愛子さまも、佳子さまもずっと皇室にいてほしい…「結婚したら一般人になる」女性皇族はこのままでいいのか
2025年2月14日(金)16時15分 プレジデント社
「新年祝賀の儀」に臨まれる天皇、皇后両陛下の長女愛子さまと秋篠宮家の次女佳子さま=2025年1月1日、宮殿・松の間 - 写真提供=共同通信社
写真提供=共同通信社
「新年祝賀の儀」に臨まれる天皇、皇后両陛下の長女愛子さまと秋篠宮家の次女佳子さま=2025年1月1日、宮殿・松の間 - 写真提供=共同通信社
■「皇族女子の皇籍保持」案に隠れた意外なメリット
皇族数確保のために、皇族女子に婚姻後も皇室にお留まりいただくこと、旧宮家の男系男子に皇籍復帰をお願いすることが永田町で議題に上っている。
皇族女子のほうに関しては、夫と子の扱いはともかく、ご本人の皇籍保持については主要各党の間に決定的な隔たりはなさそうだ。
ただし、政府の有識者会議の最終報告書でも触れられていたように、保守層には「皇位継承資格を女系に拡大することにつながりかねない」という懸念が根強く、皇族女子ご本人のみの場合ですら反対だという者も少なくない。
だからこそまずは、思想的には保守派寄りだと自認している筆者が、これに積極的賛成の立場であることを明確に示しておきたい。
女子皇籍保持が実現したとしても、皇位継承に影響するほどの大変革にはなるまい。それどころか筆者の見立てでは、この案はむしろ保守層にとって喜ばしい副次的効果をもたらす可能性が高そうだ。
■元皇族女子が務めてきた伊勢神宮の神職「祭主」
筆者が注視したいのは、伊勢神宮のみに置かれている特別な神職「祭主」への影響である。
国家神道の廃止後、神宮は民間の宗教法人として再出発したが、「皇位とともに伝わるべき由緒ある物(※皇室経済法第7条)」の一つに数えられる八咫鏡を天皇からお預かりする形で祀るなど、皇室とはなお不可分な関係にある。
そんな神宮だけに置かれる祭主は、「大御手代」すなわち天皇の代理人と位置付けられる。それだけに、明治29(1896)年に神宮司庁官制が公布されてからというもの、敗戦まで基本的には皇族男子が就任してきた。現在の神宮規則でも就任資格は「皇族又は皇族であった者(※第30条)」に限られている。
戦後は次のように、元皇族の女子——特に歴代天皇の皇女としてお生まれになった方——が奉仕する事例が続いている。
【戦後の神宮祭主一覧】
・北白川房子さん(昭和22年4月29日〜昭和49年8月11日):明治天皇皇女
・鷹司和子さん(昭和49年10月11日〜昭和63年10月28日):昭和天皇皇女
・池田厚子さん(昭和63年10月28日〜平成29年6月19日):昭和天皇皇女
・黒田清子さん(平成29年6月19日〜令和7年1月現在):上皇陛下皇女
■現実味を帯びる現役皇族の祭主就任
約80年間にわたる歴史の積み重ねにより、神宮祭主は元皇族の女子が就任する地位になったという観念はすでに社会に広く浸透している。だが、女子皇籍保持が実現すれば「元皇族」の再生産が激減するはずなので、この慣習はいずれ維持できなくなると思われる。
神宮規則が大枠で変わらないことを前提とすれば、いずれは現役の皇族が祭主に就任されることになろう。戦後史を振り返ると、これは神社界にとっては大きな転換点になりえそうだ。
■「皇族祭主」を維持したがった戦後の伊勢神宮
元皇族が神宮祭主を務めるようになった経緯のあらましを述べておこう。
敗戦直後の昭和20(1945)年11月8日、皇典講究所の専務理事である吉田茂(※後の首相とは別人)が、GHQのウィリアム・バンス宗教課長に対し、次のように要望したそうだ。
「祭主ハ皇族之ニ当リ、天皇即位ノ際其ノ旨ヲ神宮ニ奉告セラルヽガ如キハ、神宮御創建時ヨリノ歴史的伝統ナルガ故ニ、今後モ斯ル慣習ヲ継続スルコトニ付御諒解ヲ得度」——神社本庁『神社本庁十年史』(昭和31年)62頁。
皇族の祭主は神宮創建以来の伝統なので継続したい——。実際には明治初期に始まった「創られた伝統」にすぎないのだが、極端な誇張をしてまで当時の神社界はそれを守りたかったということだろう。
しかしわずか1カ月後、神宮に激震が走った。12月2日、臨時祭主・梨本宮守正王がA級戦犯の容疑で逮捕リストに載せられたのである。ただちに参内して退任を奏上するも「それには及ぶまい、スグ晴れるだろう」とのお言葉を賜った梨本宮だが、8日には退任を余儀なくされた。
それでも神宮はなお伝統を堅持できると信じていたのだろう、昭和21(1946)年2月2日に公布された神宮規則では、就任資格がまだ「神宮ニ皇族タル祭主ヲ奉戴ス(※第15条)」と皇族に限られていた。
そして神宮当局はこの頃、天皇の末弟である三笠宮崇仁親王に白羽の矢を立てている。これが実現しなかったのは、皇族男子としての義務ゆえのことながら「軍籍にあられた皇族は神宮祭主として好ましくない」とGHQが拒否したからだという(神宮司庁広報室『瑞垣』第102号)。
■軍人だった皇族男子より、女性に白羽の矢
元神宮少宮司・杉谷房雄の回顧によると、軍人でない皇族男子など一人もおられないのにと困惑する日本側に対し、バンス宗教課長が「昔に返って女性の祭主ではどうですか」と、南北朝時代に途絶えた斎宮に言及したことが今日につながっているそうだ。
このような経緯で皇族女子から人選が進められた結果が、昭和22(1947)年4月29日に奉戴された「北白川宮大妃」こと房子内親王であるが、この方はそもそも就任時点ですでに「臣籍降下」対象者だと考えられていた。
房子内親王が甥の昭和天皇から祭主になってもらいたいとのお言葉を掛けられたのは、昭和22年4月8日のことだという。しかし、これに先立つ昭和21年11月29日に昭和天皇は皇族19方を召され、伏見宮系の11宮家についてこうお述べになっているのである。
「色々の事情より直系の皇族をのぞき、他の十一宮は、此際(このさい)、臣籍降下にしてもらい度(たく)、実に申しにくき事なれども、何とぞこの深き事情を御くみとり被下度(くだされた)い」——小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記:皇族妃の見た明治・大正・昭和』(小学館、1991年)338頁。
北白川房子内親王(写真=Auguste Léon/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
■房子さまは就任半年で「元皇族の祭主」に
かくして房子内親王は祭主就任から半年にも経たない昭和22年10月14日、嫁ぎ先である北白川宮家の一員として皇籍を離れた。祭主資格を「皇族又ハ皇族タリシ者」とする神宮規則改正がなされたのは、皇籍離脱のわずか1週間前の10月6日のことだ。
神社界は皇族祭主を「伝統」として維持したがっていたのだから、きっとこの変更に苦々しさを覚える関係者もいたであろうが、元皇族の在任がそれ以来、約80年にわたって続いていることはすでに述べた通りである。
元侍従長・入江相政によれば、神宮は北白川祭主の後任候補として秩父宮勢津子妃のお名前も挙げていたらしい(『入江相政日記』昭和47年7月10日条)。このように候補に挙げられることはあっても皇族祭主が長く誕生していないのは、一宗教法人の役職なのだから民間人のほうが無難で好ましいという宮内庁側の判断もあるのだろうか。
■皇室と神宮の関係が戦後最も深まる
ジョン・ブリーン『神都物語:伊勢神宮の近現代史』(吉川弘文館、2015年)などが指摘しているように、伊勢神宮にとっての戦後史は、占領政策でいったん弱められた皇室との関係を少しずつ深めてきた歩みでもある。
20年ごとに行われる式年遷宮の変遷がその好例だ。昭和48(1973)年の第60回式年遷宮は、神宮大宮司から準備開始について宮内庁にお伺いを立て、昭和天皇がお許しになるという形で始まった。
それに対して平成5(1993)年の第61回式年遷宮は、昭和天皇が大宮司に「御準備をとり進めるように」とお命じになる形で始められた。天皇儀礼としての色彩が強められたこの形態は、令和の御代でも継承されている。
神宮は戦後、本当の姿を取り戻そうという「真姿顕現運動」を展開してきた。国との結びつきに関しては日本国憲法下では望むべくもないが、皇族祭主が復活するとすれば、それは皇室と神宮の関わりが戦後最も深まることを意味するといえよう。
写真=iStock.com/OscarEspinosa
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/OscarEspinosa
■「現役皇族の祭主」は神社界は大歓迎
「思えば明治以降でも畏くも直宮様を奉戴したことはこれまでになく、そのかみの斎内親王のことも偲ばれて、職員一同深い感激と緊張とを以てお迎えしたのであった」——『瑞垣』第153号(平成元年)12頁。
上に示したのは、昭和天皇の皇女・鷹司和子さんの祭主就任時をかつての神宮禰宜・神原佑司が回想したものだ。「君臣の別」の観点からすると現役の皇族よりは一段劣るはずなのだが、もはや民間人になった方を迎えるのに際して、傍系皇族をお迎えする以上に感動したとも受け取れる書きぶりなのが興味深い。
女子皇籍保持の副産物として、敗戦によって途絶えてしまった皇族祭主が思いがけず復活しそうで、しかもそれは慣習的に皇女である可能性が高い。これは神社界にとっては大いに歓迎すべきことであるはずだ。
■皇室の方々も「生身の人間」
ここまで女子皇籍保持について書いてきたが、現在の殿下方に関しては、有識者会議が指摘しているように「身分を離れる制度(※皇室典範第12条)の下で人生を過ごされてきた」ことに十分留意せねばなるまい。
秋篠宮殿下のお言葉を拝借すれば、皇族も「生身の人間」に他ならない。昨今のインターネット上などでは、愛子内親王殿下を念頭に置いた女帝論が勢い付いているが、皇室にお留まりいただくことですら既存の人生設計を狂わせかねないのに、今さらご即位をというのは無茶が過ぎよう。
今回の主題である神宮祭主も、同様に生身の人間であることが意識されるべきだろう。前掲『入江相政日記』によると、鷹司さんは臨時祭主への就任を打診された当初、「御承知にならないばかりでなくお泣きになつたりして何ともならない」という様子だったらしい。
「理由は泰宮さま(※明治天皇皇女・聡子(としこ)内親王。皇籍離脱して東久邇(ひがしくに)聡子さん)はどうなのかといふことゝ『そんなことしか出来ないと思はれても』とかいふこと。優越感と劣等感の協生である」——昭和47年7月29日条。
写真=iStock.com/tapanuth
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■愛子さまに「無理強い」をしない制度設計でありたい
鷹司祭主の誕生は、気乗りしないものについて重ねて説得されて「おもうさまの仰有(おっしゃ)るやうにする」と受諾した結果だったのである。このように嫌がる方に引き受けていただく形は、一般論として好ましいものとはいえまい。
皇女の祭主が長く続いてきたことで、より直系に近い方の祭主就任を期待する風潮が生じているように思う。筆者自身、今上陛下のご長女である愛子内親王殿下はいずれ祭主になられるのではないかと推測しているが、このような風潮は未来に悪影響を及ぼしうるものでもあろう。
少子化の波は皇室にも押し寄せており、現代において皇女は極めて希少な存在となっている。この状況は今後の御代でも大きくは変わらないだろう。いつの日か「皇女は他にいないのだから」と不本意な祭主就任を強いられる皇女が現れることのないよう、切に願う次第である。
■「神社本庁」総裁はどうなるのか
筆者にとって伊勢神宮と同じくらい気になるのが、全国約8万社の神社を包括する宗教法人「神社本庁」への影響である。
神社本庁には「名誉を象徴し、表彰を行ふ(※神社本庁憲章第4条)」存在として総裁が置かれている。就任資格の規定はないが、神社界では昭和21年の発足当初から神宮祭主を総裁として奉戴することがほとんど当然視されていた。
「総裁には神宮祭主を推戴する含みであり、統理には同じく神宮大宮司を戴いていくのであると説明された」——神宮司庁『神宮・明治百年史 下巻』(昭和45年)109頁。
しかし、ごく短期間とはいえ日本国憲法下でも先例がある皇族の神宮祭主とは対照的に、現役の皇族が神社本庁総裁になられた例はまだない。
先例主義が根深く残る宮内庁にしてみれば、先例が存在しないというその一点だけでもためらう理由になるかもしれない。
■神社本庁を「政治団体」視した旧宮内省
さらにいえば、神社本庁の政治性も無視できない。神社本庁といえば、特に第2次安倍政権の時代には「右傾化の元凶」といったイメージを多くの人に抱かれていた。
これ自体は実態とかけ離れた虚像にすぎないが、紀元節復活や靖国神社国家護持、さらには元号法制化など、神社本庁が政治的目標を持って運動してきたことは事実である。この過去が皇族総裁へのハードルとなる可能性がないとはいえまい。
皇族が名誉職を引き受ける場合には一定の制約がある。昭和59(1984)年4月17日の参議院内閣委員会における当時の宮内庁次長の答弁によると、「政治的でないこと」や「宗教的活動と見られるようなものでないこと」などの基準があるという。
皇族祭主もありうるとするのみならず、新祭主の選任には「勅旨」という形で天皇の関与が必要だとする神宮規則を、そもそも宮内庁は長年了承し続けてきた。それゆえに宗教的活動については程度問題だろうけれども、宗教的どころか政治的ですらあるとなれば、また話が変わってこよう。
参考までに、戦中から戦後にかけての神宮少宮司・古川左京が次のようにGHQ占領期を回想していることを付しておきたい。
「宮内省は、最初は神宮は神社本庁に入るなといふ意向だつた。それといふのは神社本庁は、宮内省から一種の『政治団体』視せられてゐたからだ」——神宮司庁『神宮・明治百年史 補遺』(昭和46年)146頁。
神社本庁総裁の座を、はたして今の宮内庁はどう考えるのだろうか。
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中原 鼎(なかはら・かなえ)
皇室・王室ウオッチャー
日本の皇室やイギリス王室をはじめ、君主制、古今東西の王侯貴族、君主主義者などに関する記事を執筆している。歴史上でもっとも好きな君主は、オーストリア皇帝カール1世(1887〜1922)。
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(皇室・王室ウオッチャー 中原 鼎)