「今でも思い出すと眠れなくなるんです」……死者3名「福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃」50年後の初告白

11月22日(日)7時0分 文春オンライン

 いま全国でクマの襲撃が増えているが、史上最悪といわれる事件が起こったのは昭和45年。北海道で若き3人の岳人がヒグマの牙に斃れた。なぜ惨劇は起きたのか。その謎を解く鍵を握る人物が初めて口を開いた。50年前の夏、あの山で「生死の天秤」が揺れていた。


「今でも何かの拍子に思い出すと眠れなくなるんです」


「あのときのことは自分の中で、この50年間、封印してきました」


 自宅のリビングで筆者と向き合った吉田博光氏(87・仮名・以下すべて)は、ぼそりと切り出した。半ば予想していた言葉だったが、はっきりとそう告げられるとやや動転した。それに構わず、吉田氏は続けた。


「今でも何かの拍子に(事件のことを)思い出すと、もういけない。夜も眠れなくなるんです」


 その言葉が何よりも雄弁に50年前に起きた事件の本質を物語っていた。



「日高山脈山岳センター」に展示されている加害グマの剥製(頭部を除く)


異彩を放つ加害グマの異様な執着心と攻撃性


〈クマに襲われ三人不明 ——日高山系縦走の福岡大パーティー〉


 1970年7月28日、北海道新聞に衝撃的な見出しが躍った。リードはこう続く。


【日高山系を縦走中の福岡大学ワンダーフォーゲル部のパーティー五人がクマに襲われた。二十五日午後から二十七日朝まで、逃げる学生たちに執拗につきまとい、次々と鋭いツメを振るってうち三人が行方不明となっているが、身のたけ二メートルという凶暴な大グマだけに、その安否が気づかわれている】


 だが学生たちの家族や関係者の祈りも空しく、事態は最悪の結末を迎える。


〈クマに食い殺されていた 無残 全身にツメ跡〉(1970年7月30日付西日本新聞)


 3人の命を奪ったヒグマは、捜索隊に同行していたハンターたちの一斉射撃により、射殺された——。


 これが昭和・平成を通じて史上最悪のヒグマによる獣害事件として知られる「福岡大学ワンダーフォーゲル部事件」の顛末である。


 悲劇の舞台となった山の名は、「カムイエクウチカウシ山(以下カムエク山)」。アイヌの言葉で、「カムイ(神=熊)」が崖から転がり落ちるところ、という意味があるという。


 数あるクマによる獣害事件の中でも、この事件が異彩を放つのは、加害グマの異様な執着心と攻撃性である。そもそも、この当時、日高山系でヒグマが人を襲うということは、まず考えられなかったという。事件から15年後、当時捜索に加わった地元山岳会のメンバーは、こう証言している。


〈(当時はクマについて)問い合わせがあれば、日高のクマは声を出したり、ラジオを鳴らしたりすれば、逃げると案内を出していましたからね〉(「ヒグマ」№18「座談会 福岡大学遭難事件を語る」より)


他にもヒグマの襲撃を受けたグループが……明暗を分けたものは?


 では、なぜあのヒグマは学生たちを襲ったのか。


 この事件については、福岡大学ワンダーフォーゲル同好会による詳細な事故報告書(「北海道日高山脈夏季合宿遭難報告書」)があり、また専門家による検証記事も少なくない。


 一方で事件当時、カムエク山には、福岡大学以外にも、北海学園大学、帯広畜産大学、鳥取大学、中央鉄道学園など複数のグループが入っていたことは一般にはあまり知られていない。


 とりわけ注目すべきは北海学園大学のグループだ。実は彼らは、福岡大学のメンバーが襲われる前日、同個体と思われるヒグマに遭遇し、やはり襲撃を受けながらも、犠牲者を出すことなく難を逃れているのだ。


 2つのグループの明暗を分けたものは、いったい何だったのか。


 北海学園グループの元メンバーに直接話を聞くべく取材を続ける中で辿り着いたのが、前出の吉田氏だったのである。


「自分の経験が今後何かの役に立つなら」


 冒頭で「封印してきた」と語った通り、当初は取材を受ける気はなかったという吉田氏だが、取材依頼の手紙を読んでいるうちに気が変わったのだという。


「あれから50年経ったのか、と。自分の経験が今後何かの役に立つなら、お話しておこうと思いました」


 現在87歳となった吉田氏は脳梗塞の影響で、身体の自由はあまりきかなくなったというが、その口調はしっかりしている。


「私は、北海学園の出身ではありません。事件当時は37歳で、山仲間で北海学園の2部の学生だったAさんに『日高にいくけどどうだ?』と訊かれて、二つ返事でOKしました」


 このときの北海学園岳友会は夏山合宿ということで、総勢11名で3つのチームを組み、別々のルートでカムエク山に挑んだ。吉田氏はA氏と3人の学生とともにエサオマントッタベツ岳ルートの班に属すことになった(学生のうちの1人であるB氏は事件後、山岳雑誌「北の山脈」に手記を寄せている。以下の記述は、吉田氏の証言とB氏の手記によって構成している)。


こっちを見ているヒグマと目があった


 1970年7月24日。


 前日のうちにトッタベツ川を渡り、エサオマン北東カール(圏谷)にテントを張った一行は、6時に起床。札内岳を経て、10時、エサオマントッタベツ岳(1902メートル)頂上に到着。美しい景色を堪能する間もなくキャンプ地へと向かう。30度を超える気温の中、14時20分、シュンベツ岳(1852メートル)の頂上に到着する。


「ここでみんな水を飲んだりして、休憩しました。私は小用を足すため、ササ藪に入ったんです」(吉田氏)


 すると突然、ササ藪が「ガサガサッ」と揺れた。音のした方を見ると、ササ藪の上に上半身を出してこっちを見ているヒグマと目があった。


「まだ若いクマだな、と思いました。それほど怖いとは思わなかった。それでみんなのところに戻って『おい、クマだ、クマだ』と知らせて、みんな“ドレドレ”と見に行った」(同前)


 前述したとおり、当時、日高山系でヒグマが人を襲った例はなく、こうした反応も無理はなかった。


 後にこのヒグマは、3歳から4歳のメスと推定され、体長は130センチ程度だったことがわかるが、吉田氏の印象でも「それほど大きくなかった」という。


 だがそのヒグマは、ちょっと様子が違った。


「まるで我々を“待っていた”ように見えた」


「不気味だったのは、まるで我々を“待っていた”ように見えたことです。シュンベツ岳の頂上で、いつも登山者が飲んだり食べたりして休憩することを知っていたんだと思います。そこにいけば人間が捨てた食べかすなどにありつける、と」


 この証言は後ほど重要な意味をもつ。


 ヒグマは、まっすぐ近づいてきたという。


「人間を怖がる様子もない。それまで山でヒグマを怖いと思ったことは、ありませんでしたが、一方で小さい頃よく大人から〝ヒグマは怖いもんだ〟と聞かされてもいた。それで、慌ててキスリングを担いで、頂上から降りたんです」(同前)


 クマはしばらく頂上付近でウロウロしていたが、やがて匂いを辿るように吉田氏たちの後を追って下り始めた。


「たまたま私は列の最後尾になっちゃったんで、着実に距離を縮めてくるクマの姿が見える。こっちは重いキスリングを背負って、スピードはあがらない。思わず『おい、前、もっと急いでくれ! クマが来てる』と叫びました」(同前)


 クマは10メートル後方にまで迫っていた。


「もうダメだ、と思ったら、ちょうど下山コースの途中に大きな岩があったんです。“あの岩に上れっ!”と夢中で上りました」(同前)


 高さは2メートルほど、横から見るとまるで帽子のように上部が平らになっている岩だったという。


「クマが飛び掛かってきた」


「岩の上は5人が登れるだけの広さがありました。そこで下山ルートを降りてきたクマと“にらめっこ”になりました」


 時間にして3分ほど経った頃、クマが動き出す。姿勢を低くして、うなりながら、岩に手をかける。その毛は逆立ち、ヨダレが糸を引いていたという。


 次の瞬間——。


「クマは5人の間を割るように、飛び掛かってきました。無我夢中で身をかわすと、勢い余ったクマはそのまま反対側の斜面を転がり落ちていった。本当に素早い動きで、今思い出してもよくかわせたな、と」(同前)


 クマはすぐに体勢を立て直すと、再び向かってきた。


「それを見て、“これはヤバい”と、みんなで飛び降りた。キスリングを先に落として、逃げるときに拾おうと思いました」(同前)


 それぞれ岩の左右に2人と3人に分かれて飛び降りた後、岩をまわりこむようにして再び5人で合流したが荷物を拾う余裕はない。


 なおもクマはしつこく追ってくる。すると、メンバーの1人がハイマツに足をとられて転んでしまった。


「幸い、すぐに足が抜けたから5人一緒に逃げることができた。あそこでもし彼の足が抜けなかったら、引き返さざるを得なかった。幸運だったです」(同前)


「水筒でもなんでも、ぜんぶ爪で裂いてありました」


 30メートルほど走って振り向くと、クマは追ってこなかった。キスリングの中の食料を漁っているのか——最初にクマに遭遇してから30分が経っていた。


 5人はその後、キャンプ地に向かい、別ルートの北海学園グループとようやく合流。「クマにやられた」と口々にまくしたてたが、仲間たちの反応は鈍かった。


「冗談だと思われて、“またぁ”と、なかなか信じてもらえなかった。だけど『見ろ、ザックないだろ?』と言ったら、ようやく信じてくれた」(同前)


 B氏の手記によると翌25日早朝、荷物を回収すべく現場に戻ってみると、3つあった大きなキスリングのうち2つは、跡形もなく消えていた。残されたザックの中味は、〈岩の上にきれいに並べてあった。まるで人間が並べたかのように〉(B氏の手記より)。


 吉田氏もこう語る。


「水筒でもなんでも、ぜんぶ爪で裂いてありました。それを見て“またクマが来るかも”と怖くなって、急いでその場を離れました」


  一方で同日、福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の5人(リーダーの豊田さん・3年、サブリーダーの原さん・3年、工藤さん・2年、高島さん・1年、山口さん・1年)は、エサオマントッタベツ岳、シュンベツ岳を経て、15時20分、九の沢カールに到着し、テントを設営していた。


クマに遭遇、ハンターの要請を指示


 16時30分、豊田さんがテントから5、6メートルのところにクマを発見。最初は興味本位で観察していたが、クマがテントの外にあったキスリングを漁り始めたため、スキをみてこれを取り返し、火を焚き、ラジオを大音量で流し、追い払った。だがその夜——。


〈二一・〇〇 熊の鼻息がし、テントに一回だけ触れ、こぶし大の穴があく。この夜は二人ずつ見張りをし、二時間交替で寝る〉(前出・福岡大「報告書」)


 翌26日早朝にもクマは再び現れ、今度は大胆にもテントに手をかけてきた。


〈我々はテントが倒されないよう、ポールをしっかり握りテントの幕をつかんでいた。五分くらい引っ張り合っていた〉(同前)


 たまらず5人は、テントの反対側から逃げ出す。50メートルほど走り、振り返ると〈熊はテントを倒し、その中にあるキスリングをあさっていた〉(同前)


 豊田さんは、原さんと山口さんに沢を下り、営林署などでハンターを要請するよう指示。2人は沢を下っている途中で、下山しようとしていた北海学園大学のメンバーと出会う。前出の手記でB氏は、そのときの様子をこう綴っている。


〈あの時の●●君(クマに殺された)の驚ききった真っ蒼な顔が、いまでもありありと写るのである〉


「ギャー!」という叫び声


 救助連絡を快諾した北海学園大学グループは、2人に食料やガソリンなどを渡している。吉田氏が語る。


「危ないから一緒に降りよう、という話はしたと思います。でも彼らは『まだ上に仲間がいるから』と。せめて何かの足しになれば、と渡しました。(彼らの様子は)取り乱した様子はなかったと思います」


 その後、山口さん、原さんは再び沢を上り、3人と合流。テントを設営し、夕食をすませ、寝る準備をしていた16時30分ごろ、クマは3度やってきた。5人はテントを離れ、八の沢カールにテントを張っていた鳥取大学に泊めてもらうべく、稜線を下り始めた。


 いつの間にか、クマは背後10メートルにいた。


 一斉に逃げる5人。だが、その途中で、それぞれバラバラになってしまう。


〈一斉にカールのほうに逃げると直ぐ、這松のなかで「ギャー!」と叫び声が聞こえる(●●らしい)。30秒位這松の中でゴソゴソし、その後●●が「畜生!」とさけびながら熊に追われカールに向かっていた〉(前出・「報告書」)


 そしてクマはその後、豊田さん、工藤さんを次々と襲ったのである。


食料であるハイマツの実があるのになぜ人間を狙ったのか


 この事件の原因として常に指摘されるのは、ヒグマからキスリングを取り返したことで、ヒグマを怒らせてしまった、という点だ。


「確かにヒグマはいったん自分の収穫物と認識したものには強い執着心を示します。とくにメスはオスに比べて非常にしつこい」


 こう語るのはヒグマによる獣害事件に詳しい南知床・ヒグマ情報センターの理事長・藤本靖氏だ。


「山に食料の乏しいこの時期のヒグマは、普通はハイマツの実を食べて秋までしのぎます。ところが加害グマは現場周辺にハイマツ帯があるにもかかわらず、最初からザックの中の人間の食糧を狙っています」


 ここで思い出されるのは、前出の吉田氏の「(ヒグマは)まるで我々を“待っていた”」という証言である。


 この言葉に藤本氏も頷く。


「事件より前、どこかのタイミングでこのクマは人間の食糧を口にし、相当いい思いを味わったはずです」


 当時、ワンダーフォーゲルや登山がブームとなり、それまでなかったほど多くの人々が山に登るようになっていたが、人間の捨てた残飯やゴミがクマを引き寄せるということは、まだ知られていなかった。悲劇の種は、事件のはるか前に撒かれていたのかもしれない。


もしも逆の立場だったら……


 事件から50年後の7月28日。筆者はカムイエクウチカウシ山を臨む札内川下流に立っていた。釣り人たちが竿を振るう流れは陽光と木々の緑を色鮮やかに映し、彼らが憧れた「神秘の山」の片鱗をうかがわせた。そこに50年前の事件が落とす陰は見られないが、この山では昨年もヒグマによる襲撃事件が起きている。


 その場に花と酒を供えながら、吉田氏への取材における、最後のやりとりがふと思い出された。


——もしも被害者たちと逆の立場だったら、と考えることはありましたか?


 彼は、しばらく黙った後、こう答えた。


「幸運でした。ただそれだけですね」


 事件後も北アルプスなどの山には何度か上ったという。だが北海道の山には、一度も上っていない。


(伊藤 秀倫/週刊文春 2020年10月29日号)

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