ジョーカー』 ©︎2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & ©︎ DC Comics


 強盗犯は11年前の『ダークナイト』を今さら観たのかもとも思いつつ、『ジョーカー』が話題だとあらためて感じたのです。


芸人が主人公で、しかもシビアな内容らしい


 私は9月にこの記事を読んでから気になって仕方なかった。


「アメコミ映画、ベネチア最高賞 社会から疎外された男描く『ジョーカー』」(朝日新聞・9月10日)


「上映されるや、熱狂的な支持を集めた」と。一体どんな内容なのだ。



《映画は、精神を病んだ大道芸人のアーサーが悪の道化師ジョーカーに変貌するまでの経緯を、リアリズムに徹した暗い映像で描く。トッド・フィリップス監督と主演のホアキン・フェニックスらがオリジナルの物語として新たなジョーカー像を作り上げた。》


《凄惨な暴力描写で、社会から疎外された男の鬱屈と孤独を表現。実社会にも通ずる貧富の格差などの主題も脚本に盛り込んだ。》


 芸人が主人公で、しかもシビアな内容らしい。ますます気になる。


 そんなわけで2回観たのですが、まず新聞読み比べならぬ監督のインタビュー読み比べで気づいたことを書きます。



「倫理観に欠けている」批判に、「えっ、そこが面白いんだけど」


 トッド・フィリップス監督がパンフレットで語っているこの部分。


「監督はコメディ映画のイメージが強く、本作で驚いた映画ファンも多いと思います」という質問に、『ハングオーバー!』シリーズ(09年〜13年)も同じくらいダークだと思うとし、


《あの映画(『ハングオーバー!』)は「倫理観に欠けている」とよく批判されますしね。「えっ、そこが面白いんだけど」と思うんですが。》


 と答えている。



 そして、監督はコメディの本質とは破壊的で不謹慎なものだと考えているのに、


《だけど今は、コメディを作りつつ、人を怒らせないことが非常に難しい時代です。》


 と語っている。続けて、


《世界はあらゆることに敏感になっていて、誰かを笑わせようとすれば誰かが怒る。もはや、笑えることが笑えないわけです。ならば、僕は違う場所でやろうと思いました。》


 あ……。映画を観て余韻に浸っていた私の心はザワザワし始めた。


「もしかして『ジョーカー』ってトッド・フィリップス監督の渾身のジョークだったのか?」と。


「M-1グランプリ」の構造と似ている


 もしそうなら、これは確かに大ネタである。コメディの枠を超えてみんな真面目に見ちゃっているからだ。


 私はこれに似た感覚に心当たりがあった。なんだっけ……


 そうだ、「M-1グランプリ」だ!


 M-1はお笑い番組である。しかし真剣に見る人が続出。私もそう。あのヒリヒリ感と緊張感はたまらない刺激がある。視聴者を引き付ける。


 そして何より演者のネタが年々高度になり、見る側はSNS等での番組実況や感想もついつい真面目になる。批評的になるのだ。



「おい、なに笑ってんだ。漫才やってるんだぞ。真面目に見ろ!」


「そんなとこで簡単に笑うな!」


「審査員ちゃんと審査しろ!」


 というような感じで。


 よーく考えればこの構図は可笑しい。しかし「M-1を真面目に見る人」が続出すればするほどあの「お笑い番組」は大成功なのである。素晴らしいシステムではないか。


 実は「ジョーカー」も同じなのではないか?



もしあのシーンが「止めて!」じゃなくて「ありがとう」だったら


 悲劇にみせて実は喜劇をつくった。悪い冗談だけでつくった。今回のジョーカーは気弱で純粋そうに見えたが、実は客席の後方で「真面目に見る人」を眺めて笑っているのかもしれない。


 しかしそれでもこの大ネタに関しては真面目に語る価値がある。ネタ(コメディ)だろうが、今の社会を浮き彫りにしているからだ。


「映画秘宝」(11月号)ではトッド・フィリップス監督はあるシーンを例に語っている。ジョーカーになる前の主人公アーサーについて。


《ほら、バスのなかでアーサーが子どもを笑わせようとすると、母親が止めさせるだろ。もしもあのシーンが「止めて!」じゃなくて「ありがとう」だったら、アーサーはどれだけ幸せな人生を歩むことができたんだろうと想像するんだ。》


 いかがだろうか。映画の冒頭に描かれていたシーンにいきなり大きな意味があった。アーサーはいないいないばあっ!のようなことをして子どもを笑わせていた。しかし母親に拒絶される。



 もし、あそこでアーサーの「親切」に母親が礼を言って和み、周囲の乗客たちも笑顔で見守る社会なら……。


 映画はここで終了なのだ。ジョーカーを生む必要は無いのだから。


 しかしバスの人々はアーサーを受け入れなかった。あのバスの不寛容な空気は今の社会そのもの。誰も和んでくれない状況にアーサーは一人で笑った。それは脳の障害による発作で、緊張すると発症する哀しい笑いだった。


 コメディだとしても、現代を描いた箇所を思わず真面目に見てしまう。でもジョーカー可哀そうと思ってどんどん肩入れしていくと……。ああ、なんという巧妙な構図なんだろう。



『ジョーカー』を観るとメンタルやられるとか、疲れるという感想もあるようだ。


 でも映画館の外に出たほうがよっぽどヤバいだろう。現実のほうが。


 思い出してほしい。『シン・ゴジラ』の衝撃のひとつは、映画館を出たら現実の「官房副長官」は長谷川博己ではなく萩生田光一だったことだ。悪い冗談だった。


 その現実に気づいたときの虚無感を今も忘れない。萩生田先生はそのあと大臣までご出世された。今は文部科学大臣なのにせっせと「身の丈」発言などをかましている。これならゴジラが出てくる世界のほうがマシに思える。『ジョーカー』の世界のほうがマシなんじゃないか? トランプしかり。



 映画はシビアだけどジョークさ。それより映画館の外の世界を見ろ、悪い冗談ばかりじゃないか。


 ジョーカーの高笑いが聞こえてくる。



(プチ鹿島)

文春オンライン

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