松平定信は「田沼意次を二度も刺そうと思った」…徳川家御三卿から男児が"排除"された末に起こったこと

2025年2月16日(日)9時15分 プレジデント社

「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、天明7年6月(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)では、徳川幕府の老中・田沼意次(渡辺謙)が御三卿田安家の松平定信(寺田心)を強引に養子に出した。系図研究者の菊地浩之さんは「ドラマでは8代将軍吉宗の書が偽造されていたが、実際には改ざんはなかっただろう。御三卿は大名ではなく、後継者がいなければ御家断絶の危機となった」という——。
「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、天明7年6月(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

■江戸城でめぐらされていた将軍の座をめぐる権謀術数


大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)は、徳川将軍家の暗闘が描かれている。そのキーポイントは御三卿である。将軍輩出を狙う一橋徳川治済(はるさだ)(生田斗真)、定信(賢丸:寺田心)によって家系存続を図る田安徳川家の野望が描かれている。


御三卿は、8代・徳川吉宗(1684〜1751)が、長男の徳川家重(1711〜1761)に将軍を譲った翌年、次男の徳川宗武(1715〜1771)、四男の徳川宗尹(むねただ)(1721〜1764)にそれぞれ江戸城内の田安門・一橋門近くに邸宅と10万石を与えたことにはじまる。そして、9代・徳川家重も父に倣って、次男の徳川重好(1745〜1795)に清水邸と10万石を与えたのだ。


9代・徳川家重は障害により言語が不明瞭で、酒色におぼれ、文武を怠る人物だった。これに対して、次男の田安徳川宗武は文武に優れ、特に国学には造詣が深かった。当然、幕閣の中には宗武を将軍に推す声が大きかったが、吉宗は長男がいながら、次男を擁立すると国の乱れのもととなるとして、家重を将軍とした。宗武はこれを後々まで不服としたので、10万石を与えて別家としたのであろう。


■徳川御三家と御三卿の違い、御三卿は大名ではない


ちなみに、この「御三卿」は大名ではない。「将軍家の家族」という位置づけだ。


だから、田安徳川治察(はるあき)(入江甚儀)が、弟の松平定信に跡を継がせようと画策しても、将軍家(=幕府)がそれを阻止することができたのだ。


これが「御三家」だったら大問題だ。後日、11代将軍・徳川家斉の子どもが次々と御三家に送り込まれるが、これは御三家の家老が了解したから実現している。時には、藩内の反撥に押されて受け入れを拒んでいる。それは御三家が独立した大名であるからだ。


これに対し、御三卿は将軍家を家長とする一族だから、将軍家が家督相続に介入できるという立て付けなのだろう。


では、なぜ御三卿は大名ではないのか。


■歴代将軍の次男以下は原則として大名に封ぜられていたが…


そもそも歴代将軍の次男以下の子どもたちはどのように遇せられていたのだろうか。


初代・徳川家康の子どもたち(のうち、成人した子)はみな独立した大名となった。


2代・徳川秀忠の三男の徳川忠長(1606〜1633)は11歳で駿河駿府藩23万8000石の大名となった(庶子・保科正之は保科正光の養子)。


3代将軍・徳川家光の三男の徳川綱重(1644〜1678)は8歳で甲斐甲府藩15万石、四男の徳川綱吉(1646〜1709)は6歳で上野館林藩15万石の大名となった。


6代将軍・徳川家宣の弟の松平清武(1663〜1724)は45歳で上野館林藩2万4000石の大名となり、5万4000石に加増された。


つまり、歴代将軍の次男以下の子どもたちは原則として大名に封ぜられたのだ。そして、徳川家光の四男・徳川綱吉、その甥(綱重の子)の徳川家宣は大名から将軍に擁立された。


御三卿を設立した目的は、「将軍の跡継ぎを輩出すること」だと説明されている。しかし、御三卿なんか創らなくても、次男以下の子どもを大名にすればよかったのである。実際、3代将軍・家光の家系もそうやって曾孫の代まで将軍を輩出してきた。吉宗の家系がそれより続いたのは、家光の曾孫の7代・徳川家継にたまたま子がなく(というより早世してしまい)、吉宗の曾孫の11代・徳川家斉がたまたま子沢山だったかの違いでしかなかい。


換言するなら、なぜ吉宗は次男以下の子どもを大名にしなかったのか?


■吉宗の遺言「御三卿は後継者がいなければ廃絶」は史実か?


松平定信は兄の死後に田安徳川家を継承するように幕府に嘆願したが、幕閣は吉宗の遺命によれば、「御三家の領知は部屋住み料として与え、無嗣(跡継ぎの男子がいないこと)であれば収公(家禄を没収)するとあるため、願いは却下する」(高澤憲治『人物叢書 松平定信』)。


撮影=プレジデントオンライン編集部
東京都千代田区の北の丸公園(旧江戸城)田安門。この門内に八代将軍吉宗の第二子宗武が一家を創立して御三卿・田安家を興した - 撮影=プレジデントオンライン編集部

大河ドラマ「べらぼう」では、田沼意次(渡辺謙)が平賀源内(安田顕)に命じて偽造させたということにしていたが、実際には改ざんなんてしていなかっただろう。


吉宗は自分の子どもを大名並みに遇しはしたが、新規の大名として立藩してしまうと、財政的に好ましくないと判断したのではないか。だから、当主の嫡男に子どもがあれば、家として存続しても、まぁしょうがないが、嗣子が途絶えれば、廃絶してしまおうと考えたのだろう。


御三卿の家禄は10万石だが、特定の地域をまとめて与えられたわけではなく(たとえば、田安徳川家の場合は武蔵・下総・甲斐・摂津など6カ国合計で10万石)、家臣は旗本の出向組だった。なんだか中途半端で、いつでも事業撤退(廃止)できるプロジェクトに見える。


■吉宗の四男が祖である「一橋家」は存続の危機に


そのため、御三卿の男子は厄介者で、なるべく他家の養子に押し付けようとした。


一橋徳川家の初代・徳川宗尹の長男は、幼名を小五郎という。小五郎は宗尹の幼名を襲名したものだ。当然、宗尹は長男を継嗣と考えていただろう。ところが、小五郎は5歳で越前松平家に養子に出されてしまう。越前松平家が家格引き上げを狙って、吉宗の子(もしくは孫)を養子にしたいと願い出ていたからだ。


宗尹の次男・仙之助は、徳川小五郎と改名するが、6歳で早世してしまう。次男の改名後に生まれたのが、三男の仙之助だ(ややこしい)。越前松平家に養子に出された実兄が死去すると、11歳で越前松平家に養子に出されてしまう。


四男の一橋徳川治済が家督を継ぐことができたのは、家重より宗尹が長生きできたからだろう。ちなみに、治済の弟も福岡藩黒田家の養子に出されている。藩主・黒田継高(つぐたか)は男子が死去していたため、外孫(娘の子)を養子にすべく幕府に打診したが、幕府は一橋徳川家からの養子を強引に押し付けたという。幕府にとって、御三卿で跡取り以外の男子は不要だったのだ。


田沼意次の肖像画(勝林寺蔵)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

■田安家の七男・松平定信は養子になんか行きたくなかった


田安徳川家の初代・徳川宗武は七男八女にめぐまれたが、長男から四男は10歳になる前に早世し、成人した息子は五男から七男までの3人のみ。五男・徳川治察が養子行きを免れたのは、越前松平家からの養子懇請時に、いずれも年長の従兄弟(一橋徳川宗尹の子)がいたからに過ぎない。家督を継ぐことができたのは、家重より宗武が長生きできたからだろう。


しかし、やっぱり宗武の六男の松平定国も、伊予松山藩・久松松平家に養子に出されている。そして、将軍家の近親を養子に迎えたこともあって、待遇(江戸城内での控えの間)がランクアップしている。


そこで、陸奥白河藩・久松松平家も将軍家近親の養子を懇望し、「べらぼう」で描かれたように、七男の松平定信が養子に出されていたのだ。兄が同格の家系に養子に行っているので、定信自身の養子縁組も不思議でも何でもない。


安永3(1774)年4月、定信は養父・松平定邦から「定信」の名を贈られて賢丸から改名し、5月に養家に引き移る儀式をしているが、田安徳川家から移らなかった。7月に異母兄・田安徳川治察が病に倒れ、8月28日に死去している。兄の松平定国は養子に行って6年経っているが、定信は養子縁組みをしているが、実態としては未遂なので、家督を継がせてほしいと願い出た——というより、家督を継ぎたくて養家に移ることを渋っていたんだろう。


■定信は「田沼が約束を破った」「二度も刺し殺そうとした」


しかし、9月7日に御側御用取次(おそばごようとりつぎ)(将軍の側近)の稲葉正明から、「吉宗の『御議定』には、御三卿の領知は部屋住料として与え、無嗣であれば収公するとあるため、願いは却下する」と返答があった。しかし、翌日、領知はそのまま田安領としたうえ、付人たちは田安付とすると、伝えられている。


ところが、定信は子孫のために記したとする自伝の『宇下人言(うげのひとこと)』(定信の漢字を分解した書名)には、「治察の臨終に際して宝蓮院(父の正室)が稲葉から、定信の田安家相続に対する協力を取り付けたが、治察の死後に田沼意次らが約束を破った」と記している(『人物叢書 松平定信』)。


こうした経緯から、定信は将軍家に意見書を出した際、田沼のことを「私所存には、誠に敵(かたき)ともなんとも存じ候(そうろう)盗賊同然の主殿頭(とものかみ)(田沼意次)」と記し、「二度も田沼を刺し殺そうとした」という(中公新書『松平定信』。原文では「同然」は「同前」になっている)。


筆者作成

■最後の将軍・慶喜は御三家に生まれ、御三卿一橋家の養子に


15代将軍・徳川慶喜が、水戸徳川家から一橋徳川家を経由して将軍家を継いだことは有名である。ではなぜ、慶喜が一橋徳川家を継ぐことができたのか。それは、慶喜は英邁だったからという理由もあっただろうが、家斉の子孫に適任者がいなかったからだろう。


将軍在任中の徳川(一橋)慶喜。渋沢栄一『徳川慶喜公伝 三』(竜門社、1918年1月4日)。国立国会図書館デジタルコレクション参照= 2025年2月14日

慶喜が一橋徳川家を継いだ弘化4(1847)年、家斉の息子で存命だったのは、12代将軍・徳川家慶、津山松平斉民(なりたみ)、蜂須賀斉裕(はちすかなりひろ)の3人しかおらず、家慶の息子はのちの13代将軍・徳川家定しかいなかった。


徳川将軍家は、他家の養子に出した人間を徳川家に戻した実例がない。他家の養子に出た時点で、家督相続の対象外なのだ。幕閣が家斉の子どもたちを他家の養子にすべく奔走したツケがこんなところに出ていた。


御三家には本流が途絶えた時に養子を迎えるための支藩がある。尾張徳川家の支藩・高須松平家は有名だ。御三卿が大名家になっていたら、次男以下に扶持を与えて支藩を作り、血脈の存続を図っていたに違いない。つまり、御三卿があったからこそ、水戸徳川家の末裔である慶喜に将軍職を奪われてしまったのだ。


----------
菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005〜06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
----------


(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

プレジデント社

「ドラマ」をもっと詳しく

「ドラマ」のニュース

「ドラマ」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ