日ハム栗山監督が小1から続ける「日記」の中身

1月16日(木)9時15分 プレジデント社

写真撮影で栗山英樹監督(前列中央)とポーズを取るドラフト1位の河野竜生投手(同左、JFE西日本)ら日本ハム新入団選手=2019年11月23日、札幌市中央区(写真=時事通信フォト)

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プロ野球・北海道日本ハムファイターズの栗山英樹監督は、野球を始めた小学1年生のときから野球ノートを書き続けている。なぜ続けられたのか。そこには何が書かれているのか。著書『栗山ノート』(光文社)から一部を紹介しよう——。

■ときには「書けなかった」という日もあった


もう何年になるのだろうか。ある習慣があります。


野球ノートをつけているのです。




写真撮影で栗山英樹監督(前列中央)とポーズを取るドラフト1位の河野竜生投手(同左、JFE西日本)ら日本ハム新入団選手=2019年11月23日、札幌市中央区(写真=時事通信フォト)

私は小学校1年から野球を始めました。3歳年上の兄が所属していて、父が監督を務めるチームの一員となりました。


小学校当時はその日の練習メニューを書き出したり、気になったプレーを図解したりしていました。うまくできたプレー、ミスをしてしまったプレーを整理する意味合いを持たせていたのだろうと思います。


中学から高校、高校から大学と野球を続けていくなかで、ノートと向き合う気持ちは変わっていきます。自分のプレーを見つめる視点に、チームが勝つためにはどうすればいいのか、という考えが織り込まれていきました。


テスト生でヤクルトスワローズに入団してからも、チーム第一の気持ちは芯を持っていきます。自分はドラフトで指名され、即戦力として期待されている選手ではない。プロ野球という世界に存在するヒエラルキーで、もっとも低い立場でした。だからこそ、チームの勝利に貢献できる自分になることを、強く意識する必要がありました。


練習後や試合後にノートを開くことは習慣化されていましたが、ときには書かない日もありました。書けなかった、と言ったほうがいいかもしれません。



■ノートを書き続け、朝になっていることもあった


監督の狙いどおりにプレーできなかった。チャンスで凡退してしまった。失点につながるミスをしてしまった——押し寄せる悔しさを処理できず、自分のプレーを整理できず、ペンを持てない日がありました。


2012年に北海道日本ハムファイターズの監督に就任してからは、シーズン前のキャンプから必ずノートを開くようにしています。その日のスケジュールがすべて終わった夜に、自室でペンをとります。日記をつけるような感覚です。


練習でも試合でも、実に様々なことが起こります。私自身が気づくこと、選手やスタッフに気づかされることは本当に多い。つまりは書くべきことは多い。


ところが、ノートを開いてもすぐには手が動かず、白いページをずっと見つめたり、部屋の天井を見上げたりすることがあります。


監督としての自分に、言いようのない物足りなさを感じているのです。チームを勝たせることができていない。勝たせることができたとしても、選手たちに必要以上に苦労をさせてしまっている。


反省点は数多くありますから、とにかく書き出していきます。書き出すことで頭が整理されるものの、理想と現実の狭間で揺れる気持ちはなおも落ち着かず、気が付けば窓の外が明るんでくることもあります。


■メディアの立場から監督たちを見て気づいたこと


私は2012年に北海道日本ハムファイターズの監督としてスタートを切りました。


当時チーム統轄本部長だった吉村浩ゼネラルマネージャー(GM)からオファーを受けたときには、言葉を喉に詰まらせてしまいました。


29歳でプロ野球選手を引退した私は、それまで野球ひと筋と言っていい人生を過ごしてきました。引退後にどんな仕事を選ぶとしても、社会人としての知識量は明らかに乏しい。人間として一人前になるためには学びの時間が欠かせないと考え、スポーツキャスターとしてメディアの世界に飛び込んでいきました。


伝える側から野球を見つめると、様々な気づきがありました。


監督について言えば、名将や智将と呼ばれる方々は経験から多くを学んでいるという共通点がありました。選手としての実績、監督としての成績が選手たちの心を惹きつけ、カリスマ性と言うべき存在感につながっていることも肌で感じることができました。



■監督のオファーに言葉を詰まらせた


それに対して私は、誰の眼にも分かりやすい成果を残していません。


ヤクルトスワローズに在籍した1984年から90年までの7年間で、チームはリーグ優勝を果たせませんでした。本塁打王、最多勝、新人王などの個人タイトルを獲得する選手がいるなかで、私自身はゴールデングラブ賞を1度獲得しただけで終わっています。プロ野球選手としての日々を履歴書にまとめるなら、自己アピール欄に書き込めるものはほとんど見つけることができません。


そんな私が、監督に? すぐに返答できるはずがありませんでした。言葉は出ないまでも、頭のなかでは断りのフレーズが列をなしていきます。


沈黙を破れない私に、吉村GMが言いました。


「栗山さん、命がけで野球を愛してやってくれれば、それでいいのです」


天祐というものに恵まれることがあるならば、まさにいまこの瞬間ではないだろうか。それまで暗闇に立ち尽くしていた私は、頭のなかに明かりが灯ったような気がしました。


■野球を愛する気持ちは身体を太く貫いている


野球人としての私の経歴が足りないものばかりなのは、吉村GMも、彼以外の球団職員も、間違いなく分かっている。それでもファイターズがチャンスをくれたのは、私が野球に注いできた情熱を、もしかしたら評価してくれたのだろうか。


野球を愛する気持ちは、私の身体を太く貫いている。野球への愛こそがファイターズの監督に求められる最優先事項なら、ひるまずに飛び込んでいっていいのではないだろうか、と考えたのです。


成績だけを見れば、就任1年目は成功と言えるかもしれません。パシフィック・リーグを1位でフィニッシュし、リーグ上位のチームによるクライマックスシリーズも制して、読売ジャイアンツとの日本シリーズに臨んだのです。残念ながら日本一になることはできませんでしたが、新人監督が最低限の責任を果たしたことで、周囲は安堵したかもしれません。


しかし、私自身は自己嫌悪に苛まれていました。



■力不足を痛感する中、成功者たちの共通点に気づいた


勝った試合は選手たちの頑張りがあったからで、負けた試合は私の力不足だったからです。誰の眼にも明らかな采配ミスこそなかったものの、専門家なら「経験不足だ」と一蹴されてしまう場面は何度もあったのです。


果たして、翌13年シーズンは最下位に沈んでしまいます。


前シーズンまでの主力選手が移籍した、中心選手がケガをしてしまった、などの理由はありました。しかし、1位だったチームが6位になってしまうのは、もっと根本的な問題があったはずです。それはつまり、私の力量不足に他なりません。


過信も慢心もなかった。試合にはつねに全力で臨んだ。自分では全力を注いでいたつもりでしたが、野球は相対的なスポーツです。ファイターズが最下位に終わったということは、パ・リーグの6チームの監督のなかで6番目の努力しかできていなかった、と考えるべきです。私が考えた勝利へのシナリオは、穴だらけだったのでしょう。


就任3年目の14年シーズンを迎えるにあたって、私は自己改革の必要性を痛感していました。13年のシーズン終了後からすぐに手を付けられるものとして、自宅の本棚に眼を向けてみました。


学生時代から、本には親しんできました。ファイターズの監督になってからは、リーダー論や組織論などのビジネス書にヒントを求めることが多かった気がします。経営者や企業家の言葉を引用したそれらの本を読んでいくうちに、成功を収めたと言われる人たちの共通点に気づきました。


古典に当たっているのです。『四書五経』、『論語』、『易経』、『韓非子』といったものの教えが、時代を越えて模範的で普遍的な価値を持つことに気づきました。


■気になった言葉はノートに漏れなく書き出した


テレビも、携帯電話も、インターネットもない何千年も前に書かれたものが、現代に生きる私たちの指針となる——これを驚きと言わずして、何と表現したらいいでしょう!


論語』に「君子は諸れを己に求め、小人は諸れを人に求む」というものがあります。


人の役に立つような行ないをする人は、成すべきことの責任は自分にあると考える。一方、自分本位の考えを持つ人は、責任を他人に押し付ける、といった解釈が当てはまるでしょうか。


敗戦を選手に押し付けない。ミスを選手の責任にしない。監督就任から行動規範としてきたことですが、この『論語』の言葉を読み返したときに、自分への疑問が湧き起こりました。


お前は本当に選手を信じているのか? 選手に勝利の喜びを味わってもらいたいのか? 13年シーズンの自分は、知らず知らずのうちに責任を誰かに押し付けていたのではないだろうか。


気になった言葉は、ノートに漏れなく書き出していきました。書き出して、読み返して、また書き出して、また読み返す。


ファイターズの本拠地・札幌ドームの監督室で、遠征先のホテルで、時間を忘れてノートと向き合っているうちに、私が味わっている苦しみは本当に小さなものでしかなく、そもそも苦しみと言うのも憚られるようなものなのだ、という気持ちになっていきました。先人の言葉が水や肥料となって、乾きがちだった心が潤っていったのです。



■その時々の精神状態で古典の受け止め方は変わる


日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一さんは、「すべて形式に流れると、精神が乏しくなる。何でも日々新たにという心掛けが大事である」と説きます。過去の成功例はもちろん参考にするべきなのでしょうが、「去年までがこうだったから、今年も同じやりかたにしよう」と無条件に決めるのではなく、違った角度からアプローチすることも大事だよ、ということでしょう。


渋沢さんの著書『論語と算盤』は、擦り切れるぐらいに読み込んできました。そして、ページを開くたびに「そうか!」と膝を打ちます。その時々の精神状態によって、受け止め方が変わってくるのでしょう。そしてまた、私は渋沢さんの言葉をノートに書き写します。気になった言葉は何度でも書く。血液に溶け込むぐらいに、細胞に組み込まれるぐらいに、書いて、書いていきます。


シーズン中のプロ野球は、基本的に週に6日試合があり、試合がない日は移動日に充てられます。ファイターズを率いる私は、試合中に頭をフル回転させます。刻々と戦況が変わっていくなかで、次の一手を絶えず考えていく。


想定どおりに進む試合は、実はほとんどありません。采配がズバズバと当たった、という試合も例外的です。試合内容と試合展開に心から満足できる勝利は、1シーズンに数試合あるかどうか……というぐらいです。


■試合後の「心の叫び」をノートに書き連ねていった


つねに想定外を予想し、瞬間的に判断を下していく攻防が終わると、全身に張り付くような疲労が襲ってきます。負けた試合のあとになれば、選手たちの頑張りを勝利に結びつけられなかった悔しさと歯がゆさと、自分への腹立たしさが身体中に突き刺さります。


すぐにはノートを取り出す気持ちになれません。しかし、試合が終わったばかりの生々しい感情は、偽りのない心の叫びです。まとまりに欠ける文章でも、言いたいことはストレートに浮かび上がってくる。だから、できるだけ早く書いたほうがいいと、経験として分かってきました。自分の気持ちをすべて書き出せなかったら、少し時間をおいて書き足せばいいのです。


机に座って、ノートを開く。身体にこもった熱を息に溶かしながら、ゆっくりと吐き出していく。感情的だった思考が理性的になり、少しずつペンが動いていきます。


誰かに読ませるためではないので、乱暴に書き殴っている日もあります。1行目には日付とその日の試合結果を書いているのですが、負けた試合後は文字が乱れがちになっている。そもそも字がきれいではないけれど、読み返すのが難しいこともあります。



■ノートを書くのは、反省し成長するため


それにしても私は、なぜノートを書くのか。




栗山英樹『栗山ノート』(光文社)

論語』に「性は相近し、習えば相遠し」との教えがあります。人の性質は生まれたときにはあまり差はないけれど、その後の習慣や教育によって次第に差が大きくなる、という意味です。学びには終わりはなく、学び続けなければ成長はありません。成長とは自分が気持ちよく過ごすため、物欲や支配欲を満たすためなどでなく、自分の周りの人たちの笑顔を少しでも増やせるようにすることだと思うのです。


その日の試合や人との触れ合いから何を感じ、どんな行動を取ったのか。それは、私たちの道しるべとなる先人たちの言葉に沿うものなのか。1日だけでなく2日、3日、10日と反省を積み重ねることで、自分を成長させていきたい。


私は弱い人間です。子どものころは次男坊のわがまま少年で、野球を始めたのは「我慢を覚えさせるためだった」と父に言われました。


大人になったいまも、「今日はこれができなかったから、明日はこうしよう」と心に留めておくだけでは実行に移せません。忙しいとか時間がないといったことを言い訳にして、つい自分を甘やかしてしまう。そうならないために、ノートに書いて一日を振り返り、読み返してまた反省をするようにしています。


■来たるべき「時」に備えて準備を進めている


ノートに自分の思いを書く行為は、周りの人たちとどのように接したのかを客観視することになります。


私たち人間は、ひとりでは生きていけません。普段の生活でも仕事でも、家族や友人、先輩や同僚、名前は知らないけれど隣に住んでいる人、などと交わりながら生きていく。一日を振り返ることは他者との関わりかたに思いを馳せる時間であり、他人の良さを認めること、自分の至らなさに気づくことにつながります。人の話をわだかまりなく聞く「虚心坦懐」の心構えを、再確認することにもなっています。


中国古代の歴史書『書経』に「時なるかな、失うべからず」という言葉があります。チャンスを逃すなということですが、ノートに書くことは自分の行動を見つめ直し、課題を抽出することに結びついていきます。つまりは、来たるべき「時」に備えて準備を進めていると理解できます。



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栗山 英樹(くりやま・ひでき)

北海道日本ハムファイターズ監督

1961年、東京都生まれ。創価高校、東京学芸大学を経て、1984年にドラフト外で内野手としてヤクルトスワローズに入団。1年目で1軍デビューを果たす。俊足巧打の外野手で、1989年にはゴールデングラブ賞を獲得。引退後は解説者、スポーツジャーナリストを経て、2011年11月、北海道日本ハムファイターズの監督に就任。2019年5月、監督として球団歴代2位の通算527勝を達成。

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(北海道日本ハムファイターズ監督 栗山 英樹)

プレジデント社

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