議員在職50年 小沢一郎「出世とキャリア」〈4〉

1月16日(木)6時0分 JBpress

1993年8月6日、細川連立政権成立直前の小沢一郎(右)。左は羽田孜(写真:ロイター/アフロ)

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 1990年代の小沢一郎は、まさに「黄金時代」にふさわしく、日本政治の中心にどっしりと鎮座しているといっていい。

 ただ、鎮座するといっても、首相や閣僚ではない。下記の円グラフは90年代の120カ月(10年)のうち、小沢が主要なポスト・役職についていた114カ月の内訳、割合である。

(前回はこちら)
議員在職50年 小沢一郎「出世とキャリア」〈3〉 1980年代後半〜剛腕
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58936


政党と派閥のポストばかり

 繰り返しになるが、この間の小沢は内閣のポストに一切就いていない。そもそも、小沢は蔵相、外相、通産相の「3重要閣僚」の経験がない。国対委員長、総務会長、政調会長などの有力ポストとも縁がない。野党の幹部や自民党派閥の役職ばかりだ。

『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(五百旗頭真ら編、朝日新聞社)で、「閣僚など政府の役職に就いているときよりも、自民党の幹事長や派閥の幹部などのポストに就いていることのほうが多い。好んでそうしてきたのか」との質問に対し、小沢はこう答えている。

「そんなことはないです。僕は同期の国会議員の間で最年少だったから、大臣になるのも一番最後だった(中略)。だれだって、最初のころは大臣になりたいって思うでしょう。だけど、僕の入閣は一番最後。それは年齢順だからしょうがない」

 自らは望んでいない、と強調しているわけだが、結果的に、党や派閥の役職に居続けたことで、自由自在に動き回れた側面がある。閣僚になってしまったがために、身動きが取れなかった例はいくつもあるからだ。

 90年代初頭から前半にかけ、小沢の権力は頂点に達した。その存在感は、政局だけでなく、政策面、特に外交・安全保障分野にも及んでいく。


自衛隊の海外派遣で「軍国主義者」

 1990年2月の衆院選で勝利を収め、小沢は「剛腕」の称号をほしいままにしていた。89年の参院選で自民党が大敗していたため、このころはいわゆる「ねじれ国会」だったが、小沢は補正予算案と同予算関連法案の一括処理方針で臨むなど強気の国会運営を続けた。「与野党のもたれ合い」的な国会審議をガチンコ勝負で壊そうとしたともいえる。

 一方、国際社会は激動しており、90年8月にはイラクがクウェートに侵攻し、10月には東西ドイツが統一され、91年1月には湾岸戦争が勃発する。

 怒濤の世界情勢の変化の中で、90年10月、多国籍軍に対する自衛隊の後方支援を可能にする「国連平和協力法案」が提出される。野党の反発を受けて廃案となるが、幹事長の小沢はただで引き下がらない。自民党、公明党、民社党の「自公民」3党で、自衛隊とは別に国連の平和維持活動に協力する新しい組織を発足させることで合意する。これが、PKO(国連平和維持活動)協力法につながっていく。

 小沢は一貫して「自衛隊の多国籍軍への参加は憲法上問題ない」というスタンスだった。今日の小沢の立ち位置からすると意外に思われるかもしれないが、当時は自衛隊の海外派遣を進めたことで「軍国主義者」と批判されたほどだった。


「小沢調査会」と狭心症での入院

 小沢は91年4月、東京都知事選での敗北の責任を取って幹事長を辞任した。ただ1年7カ月の任期中、総選挙で勝利し、ねじれ国会にも立ち向かった。選挙と国会で汗をかき、結果を出すのが幹事長の役目とすれば小沢は合格点である。

 それだけに幹事長辞任後も権勢は衰えなかった。竹下派(経世会)会長代行に就任したからである。小沢は名実ともに竹下派七奉行の最高実力者の地位を得た。

 91年6月、自民党の「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」の初会合が開かれ、会長の小沢も出席している。後に「小沢調査会」と呼ばれ、国連軍への自衛隊の参加が可能かどうかの議論を真剣に行ったことで知られる。小沢調査会の事務局長は船田元、幹事には柿沢弘治、山崎拓、加藤紘一、鹿野道彦らが名を連ね、中川昭一もメンバーだった。

 小沢は外相や防衛庁長官はもちろん、両省庁の政務次官経験も、党の外交・国防部会長の経験もないが、外交・安全保障に関しては、明快な考えを持っていた。「集団安全保障の考え方であれば、自衛隊の国連軍への参加は可能だ」というもので、今も小沢の持論として生きている。

 自民党政務調査会で安全保障の専門家として活躍した田村重信は、『秘録・自民党政務調査会 16人の総理に仕えた男の真実の告白』(講談社)で「小沢調査会の取り組みは、いまも高く評価されている。冷戦後の安全保障について、真正面から切り込もうとしたからだ」と褒めている。

 その小沢調査会は92年2月、答申案をまとめた。PKOへの参加を経て、国連軍への協力、参加を積極的に検討すると主張した内容はメディアや永田町で大きな話題となった。選挙対策、国会運営、政局で活躍して小沢が、政策面で、しかも、縁の薄いとみられていた外交・安全保障分野で、画期的な提言をしたことは、政治家としての幅を広げた。

 小沢調査会が精力的に動き始めようとした矢先、91年6月下旬に、小沢は胸の痛みを訴えて入院する。狭心症だった。約2カ月間、永田町を不在にしたが、本人にとっては貴重な静養となったようだ。読書と映画鑑賞三昧の日々を送ったという。

 入院は別の意味でプラスの効果をもたらした。体調管理に人一倍気を遣うようになり、タバコを完全にやめ、低カロリーの食事を徹底し、酒を控える習慣を身につけたのだ。小沢はこのとき49歳。いまも健康で現役でいる秘訣は、この時に身に着けた「節制」の習慣である。


首相就任の打診を拒否 総裁候補の3人の「面接」

 1991年10月、海部俊樹が竹下派の支持を得られず、衆院解散断念に追い込まれた。総裁選が宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の3候補で争われ、11月に宮沢内閣が発足する。この間、最も注目を浴びたのは海部でも3候補でもなく、小沢だった。

 まず、小沢は海部の後継として、金丸から総裁選への出馬を打診された。もし、小沢が受諾していれば、最大派閥のバックアップで首相になれていた可能性が極めて高い。だが、小沢は体調面の不安に加え、自らの若さなどを理由に総裁選出馬を拒否した。当時の判断について、小沢は『90年代の証言』でこう語っている。

「僕は何の準備もできていなかったから、断った。宮沢さんにしろ、渡辺さんにしろ、いろんな苦労を重ね、兵を養ってこられた。それを、僕が飛び越えて総裁選に出るというのはどうかと考えたのも、断った大きな理由だ」「朝から晩まで(金丸さんから)説得された。僕が断ると、『お前は何だ』と言って、怒られた。『1日でも総理大臣になりたいというのが政治家じゃないか。それを何でお前は俺が言うのに断るのか』と言って」「突然、出ろと言われても無理だ、というのが本当の気持ちだった」

 自身の出馬がなくなると、小沢は竹下派の代表者として、3候補の政策を聞くことになった。竹下派が推す候補者が首相になる時代だった。小沢は当初、3候補のところに出向こうとしたが、3候補の側が小沢の事務所を訪れることを希望した。これが「若い小沢がベテランの総裁3候補を面談した、けしからん」という構図で報道され、後に「総裁候補面談事件」といわれた出来事となる。

 小沢は「3人とも人生の先輩なんだから、僕がこっちに来いなんて言いっこないじゃないですか」「渡辺さんが僕のことを弁解してくれたんです。僕がお話を聞きに伺うと言ってたんだが、渡辺さんの方が、選ばれる方だから自分が行くと言った」(前掲書)と説明している。


竹下派分裂から細川連立政権へ

 1992年8月、佐川急便から金丸への5億円闇献金疑惑が発覚し、金丸は10月に議員辞職する。この間、小沢は金丸に罪を認める必要はないと訴え、捜査自体に異議を唱える主戦論を展開し、副総裁の辞任で事態を収拾しようとした。しかし、梶山静六、野中広務ら「反小沢」勢力は「小沢側近たちが金丸を辞めさせて、派閥会長の座を小沢に渡すことを狙った」と批判した。小沢と梶山の対立は激化の一途をたどる。

 92年10月22日、竹下派会長に小渕恵三が就任した。小沢は竹下派から抜けることを決断する。会長ポストをこの時点で射止めていれば、自民党に残留していた可能性は否定できない。自民党でキャリアを築き、ナンバー2の幹事長まで昇りつめたが、最大派閥のトップには立てなかった。若くして出世したことに対する周囲の嫉妬はすさまじく、反小沢感情が渦巻く派内に残ることも現実的ではない。50歳、当選8回の小沢は、政治家人生最大の分岐点を迎えた。

「反小沢」の急先鋒だった野中は、竹下派と決別した小沢について、こんな見方をしている。竹下との関係、人事の問題が根底にあったとの指摘である。

「竹下さんが小渕さんを内閣官房長官にして、小沢さんを副長官にしたときに、小沢さんは心中穏やかじゃなかったと思う。『竹下はやっぱり小渕を後継者にしようとしている。自分はいくら一生懸命やっても理解してくれない』という気持ちが湧いてきたのではないかと思う」(『「影の総理と呼ばれた男」 野中広務 権力闘争の論理』菊池正史著、講談社現代新書)

 反対の見方もある。長らく小沢側近として活躍し、民主党政権の屋台骨を支えるも、最終的に小沢と袂を分かつ藤井裕久はこう断言している。

「『小沢は竹下派のトップになろうとし、その権力闘争のために政治改革を訴え始めた』と指摘される(中略)。しかし、小沢が90年当時、政治の腐敗を一掃し、強いリーダーシップを確立するためには、社会の構造と国民性を変革するための『政治改革』が必要だと、純粋に理念先行で考えていたことは間違いない。なぜなら、当時、小沢は、なろうと思えば総理になれる実力者だった。あえて、政治改革を権力闘争の武器として、虎視眈々と総理の座を狙う必要などなかったからだ」(『政治改革の熱狂と崩壊』菊池正史編、角川ONEテーマ21)

 92年12月、小沢は羽田孜らとともに「改革フォーラム21」を発足させ、小選挙区制導入を柱とした政治改革を旗印にして世論を味方につける。田中派発足以来、自民党最大派閥として20年余にわたって日本政治を動かしてきた軍団の分裂は、その後の非自民連立政権の発足に直結する。

 93年6月、宮沢内閣不信任案が提出された。小沢・羽田ら35人が不信任案に賛成し、可決される。これを受け宮沢首相は衆院を解散し、総選挙に突入する。自民党幹事長の梶山の不信任案採決の票読みが甘かったことも影響した。

 小沢・羽田コンビは新生党を結成し、55議席を獲得する。新党さきがけや日本新党も躍進し、自民党は過半数割れとなった。政治改革の熱狂を裏付ける結果だった。なお、93年の衆院選は、中選挙区制最後の選挙で、自民党では安倍晋三岸田文雄、野田聖子、日本新党では枝野幸男、前原誠司、茂木敏充、野田佳彦、公明党では太田昭宏、共産党では志位和夫が初当選している。

◆93年7月18日投開票の衆院選の結果
自民   223
社会   70
新生   55
公明   51
日本新党 35
共産   15
民社   15
さきがけ 13
社民連   4
無所属  30
計    511

 過半数割れとはいえ、自民党が比較第1党であることは一目瞭然である。だが、この結果をみて、小沢は「非自民での連立政権樹立が可能だ」と判断する。小沢のキャリアの中で最も冴えていた時期だ。


9日間で政権を樹立

 細川護熙政権発足に向けた小沢の動きは、選挙戦終盤から始まっていた。後藤謙次『ドキュメント平成政治史1』(岩波書店)は「投票日直前のことだった。新生党代表幹事の小沢一郎は担当記者を前に言い放った。『自民党が220議席、保守系無所属を入れて230議席というなら自民党政権の存続はない。まあ、いいからみていろ』」とのエピソードを紹介している。投開票前から自信満々だったのである。

 7月18日の投開票日以降の動きを小沢中心にまとめる。

19日   小沢が初代連合会長の山岸章に「連立政権をつくるという1点に絞る」と電話で伝える
21日   小沢、社会・田辺誠前委員長、公明・市川雄一書記長、民社・米沢隆書記長が会談。山岸同席。小沢は「羽田ではダメだ」と述べ、首相候補について一任を取り付ける
21日   民社・大内啓伍委員長「一路、非自民連立政権に向かって突き進む」と発言
22日夜  小沢が細川とホテルニューオータニで会談
小沢が「あんたが首相になるしかない」と打診、細川が事実上受諾
24日   小沢、山岸、社会・山花委員長、社会・田辺が会談
27日   社会、新生、公明、日本新党、民社、社民連らが代表者会議(さきがけが欠席)
28日午前 細川・武村正義が自民党本部を訪問して「決別」を伝える
28日午後 非自民7党が幹事長・書記長レベルの代表者会議
29日   各党党首によるトップ会談で「連立政権樹立に関する合意事項」了承

 細川政権が事実上固まったのが27日なので、小沢は実質9日間で「工作」を終えている。

 最大のポイントは、社会党系の総評と民社党系の同盟を合体させた連合初代委員長の山岸を味方につけ、早々に地ならしをしている点だ。しかも、羽田首班は難しい旨を伝えて社会、公明、民社の3党から一任を取り付けている。

 さらに、同時並行的に、小沢は「土井たか子衆院議長」に向けた調整を行っている。本来、経歴からいえば田辺が議長になるのが筋だったが、左派対策として土井の議長就任にこぎつけたことも成功要因だった。

 細川内閣は8月9日に発足した。自民の一党支配が崩壊したのである。まさに政治史上の金字塔ともいうべき歴史的な出来事となった。


下野、連立政権、再び下野

 ただ国民が高い期待を寄せた細川政権は、わずか8カ月で瓦解し、後継の羽田孜内閣は64日で幕を閉じた。ガラス細工の非自民連立政権はあっけなく散った。

 94年6月、自民、社会、さきがけの自社さ政権が発足する。死にものぐるいで政権復帰を目指した自民党の執念だった。小沢はこの時点において、政治家人生で初めて野党を経験することになる。

 今でこそ、小沢は野党党首のイメージが強いが、衆院議員50年のキャリア全体でみると、与党生活は29年間で、野党生活よりも長いのである。

◆小沢の与党生活は29年間◆
自民党=23年半
新生党=1年
自由党=1年3カ月
民主党=3年3カ月

 小沢は94年12月に新進党を結成し、96年10月の衆院選に党首として臨むが、ライバル・橋本龍太郎率いる自民党に敗北する。97年12月、新進党が解党し、98年1月に自由党を結成すると、今度は一転して政権入りに舵を切る。

 99年1月、自自連立政権が発足し、小沢は比例代表の定数削減、政府委員制度の廃止、党首討論の導入など次々に政策を実現していく。しかしながら、99年10月、自自公連立政権が発足すると、自由党の存在感が一気に薄れてしまう。

 2000年4月、小沢率いる自由党は連立政権を離脱し、下野する。このころには、「壊し屋」の異名が小沢の形容詞として定着した。

 非自民連立政権樹立という「革命」を成し遂げた小沢だったが、その後、なかなか政局で勝てない日々が続いた。自由党の連立政権離脱後は「小沢の時代は終わった」との見方が広がり、メディアも以前のように「小沢中心史観」報道を避けるようになる。少数野党の党首として、小沢は苦しい時期にあった。

 だが、小沢の賞味期限はまだまだあった。「民由合併」よる政権奪取戦略を立てるのだった。

(続く)

筆者:紀尾井 啓孟

JBpress

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