おめでたいはずの内親王の結婚につき纏う杞憂

1月6日(水)6時0分 JBpress

 令和2(2020)年は新型コロナウイルス感染症の蔓延でオリンピック・パラリンピックをはじめ、ほとんどの行事が中止や制約され、明るくなかった。

 そこで、令和3年は明るいテーマから取り上げたかったが、皇室に対する「杞憂」が払拭できず、この小論を書くことにした。

 これまで眞子内親王の小室圭氏との婚約に関して、日本を代表される貴種としての品位が保たれ、かつ国民の尊敬を得られるかという観点から、主として内親王のご決意に疑問*1を呈してきた。

 皇嗣家の内親王が結婚される相手は、実現すればゆくゆくは天皇の娘婿であり、さらには悠仁親王が皇位に就かれた暁には天皇の義兄となる立場の人物である。

 皇嗣殿下が結婚をお認めになられながら、小室家に改めて「見える形での対応」を求められたことについて、マスコミは400万円超の金銭問題と報じているが、果たしてそうであろうか。

 この程度の金銭で問題を起こすのは情けなく、小室家の対応姿勢は疑われてしかるべきである。

 しかし、殿下はお立場から「見える形」としか口外されないが、筆者にはもっと本質的な指摘、すなわち「出自(の明確化)」に思えてならない。

 皇室や皇族は内外に日本を代表する立場にあり、品位が求められている。

 その品位の根源は出自であり、国民が結婚を敬仰するためには、相手方の出自が明確でなければならない。

 ところが小室家の出自がはっきりしないどころか、報道の限りでは「黒い霧」に包まれている。

「見える形」とは正しくこの黒い霧を払拭する「家系」の提示ではないだろうか。

*1=「眞子内親王の婿選びが教える『女性宮家』の危うさ(2020.12.16)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63257、「皇室の弥栄は皇胤の存続があってこそ」(2019.11.1)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58114、「恋は盲目では済まされない秋篠宮家の内親王」(2019.6.24)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56804


なぜ小室家は家系を公開しないのか

 圭氏が婚約の相手と分かった暁には半分「公人」となったわけである。

 内親王が皇室を離れられる一時金約1億4000万円や婚姻に伴う諸経費を含めるとかれこれ2億円相当の税金が投入されることになろうから、一連の行事は皇室の問題であると同時に国民の問題でもある。

 天皇は国家と国民統合の象徴であり、それを支える皇室は日本という国家の心柱であり、国民の何物にも代えがたい宝である。

 それだけに、立憲君主制度を民主主義と両立させるためには、皇室と国民のパイプが維持されなければならないであろう。

 それは今日においては国民に開かれた皇室でありながら、他方では国民から敬仰される皇室であってほしいということである。

 皇室の一員であられる内親王が結婚されるにあたっての相手は、国民の納得を得られなければ尊敬を得られ難いし、ましてや禍根となって長く尾を引いては皇室の安寧を脅かしかねない。

 小室家は「その資格あり」ということを、国民に知らせる義務があることにならないだろうか。

 ところが、メディアの報道が金銭問題に焦点を合わせている関係からか、小室家も金銭問題に絞って「解決した」と語り、それ以上の(殿下の要求や)国民の期待に進んで応えようとしないどころか、逃げ回っているとしか見えない。

 どういう人物を選ばれたかを国民が知るすべは基本的には新聞やテレビなどのマスコミを通じてである。

 しかるに、一部の週刊誌などは興味本位でネガティブ面を伝えるのみで、天皇家に列してしかるべき人物なのか、家系なのかという本質的なことが一向に報道されない。

 こうした姿勢から、国民には解せないもやもやした感情が充満している。

 このもやもやが嵩ずれば、「産経新聞」(令和2年12月28日付)の「正論」欄で、櫻田淳・東洋学園大学教授が一寸法師の寓話を用いて間接的な表現ながら大きな疑問符を付けた寄稿2に見るように、立憲君主制を根底から揺るがす問題に発展しかねない。

*2=櫻田淳・東洋学園大学教授「立憲君主制度の根底的議論を」


小室家はどんな「鬼退治」をしてきたか

 櫻田氏はこの寓話を「田舎から京に上った『下々の男』ですらも、周囲が納得する『鬼退治』を敢然と成し遂げた後ならば、都の『姫君』と結婚して幸運な人生を送ることができるという価値意識」とみなし、「日本の人々が古来、受け継いだ『常識』の一端」と述べる。

 そして、眞子内親王の「御叔母上」や「親戚の姫君」たちの降嫁に当たって、嫁ぎ先の人物が問題にならなかったのは「現に『鬼退治』の最中であるか、過去に『鬼退治』をなした家の末裔」であったからであるが、圭氏やその家系にはどんな「鬼退治」の話があるのだろうかと問う。

 また、「聖の世界」にあると意識されている皇室に「影を落とすような動きに世人が不安を抱き反発さえ覚える」し、「落着の仕方によっては、皇室に対する世の共感を剥落させるものになりかねない」と警告する。

 戦後の日本は国家の存立や安全保障問題にさしたる関心を払ってこなかった。

「日本を日本たらしめている諸制度、諸習慣、そして常識の体系の核心」が皇室制度にあるとみるならば、立憲君主制度について議論しなければならないし、今回の一事も「議論の怠慢」の付けであろうから、この際、「『貴族制度』を欠落させた立憲君主制度は成り立つのか」など、国民と共に考えようではないかという、かなり思い切った提言である。

 これまでの皇室・皇族の結婚では相手の出自を確認したうえで婚約へ進んでいたが、眞子内親王の場合は本人が語った以外ほとんど分からない。

 そこで、元衆議院議員で現在皇學館大学講師の村上政俊氏は、「身辺調査が必要な、どこの馬の骨ともわからないもの」(「『恋愛』でいいのか 皇族の結婚」(『新潮45』2018.4所収)と語っていたし、櫻田氏は上記正論で「この度の一件で世の耳目を集める『下々の男』に求められているのは・・・」と書いている。


「どこの馬の骨か分からない」「下々の男」では尊敬されない

 村上氏も櫻田氏もしっかりした組織の中にあってしかるべき地位を占め、いろいろな情報を得ることができる人であるが、両人にも小室家や圭氏について分からないことが多すぎるのであり、まして国民にはその何十分の一も分からない。

 この2人をして「どこの馬の骨か分からないもの」「下々の男」と言わしめる人物というだけでも、日本の背骨ともいうべき皇室の一員にふさわしいか否かは問うまでもないようである。

 ともあれ、圭氏当人についてはともかくとして、両親にまつわることを今一度、情報としてまとめてみよう。

 圭氏の実父である小室の家系は室町時代からの農家で大地主であった。

 横浜市役所に勤めていた実父の敏勝氏は圭氏が10歳の時、資産をめぐるトラブルか何かで自殺、その1週間後に藤沢市内でネジ工場に勤めていた祖父も自殺する。

 夫と36歳の長男・敏勝氏を亡くし悲嘆にくれる祖母のもとに、圭氏の母・佳代氏は元暴力団員を遺産相続の交渉に向かわせる。

 その祖母も翌年自殺(一部に病死)する。小室本家の3人が1年以内に自殺したことになる。

 3人の墓(藤沢市内)に「もう何年も、(佳代氏らが)お参りされている姿は見ていません」と、墓を管理する寺院関係者は語っている。

 また、佳代氏は夫が亡くなると、夫と親しく行き来していた同マンションの男性(竹田氏)に、圭の親代わりになってほしいと近づき婚約するも、「男女の関係は嫌い」として性交渉はしなかったとされる。

 親代わりになった男性は圭氏の学費などを依頼されるままに払い込み、総額は439万3000円となる。

 しかし、生活に困窮してきた男性は、婚約の解消を申し込む。

 すると、貸した金は贈与とみなしたばかりでなく、婚約解消で精神的な傷を被ったとして返済を要求されるのは納得できないと述べたという。

 ちなみに、男性は婚約期間中に佳代氏を受取人とする生命保険への加入を要求されたともいわれる。

 他方、佳代氏方は角田姓で、実母は佳代氏を出産直前からリュウマチになり闘病苦から大山ねずみの命神示教会に入信し、いまは故人。

 父の名前は角田国光氏で、敏勝氏が生前に購入した横浜市内のマンションに佳代親子、佳代氏の父が同居している。

 それ以前の佳代氏の父方、母方の家系はおおむね不明とされている。

 今回の婚約を国民は心から歓迎したい気持であるが、さっぱりその家系の情報が伝わってこない。

 否、週刊誌などで知り及んだ範囲では、上述のようなネガティブ情報の横溢でしかなく、とても「品位」などは口にもできない相談というものであろう。


終わりに:太陽と月のアナロジー

 シンデレラ姫の話はあまた聞かされてきたが、シンデレラ・ボーイの話はほとんどなかったので眞子内親王と圭氏の記者会見での印象は強烈であった。

 しかも「太陽と月」の発言があった直後は、好感を以って受け止められていたように見えた。

 ところが、金銭にまつわる問題が発覚して以降は、内親王を「月」に、この月を照らす「太陽」に自分を例えるとはおおそれたことだという批判に変わっていった。

 このシンデレラ・ボーイの誕生に至る過程においては皇族の教育という根本問題が伏在している。

 皇族を特別視するなといったような国民の声も時折聞こえていた。

 こうした問題の発端は、民主主義や人権、男女平等などの普遍的価値と称されるものと、立憲君主制度を同一平面に並べて考える、米国が押し付けた「戦後民主主義」からきているのではないだろうか。

「帝王学」などの用語が聞かれなくなると同時に、学習院の存在も軽視され、秋篠宮家の内親王と親王に至って「学習院」は形骸化さえした感があった。

 今いちど、学習院の存在を再確認する必要があることを、今次の婚姻問題は国民に問いかけているのではないだろうか。

筆者:森 清勇

JBpress

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