62年前に廃線になった“幻の高原鉄道”が今も走っていたら…バスとの競争に負けた鉄道が持っていた「唯一無二の風情」とは
2024年11月23日(土)7時0分 文春オンライン
〈 62年前に地図から消えた“幻の高原列車”を追う 軽井沢〜草津温泉を結ぶ廃線跡はほとんど消滅、しかし林の中には… 〉から続く
長野県の避暑地・軽井沢と、群馬県の温泉地・草津を結ぶ鉄道が、かつて走っていたことをご存知だろうか。
南北につづく全長55.5kmの路線を走る小さな客車が、浅間山のふもとを縫って避暑地や温泉地に向かう人を運んでいたが、1962年に廃線になった。それから62年が経過した“失われた線路”を訪ねた。(全2回の2回目/ 最初 から読む)
◆◆◆
草津温泉ともども、沿線の浅間山麓の高原地帯も草軽電鉄の恩恵に浴した。そのひとつが、北軽井沢だ。
北軽井沢駅は、地蔵川駅の名で1918年に開業している。北軽井沢一帯は、明治時代に綿羊や軍馬の生産地として開拓され、昭和初期には法政大学学長の松室致が自ら保有していた土地を文化人向けの別荘地「法政大学村」として切り開いた。
大江健三郎や谷川俊太郎も足を運んだ
地蔵川駅は1927年に駅名を北軽井沢駅に改め、駅舎もリニューアルしている。新駅舎は、法政大学村から寄贈されたものだという。いまも北軽井沢に残っている駅舎は、そのとき寄贈されたものだ。駅舎の欄間(らんま)に「H」があしらわれているのは、法政大学のHである。
草軽電鉄によって北軽井沢周辺の開発も一層進み、高原の別荘地・避暑地として定着してゆく。早くから別荘地として人気を得た軽井沢から静謐な環境が失われてきたことを受け、あえて北軽井沢まで足を伸ばす文化人も少なくなかった。大江健三郎や谷川俊太郎なども、夏には北軽井沢で執筆活動にいそしんでいたという。
かつての草軽電鉄の北軽井沢駅舎は、今でも北軽井沢の中心にある。後年開拓された北軽井沢らしく、町の区画は碁盤の目。そうした中にあって、中心の北軽井沢駅周辺だけは放射状に伸びる道路が整えられている。
このあたり、いかに北軽井沢駅のインパクトが大きかったのかを物語るものといっていい。いまや鉄道の消えた北軽井沢だが、古く地域発展の要になった草軽電鉄への地域住民の思いはひとしおなのだろう。
そんな北軽井沢を少し歩く。
北軽井沢駅すぐ近くの国道と交差したところには...
線路が通っていたであろう場所の多くは、町の中に消えている。それでも、すぐ近くの国道と交差していたあたりには、自然に帰りつつある廃線跡が確認できる。もちろんレールも枕木もないけれど、ここに踏切があって、高原列車が走っていたのであろうことは、確かに想像できる一角だ。
草軽電鉄は、旅客輸送に加えて沿線の木材や薪炭、また吾妻川流域で産出される硫黄鉱石などの輸送も担っていた。全盛期は戦前で、大正時代の末から昭和初期にかけて。旅客輸送においては戦後も輸送量を増やしており、一時期は年間50万人近い乗客がいたこともあった。
しかし、時代は徐々にバスの時代へ。1935年には国鉄バスが上越線渋川駅から草津温泉までの運行を開始し、1945年に現在のJR吾妻線が開業して、草津温泉への交通の便は大きく改善する。吾妻線を頼れば、東京からなら高崎線・上越線と乗り継いで、吾妻線の長野原駅(現在の長野原草津口駅)からバスに乗る。わざわざ軽井沢まで行ってから3時間30分も高原列車に揺られる旅を選ぶ人がどれだけいるか。
そういうわけで、1950年代から利用者は激減してゆく。草軽電鉄は戦時中に東急の傘下に入っており、沿線開発のために国鉄長野原線(現在の吾妻線)払い下げを申請するなど、戦後も東急は草軽電鉄の沿線開発や活性化のために力を尽くしている。
しかし、こうした努力も実ることはなく、吾妻川を渡る橋梁が水害で流されるなどの被害もあって万事休す。1960年には乗客は6万人を下回るまでに減少し、同年に新軽井沢〜上州三原間、1962年には残った上州三原〜草津温泉間が廃止となって地図から消えることになった。
いま、軽井沢と草津にほど近い長野原の間は国道146号が連絡している。146号は中軽井沢から通っているので、草軽電鉄の後継となると三笠通りから白糸ハイランドウェイだろうか。そして、ここには鉄道廃止後の草軽電鉄、現在の草軽交通が路線バスを走らせている。
草軽電鉄は急勾配を越えるために山の中をカーブを繰り返しながら走っていたが、バスならば白糸ハイランドウェイを一直線。急行便ならば、軽井沢〜草津温泉間を1時間20分ほどで結んでいる(軽井沢〜北軽井沢間は40分ほど)。鉄道時代の3時間30分からすれば、圧倒的な高速化である。
山の中に埋もれた痕跡がかろうじて...
草軽電鉄が辿ったルートは、山中ではほとんどが山の中に埋もれている。ところどころにはまだ橋脚などが残っているという。今回はそこまでは足を伸ばさなかったが、林道からさらに外れて山の中の獣道をかき分ければ、そうした痕跡にも出会うことができる。逆に、市街地では痕跡はほぼ消滅しているといっていい。何しろ、半世紀以上も前に消え失せているのだから、開発で市街地に埋もれるのも当然のことである。
もし今、草軽電鉄が存在したら
北軽井沢駅周辺を散策したあとは、草津温泉まで草軽交通の急行バスに乗った。観光タイプの大型バスで、ほぼ満員状態。補助席も残り5名ほどしか残っていない、という状況だった。外国人観光客が目立つが、日本人のグループも少しはいただろうか。バス停には、満員の場合は乗れないこと、最近乗客が増えていること、運転手不足から増便ができないことなどをまとめた注意書きが貼られている。
もしもいま、草軽電鉄が走っていたら。高原列車として、なかなかの人気を博していたに違いない。浅間山を望む高原列車、窓ガラスのないトロッコ列車などならば、高原の爽やかな風を浴びながらの旅になる。時間は多少かかっても、行き着く先は軽井沢か草津温泉なのだから、旅の行程にはピッタリだろう。草軽交通のバスが満員状態なのを見れば、需要があることは間違いない。
惜しむらくは、草軽電鉄がお客を減らして危機に陥った1950年代。その頃は、戦後復興の途上であり、同時に一気にクルマが普及した時代。観光列車、などという余興のような乗り物が受け入れられるようなご時世では、なかったことである。
写真=鼠入昌史
(鼠入 昌史)