「応仁の乱の原因は日野富子」はデマである…学習院大学教授が解説「歴史的大乱の本当のきっかけ」

2025年2月17日(月)18時15分 プレジデント社

足利義政像(左)と細川勝元像(右)(画像=左:東京国立博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons、右:龍安寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

応仁の乱を室町時代後期、京都を中心に繰り広げられた内乱だ。将軍家の後継者争いや有力大名の対立が複雑に絡み合い、幕引きまでに約11年もかかった。この歴史的大乱の発端は何だったのか。『室町アンダーワールド』(宝島社)より、学習院大学教授・家永遵嗣さんの解説をお届けする——。
足利義政像(左)と細川勝元像(右)(画像=左:東京国立博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons、右:龍安寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

■「悪女・日野富子」はここから始まった


応仁記』は日野富子を大乱の原因として指弾し、その「悪行」を描いている。


日野富子は夫の足利義政が弟義視に将軍職を譲ろうとしたことに不満を抱き、わが子義尚を将軍にするよう山名持豊に依頼し、これを容れた山名が、義視を亡き者とするために義視の後見人細川勝元との対決を決意した。持豊が畠山義就を京都に招き、義就と畠山政長の対立が口火になって応仁の乱が始まった。これが、その内容である。


このエピソードは、伊勢貞親が足利義視を誅殺するように義政に進言して失脚した、文正の政変に関する記述の直後にある。山名持豊は伊勢貞親と対立していたから、義視誅殺問題を厳しく糾弾していた。その山名に対して、富子が義視を亡き者にせよと迫り、持豊がこれを受け容れたという話になっているわけで、無理筋である。


文正の政変のあと、義視は山名と結んで畠山義就に肩入れしている。富子が畠山義就の帰京に尽力した徴証はあるけれど、義視を陥れようとする脈絡に位置づくものではないのである。


こういった事情を踏まえて、日野富子を大乱の元凶とする『応仁記』の記述はデマゴギーである、とみるのが私の意見だ。同時代の公家・僧侶の日記には、富子を乱の原因だとする記述が全くない。後世の作り話である可能性が強い。


■『応仁記』に描かれている2つの軸


『応仁記』の作劇術をみると、細川勝元と畠山政長との親密な関係、勝元と足利義視との親密な関係という、二点に力点がある。


前者については、細川勝元の重臣安富元綱と畠山政長の重臣神保長誠との「衆道(しゅどう)」(男性同士の同性愛)関係がサビになっている。


後者については、義視を陥れようとした富子・山名持豊が勝元に挑戦したというストーリーがある。細川氏、政長流畠山氏、足利義視の子孫に関係する人々を聴衆として想定した作品なのである。


述作時期は、応仁の乱後、細川氏が畠山政長の子孫や足利義視の子孫と同盟関係にあった時期となる。それは永正5年(1508)以後だ、ということになる。


■応仁の乱の後も抗争は長く続いた


足利義視は西軍の主将だったから、大乱の終息後は子息の義稙とともに美濃斎藤氏のもとにいた。長享3年(1489)に足利義尚が没すると、義視・義稙父子は将軍職を継承するため、京都に舞い戻った。細川勝元の子政元は義視を嫌い、足利政知の子義澄の擁立を考えた。義稙の生母が妹の良子であるため、富子が尽力して義稙に家督を継がせた。


応仁の乱(画像=Japanese-finearts.com/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

この前後、細川政元は足利義澄の擁立を画策していたから、義稙とは関係が悪かった。明応の政変で義稙を追放してからのちはなおさらである。畠山政長はこのころ義稙と結んでいたため、明応の政変で細川軍に敗れて自殺した。子息の尚順が逃れて政元と戦うことになる。


永正4年(1507)に細川政元が暗殺され、永正5年に義澄が京都から逃げ出し、義稙と畠山尚順が帰京することで、15年にわたる抗争に終止符が打たれた。


義稙や畠山尚順と同盟したのは政元の養子の一人細川高国だった。この同盟は大永元年(1521)に高国と仲違いした義稙が京都を去るまで続いた。義稙・尚順・高国は、血みどろの抗争を戦ったあとで、不本意ながら協力せざるをえない関係になった。


■日野富子への「濡れ衣」にだれも抗わず


このため、憎悪を慰やす「物語」を必要としていた。細川勝元と畠山政長との親密な関係、勝元が義視を擁護したという話題を盛った『応仁記』は、三者を「かつては親しい関係だった」と描き出す「作り話」として造作されたのだ。


日野富子は既に没しており、不和の元凶という「濡れ衣」を着せても不服を唱える者はいなかった。後世の人は、「女を政治に関わらせてはいけない」ということの教訓として『応仁記』を読んだことだろう。デマは聴き手や読者の願望や先入観を利用して食い込んでいく。以(もっ)て瞑(めい)すべきことがらである。


大乱の原因について、根本的なところでわかっていないこともある。例えば、義政がなぜ弟義視に跡目を譲ろうとしたのか、という点などである。これまでは、「義政が政務に飽きたから」と記す『応仁記』の説明を踏襲することしかできていなかった。


義政の関東対策は失敗続きだったが、義視を還俗(げんぞく)させた寛正5年(1464)当時は比較的順調な時期であった。足利成氏が占拠していた足利荘を奪回する作戦が準備されており、文正元年(1466)7月に奪回に成功した。「義政が政務に飽き」るような状況ではなかった。


■義政がわざわざ「禁じ手」を選んだ理由


義政が元気であるのに弟の義視に将軍職を譲ろうとしたわけだが、こんなことは空前絶後だろう。初代将軍尊氏と弟の直義との対立が原因で大混乱(観応の擾乱)が起こっているほどだ。通常ならしない「禁じ手」をやったために、大騒動になったわけだ。


義政には10人の男子兄弟がいたが、若くして没した者が多い。浄土寺義尋(義視)を還俗させて後継者にしたのは寛正5年12月だが、4月に義政の同母弟聖護院義観が没していたため、義政の他には政知と義視だけしか生き残っていない状態だった。


義教・義政の東国対策は、義教の子息兄弟で京都と関東とを分担する考え方に基づいていた。義政は、同母弟義観の死をきっかけとして、義政・政知に何かあったときのことを考えるようになったと思われる。


■義政の「院政プラン」に対し、大名たちは…


寛正5年当時、義政にも政知にも男子がいなかった。そこで義視を還俗させたと考えられる。日野富子は妹良子を義視に娶めあわせ、日野家と将軍家の合体を維持しつつ、どちらに男子が生まれてもよい万全の態勢をとった。


このとき、義政のために東山御所をつくる計画も同時並行で進行していた。兄弟である政知・義視をそれぞれ関東と京都に分置して、義政自身は院政を敷くような形で後見する、といった仕組みを考えていたようだ。これが義政本人のプランであった。


ただし、傍<はた>はそうは見ない。大名たちは今のうちに義視のほうについたほうが得、と考える。その逆に、義政の政務の実権を握っていた側近グループの伊勢氏は、誰も義視のほうにはついていないのだ。伊勢一門は全て義尚の周囲に集まっている。義視を将軍にしたとしても、最終的には義尚が家督を継ぐに違いないと考えていたからだろう。


■目算が狂い、勝元は動かざるを得なかった



垣根涼介、呉座勇一、早島大祐、家永遵嗣、『室町アンダーワールド』(宝島社)

細川勝元も、義政の実権は揺るがないと考えている。ところが、ノーマークである義視のところに山名たちが一斉にくっついた。まったく想定外の事態となったわけだ。


つまり、伊勢貞親や細川勝元は、義政の意図をある程度理解していた。だからこそ側近ともいえるわけだが、それ以外の大名たちは、義視についていけば時代が変わるだろうと考えた。この力に圧されて貞親が失脚してしまい、義政と勝元との連携までもが狂った。


義視はもとより富子も山名に加担する誤算となり、舞台上の立位置を失った勝元は大逆転のために打って出なければならなくなった。こういう流れで考えたほうがよいと思う。


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家永 遵嗣(いえなが・じゅんじ)
学習院大学教授
1957年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。成城大学短期大学部助教授などを経て現職。博士(文学)(東京大学)。主な共著に『中世の法と政治』『室町政権の首府構想と京都』などが、主な論文に「足利義満・義持と崇賢門院」「再論・軍記『応仁記』と応仁の乱」「足利義視と文正元年の政変」などがある。
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(学習院大学教授 家永 遵嗣)

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