ひどく「醜い」女主人公で村上春樹が描いた出会いの残酷さ…心理学者が解説「苦い結末が意味すること」
2025年2月14日(金)17時15分 プレジデント社
2024年6月29日、東京・すみだトリフォニーホールで開催された「村上春樹プロデュース 村上JAM vol.3 ~熱くて優しいフュージョンナイト~」公演後の撮影でポーズをとる作家の村上春樹。 - 写真=AFP/時事通信フォト
■出会いに待ち受ける様々な危険
出会いは、これまで知らなかったものや人に巡り会うことになるだけに、すばらしい経験になったり、自分の人生を飛躍させる機会になったりすることもあれば、逆に思いもよらないような恐ろしい結果に終わることもある。
「通り魔」などということばがあるように、突然の出会いは時には犯罪や死にさえつながることがある。近年において、婚活などにおいてもあたりまえのようになってきているインターネットでのSNSやアプリを通じての出会いにおいても、様々な危険が待ち受けている。
そこまでではなくても、出会った人の思わぬ面に後々遭遇して驚かされることはあるであろう。これから取り上げる村上春樹の短編「謝肉祭(Carnaval)」は、そのような出会いの影の面、特に出会った相手の否定的な面に焦点を当てたものである。
〈彼女は、これまで僕が知り合った中でもっとも醜い女性だった〉(村上春樹『一人称単数』文春文庫/以下同)という意外な一文から短編「謝肉祭(Carnaval)」は、はじまる。
この仮に「F*」と呼ばれる女性は、語り手がある程度近しい関わりを持った女性たちのなかで、いちばん醜い女性だったという。
■ヒロインの「醜さ」が意味するもの
出会いにおいては、最初の印象が非常に大切である。「一目惚れ」などという表現があるように、そこで何らかの魅力を感じたり、お互いに惹かれ合ったりというのがないことには出会いはなかなか生じてこないであろうし、その魅力のなかでも美しさというのは重要な要素であろう。
典型的なのは、同じく『一人称単数』に収録された短編「ウィズ・ザ・ビートルズ」における、同じ高校に通っていた少女との魅惑的な出会いである。しかし「謝肉祭(Carnaval)」での女性は醜いとされる女性なので、出会いにおける典型的なパターンから外れてしまっている。
また醜(みにく)さというのは、扱うことがむずかしいテーマである。「いちばん醜い女性だった」と書いても、〈F*はたぶん気にもしないだろう〉とされているけれども、他人にはっきりと醜いと言われれば多くの人は非常に傷つくのではなかろうか。さらには社会的にも、人の外見を元に否定的に批評することは、身体障害に対するのと同じような人権無視や差別的な言動として問題視されるのではなかろうか。
特に男性が女性の醜さに言及する場合には、男性が女性を一方的に評価する男性優位社会の問題が指摘されるかもしれない。誰かを「醜い」と言うことには、ある種のタブーが伴っている。
写真=AFP/時事通信フォト
2024年6月29日、東京・すみだトリフォニーホールで開催された「村上春樹プロデュース 村上JAM vol.3 〜熱くて優しいフュージョンナイト〜」公演後の撮影でポーズをとる作家の村上春樹。 - 写真=AFP/時事通信フォト
■存在の醜さにつながる物語の展開
このように様々な問題があることを意識しつつも、この短編で扱われている美醜、特に醜さのテーマを検討したい。差別的であるからと醜いという言葉を隠蔽するだけでは、実は醜いとこころのなかで思っていても言わないだけのことであって、本質的な解決にはならない。それと向かい合っていく必要があろう。
この短編で醜さがクローズアップされるのは、ここでのテーマが否定的なものであるのに関係している。実際のところ、そのF*という女性に関連して、詐欺や犯罪という見かけだけでない醜さに物語は展開していく。見かけの醜さは表面的なものに終わらず、こころと存在の醜さにつながっていくのである。
しかし美醜というのは、非常に相対的で主観的なものである。ある時代や文化において美しいとされるものが、必ずしも別の文化では美しいものではない。それどころか、語り手は美しさについて、次のように述べている。
〈僕の知る美しい女性たちの多くは、自分の美しくない部分——人間の身体環境には必ずどこかにそういう部分はあるものだ——を不満に思い、あるいは苛立ち、その不満や苛立ちに恒常的に心をさいなまれているようだった〉
一般的に美しいとされている人も、自分の美しくない部分を意識し、それにこだわってしまっているという。いわばその部分が自分のコンプレックスになっているのである。
写真=iStock.com/BrAt_PiKaChU
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BrAt_PiKaChU
■美醜とは見方ひとつで変わってしまう
逆に〈どんな醜い女性にだってどこかしら美しい部分はある〉という。つまり美しさや醜さとは極めて主観的なもので、受けとめ方の不思議がある。語り手はさらに次のように付け加えている。〈僕らの暮らしている世界のありようは往々にして、見方ひとつでがらりと転換してしまう。〉
美しい、醜いも見方ひとつで変わってしまう。だから「醜貌(しゅうぼう)恐怖」という心理的な症状も生まれる。
これは日本人に典型的な神経症とされてきた対人恐怖のなかの一つの極端な現れ方である。対人恐怖は自意識による症状で、自分が見られているとか、噂をされているとか思って、人が怖くなってしまうものであり、実際に他人に見られたり、噂されたりしているかどうかはわからないが、そのように外から自分を否定的に意識してしまうことによって生じるものである。
その極端な形である醜貌恐怖は、自分が醜いのではなかろうか、身体、特に顔のある部分が変なのではなかろうか、などと思ってしまう病理である。実際にそのような訴えをする人に会っても、客観的に醜かったり、特に問題があったりするわけではないが、本人にとっては深刻な問題なわけである。
■両極化した特別なしるしとしての魅力
繰り返すが、美醜というのはすぐれて主観的な問題で、あくまで相対的なものなのである。個人的な見方に加えて、文化的・時代的なものもあり、美醜の見方に関しても一方で世界がグローバル化して同じような捉え方が広がると同時に、他方で多様な見方が生まれ、尊重されるにともなって、美醜の問題はある意味で両極化していると言えよう。
語り手は、〈自分が醜いと自覚している醜い女性の数はそれほど多くはない〉ことを確認したうえで、〈彼女は実に普通ではない〉、〈そしてその普通でなさは僕のみならず、少なからざる数の人々を彼女のまわりに惹きつけることになった〉としている。
つまり醜いとは、美しいのと同じように、特別なことのしるしであり、この世ならぬものであり、そこに独特な魅力があるというわけである。だから彼女は多くの人を惹きつける。
写真=iStock.com/Teamjackson
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Teamjackson
■醜いことに備わる超越性
醜いというのは、スティグマであるが、スティグマというのが元々キリスト教のコンテクストで「聖痕(せいこん)」を意味することに表れているように、特別なことのしるしである。それを多くの物語は、醜から美への転換として表現する。
たとえばアンデルセンの童話、「みにくいアヒルの子」は醜いとされてきたアヒルの子が最後に美しい白鳥になる物語であり、「美女と野獣」では、醜く恐ろしい野獣が、愛の力によって最後は麗しい王子になる。
しかしこれは実は、醜い存在として現れてきていること自体が、特別な存在であることを示唆しているのではなかろうか。必ずしも醜いという否定的なものが美しいという肯定的なものに変わるのではなくて、美しさとは、醜いという形で最初に現れてきた特別な存在が本来の自分のあり方を実現できたことを象徴しているに過ぎないのであろう。
その意味で、醜いということには特別さと超越性が備わっている。この短編における女性にもそのようなものが備わっていたのであろう。
■出会いの反転する相対性
先述の通り、この物語は予期せぬ展開を見せる。女性F*の全く別の、語り手が知らなかった否定的な側面が突如として現れてくる。深く興味深い出会いをしていると思っていたが、彼女には全く別の側面、顔があったのである。
出会いがいかに本質的であったとしても、瞬間的で部分的であるからこそ、最初の出会いではわからなかった側面がのちに現れてくることは多い。あるいは出会いは時とともに裏の関係に開かれていき、それはまた思わぬ形での新しい出会いになるのかもしれない。
河合俊雄『村上春樹で出会うこころ』(朝日選書)
彼女については当初〈醜い仮面と美しい素顔〉とされていたが、醜い仮面の下にあったのは、美しい顔ではなくて、人を騙したり、罪を犯したりするような、もっとおぞましい姿であったのである。あるいは音楽についての高尚で洗練された議論をしていた輝かしい彼女には、それとは全く異なる、人を騙して金銭を集めようという犯罪に関わる闇の側面があったのである。
その二つの世界はパラレルワールドのように、全くつながりがなさそうである。しかしそれはひとりの人物の二面性に他ならず、この出会いはさらに古い記憶を語り手に呼び覚ます。こうした苦い悔恨は、いわば語り手の自画像でもある。美醜の如く、反転する光と影、すなわち出会いの相対性がそこにある。
----------
河合 俊雄(かわい・としお)
心理学者
1957年生まれ。臨床心理学者、臨床心理士・公認心理師。京都大学大学院教育学研究科博士課程中退。Ph.D(. チューリッヒ大学、1987)、ユング派分析家資格取得(1990)。甲南大学助教授、京都大学大学院教育学研究科教授、京都大学こころの未来研究センター教授・センター長を経て、現在、京都こころ研究所代表理事。IAAP(国際分析心理学会)会長(2019-22)。著書に『心理療法家がみた日本のこころ いま、「こころの古層」を探る』(ミネルヴァ書房)、『村上春樹の「物語」 夢テキストとして読み解く』(新潮社)、『心理臨床の理論』『ユング 魂の現実性』(共に岩波書店)、『夢とこころの古層』(創元社)、『村上春樹で出会うこころ』(朝日選書)など。
----------
(心理学者 河合 俊雄)