追悼・中村哲医師 「医療よりも水だ」人の死と向き合った徹底的な現場主義

12月6日(金)12時0分 文春オンライン

 餓死とはどういうことかを、アフガニスタンで中村哲に聞いたことがある。


 何週間も食べる物がなく、飢えに苦しんだ末に衰弱して死ぬというイメージが餓死にはあったが、医師として中村がアフガニスタンで見てきた餓死は違うと言う。


「人がどうやって餓死するかというと、まず、食べ物がまったくないわけではなく、足りなくて栄養失調状態になる。そして飢えを紛らわすために不衛生な水をたくさん飲む。その結果、赤痢などの感染症に罹り、脱水症状になる。そして死ぬ。これがアフガニスタンでの餓死の典型」


話はすべて具体的で分かりやすかった


 徹底した現場主義の中村は、飢餓、人の死、そしてアフガニスタンで続く戦争について、いつも淡々と語った。しかし、その話には、長い経験と深い洞察に裏打ちされた説得力が常にあった。一見、その姿は気難しく見えるが、じっくりと話を聞くと、観念的なことは一切言わず、話はすべて具体的で分かりやすかった。


 中村は九州大医学部を卒業後、国内病院勤務を経て、1980年代半ば、日本を離れてアフガニスタンに近いパキスタン北部の町ペシャワールで医療奉仕活動を始める。その中村を支援するため、1983年に福岡で設立された非政府組織がペシャワール会だ。



アフガニスタン東部ジャララバードのペシャワール会事務所でアフガニスタン人スタッフと談笑する中村哲氏(2008年) ©石山永一郎


 当初、中村はハンセン病患者の治療を主な活動としたが、パキスタンでの活動が政治情勢から難しくなり、アフガニスタンに移ってからは、本格的な診療所を開設して人々のあらゆる病気を診てきた。ハンセン病についてもアフガンでは治療方針を大転換する。


診療所には、いつも患者が長い列を作った


「ハンセン病を特別な病気として扱うこと自体、間違っていると悟った。それは先進国の発想で、マラリア、赤痢など『感染病の巣窟』であるアフガニスタンでは、ハンセン病患者を特別扱いなどしていられなかった。ハンセン病はそもそも感染力が非常に弱い。私の診療所では、ハンセン病患者を一般患者と同じように扱うようにした」


 中村のアフガニスタンの診療所には、いつも患者が長い列を作った。遠方からやっとたどり着いた女児の体が、その列の中で冷たくなっていくこともあった。



自ら陣頭指揮をして井戸を掘り始めた


 ユニセフによると、アフガニスタンでは子どもの6人に1人が5歳以下で死亡している。その最大の原因は感染症によって慢性化する下痢とされる。


「医療よりもまず水だ」


 中村は小さな診療所の限界を感じ、医療活動を超えた支援に踏み切る決断をする。そして、アフガニスタンで井戸堀りを始める。


 診療所の周辺などで中村が、自ら陣頭指揮をして井戸を掘り始めた。さらにはアフガン伝統のカレーズと呼ばれる地下水路の修復も始めた。すると、村人の病気が減った。赤痢などの感染症が激減したのだ。


 しかし、問題は終わらなかった。2000年ごろからアフガニスタンは大干ばつに襲われ、地下水も枯渇し始めたのだ。「カレーズも、かれーるんだよ」。中村はそんなダジャレを口にしつつ、次なる挑戦に進んだ。


 それは用水路の建設だった。



 中村は2003年にアフガニスタン東部ジャララバード近郊のクナール川沿いのガンベリ砂漠に乗り込み、クナール川からの水で用水路を建設し、土地を緑化する事業をペシャワール会とともに始める。


「あの山のすそまで水を引くんですよ」


 中村の活動はすべて医療が原点だが、そのころからは医師としての活動をはるかに超えた次元に進んでいた。


 2008年、私はジャララバードで最初の用水路が完成したガンべリ砂漠の光景を見て息をのんだ。クナール川から引いた用水路で、砂漠の緑化がかなり進んでいたのだ。


 切り通しの岩山の上で中村は言った。「あの山のすそまで水を引くんですよ」。それは、地平線のかなただった。その後、その山のすそまで実際に水は引かれた。砂漠は緑化され、パキスタンなどに「干ばつ難民」として去っていた人々がこの地に戻り、再び農業をするようになった。



 用水路建設自体は、日本のゼネコンにやらせればできないことではない。しかし、中村とペシャワール会は、この総延長24キロの壮大な工事を、1期工事9億円、2期工事6億円の計15億円の寄付だけでやり遂げた。人件費などが違ってくるとはいえ、日本で同様の距離の用水路を建設すれば、少なくとも500億円以上はかかる。それも、武装集団や軍閥が割拠し、さらにはアフガン戦争以来、米軍の戦車が往来し、空爆も頻繁に行われるアフガニスタンという危険地でそれをやり遂げたのだ。



2008年には日本人スタッフが死亡


 用水路には中村ならではの工夫も凝らしてあった。中村の故郷である福岡県を流れる筑後川の護岸工事に使われている蛇籠を護岸工事に使ったのだ。蛇籠は竹で1立方メートルほどの枠を作り、その中に石を詰めたもの。これを使うと護岸に植えた植物が蛇籠の間に根を張り、年月を経るほどに護岸が強度を増す。


「別に他の団体のことを悪く言うつもりはない」と中村は言うが、著名な国際援助団体の中には、集めた寄付の8割近くを団体の人件費や運営費に使い、実際の援助資金は寄付総額の2割ほどといった団体も少なくない。ペシャワール会の場合は、逆に寄付総額の9割以上を現地の支援金そのものに充ててきた。



 そのペシャワール会の現地事務所では、2008年8月26日に悲劇が起きている。ボランティアスタッフとして農業指導をしていた伊藤和也=当時31=が、武装した男たちに襲われて死亡したのだ。


 これを機に中村は現地事務所にいた日本人スタッフを全員帰国させ、自分だけでアフガン人とともに現地に残る道を選んだ。


 このころから、中村はおそらく、今回のような悲劇に襲われる覚悟をしていたように想像する。


外国人が活動をすることの危険を十分知りつつも


 その後、中村は用水路をさらに近隣地区にも広げた。中村の活動を歓迎しないアフガニスタンの農民はいなかった。しかし、外国人である中村が歓迎され、農民の熱烈な支持を受けていることを快く思わない勢力はいた。私がジャララバードの事務所を訪ねた時も、アフガニスタンの民族衣装「シャルワール・カミーズを着てくるように」と中村から指示を受けた。



 外国人が頻繁に訪問する場所であることを知られること自体が、アフガニスタンでは危険であるためだ。


 中村はアフガニスタンで外国人が活動をすることの危険を十分知り、行動には常に慎重だったが、ついに今回の悲劇が起きてしまった。


 痛ましさに衝撃を受けつつ、中村の言葉を思い出す。


「家族と一緒に暮らし、食べていける。まず、それさえ保障されればアフガニスタンの人々は満足してくれる。紛争も収まっていく」。中村はそのために尽くした。「平和に武器はいらない」。これもしばしば中村が言っていた言葉だった。


(文中一部敬称略)



(石山 永一郎)

文春オンライン

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