日本の運命を変えた太平洋戦争の裏側——東条英機内閣の書記官長が明かした「開戦前夜」

11月10日(日)17時0分 文春オンライン


日本の運命を大きく揺すぶった太平洋戦争前夜の政府の動きを当時東条内閣書記官長たりし筆者が戦後10年の今日初めて発表する!!


初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「太平洋戦争開戦す」( 解説 を読む)



日本とはもう交渉する意思のないことを露骨に示すハル・ノート


 その前の日12月7日(昭和16年)は日曜であった。その日の東京は一日中暖く、風もなく静かであった。又その日は内閣にとっても誠に静かな一日であった。昨日までは政府大本営連絡会議は毎日の様に行われていた。内閣にも色々な会議が続いた、各官庁も夜昼となく大童で働いて居た。どこの役所も夜晩くまでこうこうとあかりが輝いていた。


 だが今日は内閣には訪う人もない。どこの役所も休んでいる。明8日朝には米国側に最後の文書が手渡されることとなっている。そのことを知っているものは極めて少ない。が、いろいろな仕事も概ねその頃を目当てにして進められていた。それらの仕事は終って次の段階に入ろうとしている。その日はその断層に当っているのである。


 前月26日に日本は所謂ハル・ノートを受取った。東条英機内閣成立以来、迷路に落込んでいる日米交渉を、何とかして再びレールに載せようとして智恵をしぼり考えをあつめて作り上げた新しい日本の提案の心持は全く米国側に通じなかった。殊に危機をいくらかでも延し、その間にもう少しゆっくり話しをしようと云う所謂乙号提案については相当期待していたのだがこの期待は裏切られ、この案は全く省みられさえしなかった。そしてあらゆる予想及び期待を裏切って日本の受取った回答の内容は、今度の日本の提案に何等直接答えていないのみでなく、今まで数次の話し合いで両国の間に歩み寄って来たことがらさえも全く無視して当初からの米国の主張を繰り返えし強調したものであった。更にその中には、今まで表面の問題にはなっていなかったが、話合いの中で大体了解済みのものと思われていた、日本の満洲に於ける地位に対しても、これを全面的に否定する主張が明言されていた。そして全体の調子は日本とはもう交渉する意思のないことを露骨に示すものであった。



本編の筆者・星野直樹氏


アメリカに国交断絶を伝えた「12月9日の早朝」


 ハル・ノートに接して、これまで折角努力して来た人達はがっかりした。日米衝突は終生避けられないと云うことに異論がなくなった。かくて御前大本営政府連絡会議、御前重臣会議となり、終に開戦の決意が行われるに至ったのである。


 尚その際彼我の軍隊が接触して、戦が始まるに先立ち、米国に国交断絶の通知を行うことが決定された。何時その通知を行うかが一番むずかしい問題であった。海軍側は成るべく遅く、即衝突の直前を望み、外務省側は大事をとって、相当の時間が必要であると主張した。この点は連絡会議でもなかなか決定しない。結局軍事上の衝突が起こる前に必ず、先方に手渡すことができることを目標として、時間は海軍、外交両当局の話合いに任せることに決定された。其の結果軍事衝突予定時間より30分前に手交することにきまったことを聞いた。然してその時期は12月8日、即翌日の早朝なのである。




最後まで米国の心持を変えることに努めた


 これ程苦心をしてきめた時間であったが、いよいよとなるとワシントンに於ける我国大使館の事務の手違いか、怠慢か、翻訳、文書の作成が手間どり、結局野村吉三郎大使の文書の手交は所定の時問より1時間遅れ、ために真珠湾の衝突より遅くなり、折角の苦心も水の泡となり、云わば外交上の恥をかいたことは残念なことであった。



 米国側にこの文書が手交されたら、内閣は直ちに、宣戦の詔書の公布その他戦争状態に入ることに関連して必要な事項の処理を開始しなければならない。が、それまでは軽々しく動くことはできない。その間に異常な動きを見せることは、極めて危険なことであるのは云うまでもない。


 一体ハル・ノートとは従来の米国の態度と著しく変り、ブッキラ棒のものである。或は別に米国から意志表示があるのではないかと思われる程のものであった。又ワシントンに於ける我国の代表者も色々のルートを通して米国首脳部に働きかけ、最後まで米国の心持を変えることに努めたことも聞いていた。万一事態が急変して、米国が我国の先の提案を認めるが如き場合には、軍の行動は、何時たりとも直に止め得る様な措置は講じてあると、軍事当局は言明していた。


 従ってハル・ノートを受取ってからの日々は極度に緊張した、いつどう云う変化があるかわからない不安定の日でもあった。しかし日のたつにつれ、米国の態度に変更はなく、従って事態は終に最後の段階に突入する外なきことは明らかとなった。かくて12月7日に至っては最早事態は最後のぎりぎりの段階に立至ったことを覚悟せざるを得ざるに至ったのである。


「これから満洲に出張するので」明日に何が起こるとも知らず


 私はその日の朝は家に近い紀尾井町の鮎川邸のテニスコートに行って、久し振りに家族のものや、秘書官連中を相手にコートをかけめぐって数時間を費した。そこへ対満事務局の竹内次長が訪ねて来た。「これから満洲に出張するので挨拶に来た」とのことであった。私は一寸出立を3、4日延ばした方がよいのではないかと云おうと思った。が竹内君はその顔色を見てか、東条総裁(首相は陸相として対満事務局総裁を兼ねていた)のお許しも得て来ましたと云った。私も別に、強いて延ばさなければならない理由もないと思いかえして、じゃいってらっしゃいと云って別れた。竹内君は勿論明日どんなことが起こるかは知らなかったのである。



 ひる過ぎ総理官邸に出かけて行った。ひっそりしている。日本間に東条首相を訪ねた。谷正之情報局総裁、森山法制局長官も別に打合せた訳ではないがやってきた。首相は自室に和服で寛いでいた。訪ねて来る人もない。首相を囲んで色々話をし晩飯をゆっくり食べた。



首相であった東条ですら軍事上の機密を内閣に知らせなかった


 その時分日本の最後の文書は外務省から駐米大使館に打電されていた。電報はいくつかに分けられ、その最後の分には国交断絶の主旨が記載されている。ワシントンの大使館ではさぞや電報の翻訳や文書の準備に大童に働いていることと察せられた。


 又その時分陸海軍の軍隊は、それぞれの目的地に向って進んでいた。そして翌日は当然英米の軍隊と接触し、彼我の衝突が起こることが予想されていた。その軍隊は今いよいよ最後のストレッチにかかり、刻々に相手方に近づいていることは間違ない。が、それらの軍隊はどこに居るか、どこを目指して進んでいるのか、それらのことは私達は軍事の門外漢として一切関知するところはなかった。



 大本営政府連絡会議にも軍事上の計画或は予定については報告説明は行われなかった。過ぎた事実の報告はあったが、将来のことにふれての話はなかった。勿論この連絡会議とは別の、陸海軍人よりなる大本営会議においては、作戦のことも報告され論議されたことは当然である。が、これは軍人以外には口外されない最高軍事機密である。


 東条首相は云う迄もなく陸軍大臣であり、連絡会議のみならず大本営会議にも出て居た。従って陸軍は勿論海軍の作戦計画、軍隊の動きも聞き知っていたことは疑ない。然し東条首相は首相と陸相とを一身で完全に2つに使い分けていた。陸相として知った軍事上の機密を内閣に知らせる様なことはなかった。


滞りなく進む太平洋戦争に向けての準備


 只これより先、6日の事であったと思う。連絡会議の席上、シャム湾において我国の船団が所属不明の航空機に接触されたと云うことが報告された。そこで私達は、日本の軍隊が仏印をたって南方に向っていることを察知した。そしてその途上早くも相手に接触されたのでは緒戦の苦戦を察せしめるものであると思って心配させられた。が、その後別に何の報告もなく時は過ぎて行った。


 かくてこの夕べも静かに過ぎて暁となった。私達はこの一日が事なく過ぎたことでほっとした。9時頃官邸を辞して帰途についた。途中蔵相官邸に賀屋興宣大蔵大臣を訪ねた。いよいよと云う場合、モラトリアム等の措置の必要があるかも知れない。もとより万事手配はできていると思ったが、念のため様子を聞くためであった。賀屋蔵相はひとりで書見をしていた。広い大蔵大臣官邸には人影も見えない、静かな御寺の様な気分であった。十分計り話をした。滞りなく準備はできていることを聞いた。



 更に麻布に車をまわして木戸幸一内大臣の私宅を訪れた。先日来内閣と内大臣府の間に宣戦詔書のことについて色々打合せを行っていた。それがまとまって詔書の原案が完全にでき、準備が終ったことを報告するのが目的であった。



開戦直前に届いた「大統領から天皇に対する親電」


 ここも極めて静かであった。内大臣もこの一日は穏かな日曜を送った模様であった。


 和服を着て寛いでいた。結局家に帰ったのは10時頃ともなったろう。翌朝は早くから働かなければならないので11時頃には床についた。3、4時間ではあったがぐっすり眠った。


 が、その晩私が帰ってからずっと後、真夜中に東条首相は突然東郷茂徳外相の訪問を受けた。その晩遅く12時過ぎ、米国大使グルー氏が外相を訪問し、大統領から天皇に対する親電がとどいたから、至急御手許にとどけてくれとの話があったのだ。外相はこの電報をたずさえて首相に相談に来たのである。これに対する外相の考えはとにかく親電は至急陛下の御覧に入れる。


 がその内容は何等新しい提案を含んではいず、只従来の先方の主張を繰返えし両国外交の親和を望む抽象的なものである。且つ時期は既に遅い。ハル・ノートに対する日本側の回答が、大統領に手渡しされる時期も刻々迫っている。従って今更これに対し処置をとる時間はない。この親電はこのまま聞きおいて、時間の経過によって解答をする外はないと云うことであった。


 東条首相もこれに同意し、外相に直に宮中に参上して陛下に親しく御話しをすることをすすめた。外相は夜中直に宮中に赴いた。宮中からは木戸内大臣に御召しがあった。内大臣は急いで宮中内大臣府に出ていった。



わずか10日前に送られたハル・ノートとは「調子がちがってた」


 外相は先ず内府を訪れ、簡単に親電の内容を話し取扱いについての意見を説明した。内府も異存はなかった。外相は陛下の御前に出て、説明を申上げ、取扱い方についても意見を言上した。陛下も何の御意見はなかった。木戸内府は、外相が帰りに又立寄ることを期待して、室で待って居たが、外相は寄らずに帰って行った。又陛下から呼ばれて意見を尋ねられることもなかった。内府は待ちぼけを食った訳だが、外相もかえり、陛下も奥に入られたことを聞いて自宅に帰った。



 この親電の真意は今にはっきりしない。蓋し日本側の提案に対する回答としては、所謂ハル・ノートが26日に日本側に手渡されている。これがために日本は終に外交の断絶を覚悟するに至ったことは前に述べた通りだ。これに対する日本側の返事はまだ先方には届いていない。その状況の下に、ハル・ノートが発せられてから10日たって、突然この親電が来たのである。その内容には何等具体的なことは書いていない。が只日米両国の国交をあつくすることを望む趣旨を述べて居り、ハル・ノートとは調子はちがっているが一方日本軍の南部仏印集結の事実をのべ、これが米国内の不安の原因であることを指摘し、その中止撤去のために天皇の尽力を要請している。この点は実は先に日本側の提案第2号の主旨であり、日本としては南部仏印より全軍を撤廃すべきことを申出たのである。ところがハル・ノートでは全然これを黙殺した。而してそう云う日本側の提案は恰もなかったかの様に、南部仏印への集結の中止及撒退を要請しているのはどういう考えなのか。



「日本側が故意に遅らした跡がある」と主張したアメリカ


 ハル・ノートをやめて新しく話し合おうと云う趣旨のものであろうか。もしそうとすれば、形式方法は適当ではない。何故にこの時期を選び、何故に今までの正規の交渉ルートを用いずして、寧ろ異例の方法によったのであろうか。即ちこれは真に両国紛争の打開を講ずるための提案か、或は日本側の心境を測るために投じた一石か。はた又単なるジェスチュアであったか。極東裁判でもこの点は終に明らかにされるところはなかった。



 尚この親電について、「これが日本についてからグルー大使の手許にとどくまでに、半日余かかり、そのことが夜遅くグルー大使が外相を訪れた原因であり、従って又親電が最後の時期までに役に立つ様に日本側にとどかなかったゆえんである。そこには日本側に故意に遅らした跡がある」と云うことが極東裁判に於いて米国検察側から主張された。


 しかしその点はその後あまり深く真相をたしかめられずそのままに終った。私の知る範囲では故意に遅らした様なことは全くなかったことを確信する。当時日本では、米国の様に、相手国の暗号電報を盗読する才覚はなかった。従って電報の内容など解る道理はない。特定の電報を故意におくらすなどと云うことを考えているものは、私の知って居る範囲においては一人もなかった。私の知らない範囲でも誰もその様なことを考えていたものはなかったと今でも確信している。


思い切った作戦「真珠湾攻撃」へ


 親電の一件はその夜は私は何も知らず翌8日は3時頃起きて、直ちに総理官邸に出かけて行った。まだ真夜中であったが空は晴れていた。何の音もなく静かな都大路をひとり車を走らせて行った。途中は僅か5、6分のことである。がこの途上、いよいよ今日から日本は今までにないいくさにはいって行く。相手はこれまで我国の戦ったことのないアメリカ、イギリスである。この先は果してどうなって行くのであろう。先は見えている様であるが又みつめるとない様でもある。こう考えている中に足の下の地べたがすべって行く様な、なんともいえぬうつろな寂しさを覚えたことが今にまざまざ記憶に残っている。



 その中に車は官邸につき、そこには人と仕事とが私をまちかまえていた。秘書連から大統領の親電のことを聞いた。間もなく海軍の岡軍務局長が来て、旨く行ったと云った。私は始めはどこで旨く行ったのか解らなかった。その中に言葉のはしから、それがハワイに関係があることを知ってビックリした。思い切った作戦と今までその機密をよく保持したことには驚きもし感服もせざるを得なかった。



「ハワイを攻撃したそうですね」に当たり前の顔をした東条


 東条首相はまだ寝ていた。昨夜真夜中に外相に起こされ寝直した寝入りばなであった。が既に最後の文書の米国側に手交された筈の時間も過ぎた。現に軍事衝突の起った報道も受け取っている。今は全速力を以って国内態勢を戦争状態に転換する処置を進めて行かなければならない。私は総理の寝ている室にはいって、起こしてその日一日の仕事の進め方の打合せを行った。海軍はハワイを攻撃した相ですねと云ったら、首相はウンと云って当たり前の顔をしていた。



 私は室にかへって仕事にとりかかった。東条首相は起きると直に明治神宮と靖国神社の参詣にでかけて行った。


戦争開始そのものに対する議論は一つもでなかった


 仕事の第一は閣議召集の手続である。7時頃には閣僚が揃って閣議が始まった。東郷外相は少し遅れてやって来た。英米大使を外相官邸に招き、米国大統領に渡した文書の写しを手渡し、国交断絶に至った旨を伝えて来たのである。尚グルー大使には大統領の親電は陛下に御覧に入れたこと、及び事然が一変したので返事は出さない旨をも告げた。そのことが閣議に報告された。又島田海軍大臣が海軍のハワイ攻撃の状況を簡単に説明した。例の通り静かな穏かな調子であった。


「勿論前線からは、あらかじめきめてあるAとかBとか云う様な符号で打って来ているのだから、詳しいことはわからない。然し最上の功果を上げたという報告であるからかなり戦果はあがっているに違いない。が何としても全く知らない土地で行う、新しい攻撃であるし、又やったものには結果はとかく多少は有利に見えるのが人情の常でもある、従って実際の効果が果してどこまで上っているかは未だわからない」


 と云う大変謙遜な報告であった。却ってそれだけ聞く人の感銘は深かった。


 閣議の議題は戦争状態に入ることの決定と宣戦詔書の原案の相談であった。いずれも閣僚一同異議なく決定された。又できるだけ早く国会を開き、開戦に至るまでの事情を国民に告げる処置をとることが決定された。閣議は1時間ですみ、閣僚は枢密院に向った。



 枢密院においては宣戦の詔書の審議が行われた。例により全員よりなる委員会で予備審査が先ず行われ、それが済むと陛下臨御の下に本会議が行われるのである。


 ここでも海軍大臣が緒戦の状況を説明し、東条首相、東郷外相から戦に突入するに至るまでの事情が説明された。各顧問官皆意見を述べられたが、戦争開始そのものに対する議論は一つもでなかった。


 記憶に残っているのは、池田成彬さん(顧問官)から、


「この詔書には米英に戦を宣すとあるが、米英は略号であってやや軽侮の感じがしはしないか、相手国家には夫々正式の名目がある。敵といえどもこの正式の名で呼ぶのが武士の作法ではないか」と云う議論があった。これに対しては同じく顧問官である外交界の長老石井菊次郎さんから、


「英米は略号ではあるが、外交の文書にも始終用いられている。別にこれを用いても軽侮しているとは先方もとるまい。これはこれでいいではないか」と云う発言があり、池田さんも了承し、そのままとなった。



ハワイ戦果の発表で町の中は湧きかえっていた


 かくて枢密院の下審議の終ったのは11時近く、本会議は昼に及んだ。私は内閣の仕事があるので下審査の終ったところで内閣に帰って本会議には出席しなかった。


 宮中を出て内閣に向う東京の町にはもう既に戦争の始まったことは知れ渡っていた。大本営からは太平洋に於いて我国軍隊が英米両国軍と戦を交えたことが公表され、続いてハワイ戦果の発表があり、町の中は湧きかえっていた。



 私の仕事の一つは当日行われることとなっていた、大政翼賛会の大会の処置であった。この大会は丁度この8日に行われることとなっていたが、これは予め戦争開始の日を目がけたものでは決してなく、翼賛会の事物担当者が前にきめたものであった。漸く時局が急となり、国交断絶の日もせまって来たが、それだからと云って急にこれを延せば却って混乱を生じ、色々の悪結果を来たす。だからそのままにしてあったのである。この大会には総裁たる総理大臣は勿論出席して挨拶をする、又各大臣も出席して話をすることとなっていた。愈々今日となってはその進め方を全面的にかえなければならない。


 そこで閣議がすむと直ぐ、翼賛会の副総裁の安藤さんに来てもらって、事情を話して打合せはとげてあったが例えば総理の挨拶の如き全く新しいものに書き改めなければならない。その他各大臣出席の順序等も組みかえる必要があった。


 がそれらは畢竟事務で、何とか始末はつく。とにかく当日の大政翼賛会の会合は滞りなく行われ、時期が時期とて相当緊張した空気で終始した。その日奥村情報部次長が2時間に亘る長広舌を振って2000の聴衆を煙にまいたと云う話も、にわかに起った真空状態のために生じたエピソードである。


「帝国の存立亦正に危殆に瀕せり」


 私はその日の午後は、考えている暇もない仕事に忙殺されていたのであろう。誰と会って、どんな話をしたか今は全く記憶がない。今記憶していることは、東条首相のところに近衛前首相からその日を記念して、伝家の銘刀が一振贈られたことと、夜私の家に北玲吉代議士から電話がかかり、宣戦詔書の中に「帝国の存立亦正に危殆に瀕せり」と云う一句があるが、これは瀕せんとすと書かなければいけないのではないかと云う注意があったこと位である。



 そこのところには調査原案作成中も議論があり、宮内省の文章の大家の書いたものなのでその人に確かめたところこう書くのが正しいと云う説明があり、これに従ったものであった。そこで北氏にはその旨を語り、御注意は有難いが、研究の結果こう云うことになったのだと云う事情を話した。


 もっとその外にも色々なことが行われ、色々の人に会ったに違いないが、今はっきり憶えているのはその2つだけである。結局私も緒戦の戦果のために、朝心に湧き起って来た深刻なさびしい気持もやわらげられ、仕事に追われ、そうそうとして一日を送ったと云うが実情であろう。


(東条内閣書記官長)



(星野 直樹/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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