議員在職50年 小沢一郎「出世とキャリア」〈1〉

1月10日(金)6時0分 JBpress

衆院在職50年を迎えた小沢一郎氏(写真:AP/アフロ)

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 国民民主党の小沢一郎(77)が衆院在職50年を迎えた。尾崎行雄、三木武夫、原健三郎、中曽根康弘、桜内義雄(衆参通算で51年半)に次いで憲政史上6人目となる。小沢は1969(昭和44)年12月27日の衆院選で初当選し、現在まで17回連続当選を誇る。小沢はいまも野党随一の実力者であり、その〝現役感〟は半端ではない。

 一方でそのキャリアは極めて特徴的だ。一貫して党のポストに就いてきたため、党首経験は通算17年8カ月に及ぶものの、意外にも閣僚経験は自治相の1回だけ、その期間もわずか7カ月余である。官房副長官として首相官邸を経験しているが、これも1年半に過ぎない。

 にもかからず、首相を凌駕する絶大な権力を握り続け、自民党を2度にわたって下野させた。昭和末期から平成後期に至るまで、日本政治の中心は常に小沢だった。

 小沢はいかにしてその政治力を高めていったのだろうか?

 27歳で政界デビューした二世議員とはいえ、出世が最初から約束されていたわけではない。むしろ、若いころはかなり地味である。目立たぬ若手政治家の一人にすぎなかった小沢は、どのようにして権力の階段を駆け上がっていったのか。自民で23年半、非自民で26年半過ごした議員生活を「出世とキャリア」の観点から振り返る。(敬称略、出典は逐次明記)


二世議員

 小沢は、吉田茂内閣で郵政相や建設相、池田内閣で行政管理庁長官を務めた父・佐重喜(さえき)の長男として1942年5月24日に生まれた。中学2年まで岩手県水沢市(現・奥州市)で過ごし、中学3年時に父親が居住する東京都文京区に引っ越した。都立の有力校・小石川高校へ進学し、東大を志したが願いはかなわず、2浪の末、慶応大学経済学部に入った。67年4月から日本大学大学院に進学し、司法試験を目指して勉強をしていた。

 転機は父の急逝だった。佐重喜は68年5月に死去(享年70歳)し、息子の小沢が後継に収まる。佐重喜は藤山愛一郎派であったが、関係者の助言などもあり、当時自民党幹事長として辣腕をふるっていた佐藤派の実力者・田中角栄と接点を持つ。

 小沢本人へのインタビューはもちろん、家族や関係者が実名で登場する大下英治の『一を以って貫く 人間小沢一郎』(講談社文庫)によると、小沢が田中に初めて会ったのは69年4月中旬だという。面会場所は田中の私邸・目白御殿だった。

 田中は小沢の前で「よし、思い切ってやってみろ。親の七光りは当てにしてはいけない。戸別訪問は3万軒だ。どこの神社の階段が何段まであるかまで、一木一草を知れ。選挙区の人間を、とことん知りつくさねばいかん」「辻説法は5万回だ。3分でも5分でも辻立ちをして、自分の信念をしゃべれ」とまくしたてた。この戸別訪問と辻説法の徹底は、後に小沢が若手や新人候補を指導する時にも、口グセのように繰り返し主張した方法論である。

 小沢番を長く務めた全国紙の政治部記者は「小沢の教えに影響を受け、それを応用して選挙に強くなった議員は多い。例えば2000年から選挙区で勝利し続けている細野豪志(無所属、自民党二階派)は、小沢流選挙をうまく取り入れている」と指摘する。

 小沢は69年12月の衆院選に27歳で出馬し、トップ当選を果たす。この時点でも、まだ大学院に籍があり、社会人経験は皆無である。小沢は現在に至るまで政治家の仕事しかしていない。


吐くまで飲む

 1970年1月14日、国会に初登院した小沢はあいさつのため、再び田中の事務所を訪れる。田中は小沢に向かって「一郎は大学院生だ。他の同期生と同じ気持ちで日々を過ごすなよ。どんな部会であろうと、必ず出て勉強しろ」(『一を以って貫く』)と言い放った。

 当選同期には、福島県議出身の渡部恒三(後に衆院副議長)、茨城県議会議長を務めた梶山静六(後に官房長官)などがひしめいていた。当時の最年少代議士だった小沢の注目度は低く、〝四世議員〟である小泉進次郎が2009年に28歳で初当選した際のメディアの注目ぶりとは雲泥の差だった。

 社会人経験も政治経験もない小沢は、田中の助言に従い、真面目に自民党本部の部会に出席し、国会閉会中はひたすら地元を回った。田中が言った通り、七光りは通用しない。父親の地盤を継いだとはいえ、支持者がすんなりと応援してくれるほど甘い世界ではなかった。

 小沢は自著の中でこう述べている。

「二世だからといって、それにあぐらをかいていたら、一回は当選できても、その後はどうなるか分からない」「選挙区の人たちは、僕がはたして国会に行くにふさわしい男かじっと観察している。だから、徹底的に選挙区を回ることにした」『小沢主義 志を持て、日本人』集英社文庫)。

 若い時代の苦労を物語る印象的なエピソードがある。小沢の秘書出身で、陸山会事件で有罪判決を受けた石川知裕元衆院議員の『悪党 小沢一郎に仕えて』(朝日新聞出版)にこんなくだりがある。

「岩手では日本酒が飲めないと政治家は務まらない。会合という会合で酒をすすめられることになる。集まった一人ひとりからお猪口になみなみと酒を注がれ、一気に空けるのが礼儀だ(中略)。会合をはしごする小沢の車には、必ず用意しなければならないものがあったという。塩水を入れたやかんだ。一つの会合を終え、小沢を車に乗せると、たくさんの人が外まで見送ってくれる。手を振る人がみえなくなった途端、小沢はこう指示する。『ここで止めろ』」「小沢はドアを開け、そのやかんの塩水を口へ一気に流し込む。すると、先ほど支援者から頂いた酒が口から全部出てくるのだ。吐くのである。『口から弧を描くようにきれいな線になって出てくんだ』と、(住み込み書生第1号の)藤原(良信元参院議員)先生は得意げに話していた」

 小沢は徹底的に地元に張り付いた。地元に戻ると、1日100軒以上の戸別訪問、100以上の後援会支部でのミニ集会を徹底的にこなすスタイルを貫いた。田中の教えを忠実に実践したといえる。「言いたいことを言い、自分が信じていることを実行するためには、選挙に強いということが大前提となる」(『小沢主義』)と強調している。


国会質問は嫌い

 小沢は若いころから、地元受けを狙ったスタンドプレーを好まなかった。

 1970年4月17日、衆院文教委員会で初めての質問に立った。私学振興財団に関する法案についての質疑だった。憲法論をベースにした質問で、原理原則論を好む小沢らしさが感じられる。当選まもない政治家はたいてい、国会質問で有権者にアピールしようとするが、小沢はそういった活動には新人時代から興味がなかった。試しに筆者が「国会会議録検索システム」で検索をかけたところ、小沢の初当選から10年間の国会での発言はわずか33回。当選同期の羽田孜(後に首相)が87回、渡部が71回であることを考えると、半分以下である。

『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(五百旗頭真ら編、朝日新聞社)で、小沢は国会質問についてこう答えている。

——小沢さんは、国会の委員会での質問などはあまり好きじゃないんですか。

小沢 嫌いですね。僕は国会で余り質問をしたことがない。35年間の議員生活で質問は合計でも30分くらいしかしたことがない。質問をしても、答弁に立つ役人の話を聞くだけだから、何の意味もない。意味のないことはやりたくない。

 小沢は国会質問ではなく、先輩や実力者たちと過ごすことを優先した。常に小沢は「誘われたら断らない」姿勢でかわいがられていく。師匠である田中とは将棋を指し、姻戚関係を結ぶ竹下登、後ろ盾となる金丸信のマージャンにも最後まで付き合った。会合や宴席の幹事役はいつも小沢が引き受けた。朴訥で口数が少なく、万事控えめだが、酒は飲めるし、付き合いがいい。古い日本社会で出世する条件を備えていた。

 目上や先輩に対する態度に関しては、野中広務が興味深い見方をしている。野中は1992年の竹下派(経世会)分裂時に小沢と激しく対立する一方、98年の自自連立政権で再び手を組むことになる因縁の深い人物だ。1985年ごろの話である。

「(竹下派の)七奉行は、テレビが映している正面に座るわけです。ところが、七奉行の1人である小沢一郎さんはおらないんですよ。小沢さん、どこにおるのかな、と思ったら、秘書が座っている柱の陰に座っておるわけ。いや、小沢一郎というのはえらいやつだ(中略)。年が若いけれど、そういうことを心得た政治家がおるな、という感じを受けたことをいまも忘れません」(『聞き書 野中広務回顧録』御厨貴・牧原出編、岩波現代文庫)。


科学技術政務次官

 1975年12月、三木内閣の科学技術政務次官に就任する。当選2回の33歳であるが、抜擢ではない。政務次官は当選2、3回生であれば手にすることができるポストだった。小泉進次郎が内閣府兼復興政務官に就いたのは当選2回、32歳。小沢の初期のキャリアは進次郎と共通している部分がある。

 政務次官時代の小沢には大仕事が待っていた。難航していた原子力船「むつ」の母港探しである。小沢は長崎県佐世保市入りし、対話を重ねた。在職期間はわずか10カ月だったが、同市が修理港となる道筋をつけた。一定の成果を出したのだ。小沢は後に党政務調査会の科学技術部会長も経験しており、科学技術は得意分野だった。

 76年9月に政務次官を退任すると、自民党には猛烈な逆風がついていた。そんな中で行われた76年12月の衆院選、いわゆる「ロッキード選挙」で小沢は生き残る。この選挙では、当選同期で終生の友にも敵にもなる梶山が落選している。この選挙に勝った小沢は、ライバルだらけの当選同期の中でやや優位に立ち始める。

 同年12月、福田赳夫内閣で建設政務次官に就いた。当選3回、2度目の政務次官である。田中派の影響力が強い建設省にあえて送り込まれたであろうことは想像に難くない。派閥内で「使える建設族若手」として存在感を放ち始めた時期である。

 ちょうどこのころから、建設相だった父・佐重喜の薫陶を受けた若手官僚が幹部クラスになっており、小沢は官界との関係を深めていく。東京府立五中時代を含む小石川高校出身のキャリア官僚の会合にも名を連ねるようになった。先輩議員にくっついてばかりの小沢だったが、霞が関人脈の構築は怠らなかったわけだ。後年、野党生活が長期化しても、政府内の事情に精通していたのは官僚人脈が大きい。2世議員としての遺産をこういう場面で活用しているのは抜け目がない。


地味な30代

 時期は前後するが、小沢は73年、田中を支援していた新潟県内の建設会社の娘と結婚している。時の首相・田中が父親代わりとして結婚式に出席したエピソードは有名だ。お見合いから挙式までわずか3カ月。事実上の政略結婚である。小沢の妻の妹が、竹下登の実弟・亘と結婚し、竹下とも姻戚関係となる。上司から可愛がられて姻戚関係を結ぶパターンは出世の観点からみれば、王道中の王道である。

 79年3月、自民党岩手県連会長に就任した。36歳の若さである。県連のベテランたちが統一地方選をめぐる面倒な地元調整を小沢に押しつけた事情もあったが、期待に応えて同年4月の統一選を乗り切る。「ベテランの顔を立て、若手の自分が泥をかぶる」スタイルはいつの時代でも好まれるのは言うまでもない。

 同年10月の衆院選後、自民党は分裂寸前とまでいわれた熾烈な党内抗争「四十日抗争」を繰り広げ、派閥間対立が頂点に達した。浜田幸一が自民党本部内のバリケードを撤去するなどしたテレビ的にも〝派手〟な政局だったが、当選4回の小沢には出番はない。

 80年6月、大平正芳首相の急逝により、自民党は史上初の衆参同日選で圧勝した。小沢は38歳、すでに当選5回を数えていたが、まだめぼしいポストには就いていない。

 小沢の30代は非常に地味だった。たとえば、竹下登、海部俊樹、麻生太郎、安倍晋三、岸田文雄、小泉進次郎ら「若手ホープ」が経験してきた重要ポスト・青年局長も経験していない。70年代はまさに「雌伏」と表現できる。

 小沢が表舞台に出るのは1982年まで待たなければならない。

(続く)

筆者:紀尾井 啓孟

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