「南京大虐殺」を創作した米国と中国の呉越同舟

2月25日(月)6時0分 JBpress

街の建物が霧に覆われた南京市(2018年11月27日撮影)。(c)CNS/泱波〔AFPBB News〕

 東京裁判は、原爆投下や無防備都市爆撃という前代未聞かつ未曽有の「人道に対する罪」を犯した米国が、日本を「大虐殺」の犯罪国家に仕立てて帳消しにするために行ったもので、反論を許さない牽強付会の判決となった。

 マッカーサー元帥が蒋介石政権に依頼して行なった資料集めに始まるが、集まった情報は掠奪・強姦・放火などの「石」(一般犯罪)ばかりで、GHQ(連合国最高司令部)は「真相はこうだ!」で、これらの「石」を大虐殺という「玉」に仕立てる洗脳を行なう。

 資料集めに奔走した中国も、日本に対して「恨み骨髄に入る」辛酸を舐めていたために、集めた資料を基に南京裁判を開廷し、「百人斬り」や6師団長の「暴虐」を断罪した。

 ここでは南京戦に先立つ上海戦から従軍し、戦況の帰趨を冷静に眺め、真実の報道に徹した記者とカメラマンの手記などを参考に論を進める。


現地では「大虐殺」など見なかった

(1)同盟通信・前田雄二記者の従軍記

 「ドカン、ドカンという音が聞こえた。略奪の音である。兵隊は2、3人づつ組んでは、ナタ、マサカリ、金槌を持ち、避難した無人の家の錠前を打ち破っていた」(前田著『戦争の流れの中に』、以下同)。

 南京への追撃戦でのことで、日本兵士の悪行を感情移入することなく見たまま聞いたまま伝えたいという記者魂が書かせた告発の一文である。

 日本軍が南京城に入るのは(昭和12年12月)13日であるが、前日からの攻城は一段と激しさを増していた。

 13日午前零時、6師団が中華門を爆破して占領したのを先途に、午前3時には16師団が中山門上に日の丸を揚げた。同部隊の一部は右翼に回り、玄武湖を挟む太平門と和平門、さらに長躯して下関(シャーカン)も占領した。

 日本軍が残した中国軍の脱出口は揚子江に面した挹江門と定淮門だけである。

 午後になると、市街戦から残敵の掃討戦に逐次移行していく。

 陣地放棄時に敵が行う放火で黒煙がもうもうと上がり、砲火と銃声の響き、一部逃げ遅れた住民の巻き添え、多数の中国軍の遺棄死体などで凄愴の気が漲っていたという。

 退却する中国軍兵士は挹江門を中心に、その周辺の城壁を超えて下関に殺到するが、下関は既に日本軍の手に陥ており、敗残部隊は迎撃を受けて殲滅されていった。

 非情というなかれ、生死を分ける戦争の真最中である。記者は城内を車で見て回る。

 「本格的な戦闘は終わっていたが、まだ部分的な小競り合いは続いていた。街の中心部や城門に近い建物に立てこもった小部隊の抵抗や、逃走部隊への日本軍の攻撃で、激しい銃声が諸方に聞こえた」

 15日も車で城内を回っている。住民居住区は「避難区」(安全区とも呼称)とされ、周辺には警備隊が配置され、旧支局が区内にあるとの理由で中に入る。

 「店は閉じたままだが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していた」という。

 16日は軍官学校で処刑の場に出くわす。

 「下士官がそれ(敵兵)を前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き貫く。悲鳴をあげて壕に転げ落ちると、さらに上から止めを刺す」

 「交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。私は辛うじて十人目まで見た時、吐き気を催した」

 支局に帰ると僚友が車で出かけるところで、同乗して市内を回り、下関への出口の挹江門へ行く。そこには「まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている」状況だったという。

 「今日はいやなものばかり見る日だ」と昼食時に同僚に語り、午後は再び銃声が聞こえる方を訪ねていくと、交通銀行の裏の池畔で、またまた〝処刑″現場に出くわす。

 「死刑執行人は小銃と拳銃を持った兵隊で、捕虜を池畔に立たせ、背後から射つ。その衝撃で池に落ち、まだ息があると上からもう一発だ。午前の処刑よりは残虐性が少なく、その死もまことにはかなかった」

 「『記者さん、やってみないか』、・・・私は驚いて手を引っこめたが、(僚友は)ニヤリと笑ってそれを受けとり、捕虜の背中に銃口を接近させると引き金を引いた。ズドンという音とともに男は背中を丸めるようにしてボシャンと池に水しぶきを上げた」

 17日は入城式。この夜、同僚記者が下関下流に死体の山が延々と連なっていたと報告。翌朝、2、3の僚友と車を走らせると、挹江門の死体は取り除かれていた。

 「下関をすぎると道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。(中略)城内に戻って、警備司令部の参謀に訪ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった」と記している。

(2)毎日新聞・佐藤振壽カメラマンの従軍記

 カメラマンの執念か、本社の要望で101師団に従軍していた夏目伸六(漱石の次男)と沢村三木男(歌舞伎俳優沢村宗十郎の四男、戦後文芸春秋社長)を日本軍10万人の中から探し出している。

(「『上海・南京 見た撮った』 従軍とは歩くこと」、『南京戦史資料集Ⅱ』所収、以下同)

 2人は「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」と軽視されていた輜重部隊で特務兵として馬の手綱を取っていたが、弾薬や食糧などを前線へ運ぶわけで、決して安全な任務ではなかった。

 戦後「百人斬り競争」で出回る少尉2人の写真も、同紙の浅海一男記者の依頼で佐藤氏が撮ったもので、南京への追撃戦に移行していた常州においてであった。

 撮影の諸元が明確でないと写真を信用しない佐藤氏らしく、百人斬りの確認方法などについて聞くと、少尉の当番兵が相手の斬った人数を確認するという。しかし、少尉はいずれも白兵戦をする職務にないことから「腑に落ちなかった」と述懐している。

 国民を鼓舞する記事を書きたい浅海記者と2人の将校の会話の中で生まれた武勇談であったに違いないが、戦後の成り行きから「思わぬことになった両少尉に哀悼の念を禁じ得ない」と記す。

 4か月間従軍カメラマンとして活動した最後の半月が南京戦の報道で、戦場のツボを心得たうえでの取材活動である。

 それでも「前線で戦う兵士を撮影しようと歩いて行くと、敵の機銃弾、時には迫撃砲弾が飛来して、生命の危険を取材中には免れることはできない」という。

 精神的にも将兵と変わらない状況で、時には兵士たちとの間で憂さ晴らしの下ネタも交わし、また、壮絶な戦闘に尾ひれのついた話も耳にしたという。先の百人斬りがまさしくそうだったに違いない。

 佐藤氏が見たただ一つの処刑風景は、南京城攻防の余波がいまだ収まらない(12月)14日であったという。

 敗残兵であろう100人くらいが後手に縛られて座らされている。彼らの前には5メートル平方、深さ3メートルくらいの穴が、2つ掘られていた。

 「右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまずかせて、後頭部に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、一回転して穴の底へ死体となって落ちて行った」

 「左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が『ツギッ!』と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと『エイッ!』という気合のかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する」

 「たまたま穴の方へ歩かせられていた中国兵が、いきなり向きを変えて全力疾走で逃走を試みた」

 「気付いた日本兵は、素早く小銃を構えて射殺したが、筆者(注:佐藤氏)から1メートルも離れていない後方からの射撃だったので銃弾が耳をかすめ、危険このうえもない一瞬だった」

 16日は社の車が使えたので南京住民の姿をルポするために市内を走り回っている。城外北東部の玄武湖の風景写真を撮っての帰路、難民区近くを通りかかると、大勢の中国の女に車が取り囲まれ泣きつかれる。

 彼女たちの群を避けて中山路に出ると、多数の中国人が列をなしている。

 「難民区の中に紛れ込み、一般市民と同じ服装をしていた敗残兵を連行」していたのだ。憲兵は「その数5、6千名だろう」と答えたという。

(3)朝日新聞・足立和雄記者の証言

 朝日新聞記者の足立和雄記者は阿羅健一氏のインタビューで類似の状況を述べている(『「南京事件」日本人48人の証言』)。

 「犠牲が全然なかったとは言えない。南京に入った翌日だったから、14日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国人を射っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが、難民区ではなかった」

 阿羅氏が「その時どう感じました?」と聞くと、「残念だ、とりかえしのつかぬことをした、と思いました」などと語っている。

 続けて「大虐殺があったと言われていますが」との質問を発しているが、いくつかの問答があった後で、次のように答えている。

 「成年男子は全員兵士になっていて、城内には原則として残っていないはずだ。いるのは非戦闘員で老人・婦女子だけだ。もちろん全然いない訳ではないが、成年男子で残っているとすれば特殊な任務を帯びた軍人か便衣隊だと思われていた」

 「便衣隊は各戦線で戦いの後、日本軍の占領地に入って後方撹乱や狙撃など行っていましたからね。逃げないで城内にいるということは、敵意をもっているとみられても仕方ない。軍は便衣隊掃蕩が目的だったが、あるいはやり過ぎがあったかもしれない」

 産経新聞も生存している元軍人たちを探して、「歴史戦」として記事にしてきた。これらから、彼我ところを変えて、いつ死に直面するか分からない戦場の実相を知ることができる。

 後日、戦時国際法に違反するか否かの問題があると指摘されてきた。しかし、激戦当時は誰一人、「虐殺」という認識は抱いていない。

 ましてや本多勝一記者が『中国の旅』の南京の項で書いた「電線にぶらさげ」「腹をたち割り」「心臓と肝臓を食う」などの証言を裏付ける行為を見た記者などは、約200人いた関係者(記者・カメラマン・無線技士・連絡員など)の誰からも聞かれなかったのだ。

 確かに日本を貶める悪行や軍に都合の悪いことは検閲で落され、報道されない部分もあった。しかし、メモを残し、戦後、前田氏や佐藤氏の従軍記のように発表するのは自由だ。

 東京裁判で「南京大虐殺」が言われ、その20年後に本多記者が中国人から聞き書きした「中国の旅」を朝日新聞にルポして以降、猛火の勢いで広がったことから、事実確認のために阿羅氏は何年もかけて多くの人を訪ね歩きインタビューしたのだ。

 そうした関係者から聞かれる声は、死者や処刑などは見ているが、誰一人として「虐殺」の認識をこれっぽちももっていなかったということである。そもそも、「ぶらさげ」「たち割り」「(人)食い」などは中国に見られる行為だ。


上海発の「乱暴狼藉」の大ウソ

 身の毛をよだたせる処刑の現場を見てきた記者やカメラマンたちではあるが、松井石根方面軍司令官が戒めた「皇軍としてあるまじき行為」は後に喧伝されるような「大虐殺」のことではなかったと断ずる。

 それには、記者らが現場で身をもって確認し、外電を信じない事実があるからにほかならない。

 「占領後、難民区内で大規模の掠奪、暴行、放火があったと外電が流れた。これを知って、私たちはキツネにつままれたような思いをした」

 「というのは、難民区は入城草々指定され、将兵の立ち入りが禁止された。そして入城式の頃から難民区内でも区外でも商店が店を開けはじめ、同盟班も18日には難民区内にあった旧支局に移動していた。これは区内の治安が回復したからのことである」

 「支局には戦前働いていた料理人や下働きが戻ってきた。これと入れ違いに、これまで忠実に仕えてきた李杏泉が多額の軍票と身分証明書を与えられて住民の中に去った」(数日後、前田記者の離任祝いに新調の中国服で現れる)

 「難民区内での日本兵の〝乱暴狼藉″説が上海から伝えられたのは、その直後のことだった」というのだ。

 「私たちが以前の活気を取り戻した難民区内の支局で、平和な日常活動を始めた矢先のことである」

 「私たちは顔を見合わせた。・・・市内をマメにまわっている写真や映画(担当)の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった」

 「残敵掃討や区内に逃げ込んで潜伏した中国兵の摘発も、14日には終わっていたのだ。もしこうした無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった」

 「警備司令部の記者会見でも、『例の白髪三千丈』だろうと、まともに取りあげる空気にはなかった。もしそれが事実だったとすれば、私たち新聞記者は明きめくらだったということになる」

 これ以上の「現場証言」はない。これだけで「南京大虐殺」は完全否定が可能だ。しかし、現実には宣教師たちの悪意ある意図と宣伝網で、虚言が反復拡大されて世界を駆け巡っている。

 駐中国総領事として赴任したラルフ・タウンゼントは、中国の(乱れた)実情を宣教師も事業家も外交官も本国に伝えていないことに切歯扼腕し、外交官を辞してフリーな立場で米国民に正しい情報を伝えようと努力する。

 中でも、宣教師たちは、何人も殺される悲惨な状況にありながら、米国民や組織の上部からさらなる支援を得たいばかりに、上手く布教できているように報告している。宣教師に対する社会的認知を逆利用したのだ。

 蒋介石政権の宣伝戦略と同夫人宋美齢の米国人脈にルーズベルト政権は絡みとられ、タウンゼントらの真実の情報発信は圧力で闇に葬られていったのだ。


占領直後から平穏が戻っていた

 12月15日の状況を佐藤カメラマンも「難民区の周辺には、生活力の逞しい中国人たちが、もう露店を出している。白地に梅干しを書いたような日の丸の腕章を左腕につけて、筆者の撮影にも無関心だった。自分の畑で収穫したらしい野菜を売る者、中古の衣類を売る者、餃子入りのスープを売る者など」という。

 「通りかかった日本兵に『兵隊さん、餃子を食べないか、食べたらお金を払ってね』と声をかける。この兵隊は気安く歩兵銃を肩に負い直して、中国人の女が差し出したドンブリを手にした」写真を撮る。

 「このあたりでは、子供も日本兵を恐れる様子は見せなかった」などと記している。入城式(17日)が終わる頃、宣撫班が難民区で菓子や煙草を配る写真もある。多くの市民が集まっている。

 「慰霊祭(18日)も終わり公式行事もなくなったので、市内を車で取材した。難民区や南部の市街地域には、爆撃や砲撃の跡は少なかった」

 「北部の海軍部や交通部のあたりは、街路上にまだ物品が散乱しており、このあたりから挹江門にかけて、中国兵が域外へ逃げる時に民家を荒らしたらしい。時折り、市内で小火災が発生していた」

 20日過ぎにもなると、「平穏な日々が続いた。下関で、捕虜を始末したという噂を聞いたので現場へ行って見たが、それらしい痕跡は見当たらなかった」し、正月用品と思われる4斗樽の菰かぶりが貨物船からクレーンでつり降ろされていた状況である。

 城内にいて12月12日の攻城戦を見ていた米人ジャーナリストは「夜にいると全くの無統制になり、掠奪、放火が至る所で行われ、脱出群衆はいよいよ数を増した。落城寸前の首都はまさに断末魔の様相を呈していた」と記録している。

 金陵大学社会学教授が行った被害調査の「スマイス報告」の巻頭言は、同大学のベイツ教授が書いている。

 そこには「城壁に直接に接する市街部と南京の東南部郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである。市の東南の道路に沿って行われた軍事作戦と4日間にわたった南京市に対する控え目ではあるが容赦のない攻撃による住民の生命及び財産の損害は、きわめて少なかった」とも書かれている。

 このように、中国側は何時も住民を盾にし、また日本側に利用されないように略奪や放火を行うのを常とする。それにもかかわらず、日本側が慎重に攻撃目標などを選んだことを是認する記述をしている。

 東京裁判の開廷と維持に重要な役割を果たしたとされるティンパーリー記者の「WHAT WAR MEANS」(戦争とは何か)の中の諸悪は日本兵の仕業とみなされてきたが、ほとんどは中国兵の悪行であったのだ。


朝日の報道体制は「群鶏の一鶴」

 「南京大虐殺」を告発して止まない肝心の朝日新聞はどう報じていたのだろうか。

 南京城の攻略に成功する2日前の同紙は、第5面のほぼ上半分を使い「日章旗 南京に翻るまで」とした地図を掲げた。

 そこには、上海から南京までの地名と道路や線路、湖沼などが書き込まれ、主要な地名のところには攻略した月日が日章旗のマークと共に書かれている。

 上海戦こそ手古摺ったが、そこを陥すと一瀉千里に南京を目指した日本軍の勇姿が一目で浮かび上がるようになっている。

 この地図を見ると、至る所で、万歳三唱が聞こえてくるような気がし、国民が躍り上がっている様子が目に浮かぶ。

 それもそのはずである。朝日新聞は報道合戦でも群を抜いていたのだ。

 昭和13年1月号『文藝春秋』は、「南京へ!! 南京へ!!」の掲題で「在上海K・R・K」名の新聞匿名月評を載せている。

 冒頭の「南京への興奮」で、「南京へ南京へ、駒も勇めば、征士の靴も鳴る。勿論ジャーナリズムもさうだ。その全神経が南京へ集中、すべては南京のために計画され、用意された」と書き出し、朝日が幸風機、鳳機を投入していたところに、大毎がロッキード機、読売がBFW機を参入させ「華々しい空輸戦を演ずることになった。勝敗果して何れゾ!」と書き出している。朝日は社内機5機のうち2機を南京に投入していたのだ。

 「朝日機の使命は、日本と支那、支那と南洋との連絡飛行のパイオニアたらんとするにある。・・・各社原稿の空輸にも甘んじて寛大さを示してきた。多分広義国防に対する広義宣伝戦への尽忠報国の気持ちではあらう。それが南京占領といふ書き入れ時に、大毎機、読売機の出現で、鳶に油揚をさらはれた結果になる」

 「仮りに彼我立場を異にしてゐたら、頑強に朝日機の進出を阻んだに相違あるまい」と推測し、「朝日の雅量を讃へる。朝日の読者をひきつけるものゝ一つは、この余裕と、これから生ずる和かな陰翳だ」と称賛。

 朝日新聞は航空機の活用で先駆的存在であったばかりではなく、湖沼やクリークの多い地形のためにモーターボートを準備し、さらに「大場鎮(注:上海郊外)陥落前、砲煙弾雨の中をくぐるべく、真面目に戦車の利用すら考慮された」と述べている。

 もちろん軍の協力があったからである。

 当時の無線連絡は故障も多かったので「無電機の健在、即ちニュースの勝利だ。この点、朝日は非常に恵まれたらしい。・・・それは無電台であり移動支局であるものに、各社はトラックを用ゐてゐるが、朝日はバスを張り込んだ。座席を改造、ベッドをも設けてゐる。・・・万事が応急的、出まかせな新聞戦の装備では群鶏中の一鶴だ」

 朝日新聞が投入した関係者(記者・カメラマン・無線技士・連絡員・自動車運転手など)は80余人で、毎日新聞の70余人、同盟通信の50余人よりも多かったし、全部では200人を超えていた。

 最も充実し、かつ信頼されていたのが朝日新聞であったことを、以下のようなに評価している。

 南京城を一望できる城外の緊要な高地である紫金山に到着したばかりの時点でのことである。

 同盟は紫金山に日章旗、大毎(毎日の前身)は中山陵に日章旗と報道したが、これは「ニュース・スピーディズムから出た亡霊」であったし、読売は「漢奸連の銃殺」を心臓(筆者注・想像)で書いたと、信頼性を問うている。

 その一方で、蘇州陥落は軍の報道班や各社支局にも分からなかったが、快報をもたらしたのは「朝日のファンで、義勇軍的に連絡員を買って出て」いた民間人。「朝日には、かうしたファンが多い」と、朝日の層の厚さを褒めている。


信頼性の高かった朝日の報道

 また同紙の昭和12年12月10日付は、ニュヨーク・タイムズ南京特派員の8日付と9日付の記事を伝えている。

 8日付記事は南京に踏みとどまっている中立国の軍事専門家が特派員に語ったことを、「狂ふ支那軍の大破壊」「外人の軍事専門家呆れる」の見出しで掲げている。

 「最近4、5日間にわたって城外並びに近郊の支那の防備状態を視察したが、その暴状には度胆を抜かれてゐる形である」と述べ、「支那軍はなんらの軍事的目的もなく、ただやたらにありとあらゆる事物をぶち壊し、焼払ってゐる」と述べる。

 特派員は「支那軍の上下を通じて存在する『日本軍にはかなわぬ』といふ劣等意識」がこうした無謀をもたらし、「狂気の如き残忍行為」は「町や村落のみに止らず市にさえへも及んでゐる」とのべ、具体的に「揚子江下流沿岸地方において行われつつあるが如き組織的な破壊」にも言及する。

 かつてはジンギスカンの大軍が行った焦土化を、いまや「支那軍自身の手によって行われたことは、いまだない」と、撤退する支那軍が追撃する日本軍に利用させないように、「面子を救ふ」という古来からの意識で行なっている現実を述べている。

 この結果、「日本軍の空襲砲撃の与へた損害は殆ど軍事施設に限られてをり、これを全部合せてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の10分の1にも足らぬであろう」と、被害のほとんどが撤退する中国軍によるものだと明言している。

 9日付の特派員記事の報道は「負傷兵締出し」「非人道極まる支那軍」の見出しである。

 「威容を南京郊外に誇ってゐた化学戦研究所も遂に支那兵によって火を放たれ火焔に包まれ、また金陵公園内の政府要路の大人達の広大美麗なる邸宅も守備兵の無謀な放火の犠牲となって炎上した」と述べ、「記者の胸に憐れを止めた」と記す。

 記者の本心は次にあるかもしれない。最後の運命を迎えようとする南京城には、前線で戦ってきた支那兵が返ってくる。

 「傷ついた兵士たちはよろめきながら城門に辿りつくが、門扉は厳として閉され、彼らはどこに行ってよいのか、いかなる運命が彼らを待ってゐるのかなす術を知らぬ有様である。8日、南京軍当局は負傷兵の入城を許さざる旨厳命を発し、あまつさへすでに城内にある負傷兵をも城外に追放する旨決議した」と述べる。

 特派員は中国軍が野戦病院をほとんどもっていないことを指摘して、城壁を迂回して揚子江に辿りつくか、路傍に野垂れ死にするかしかないだろうと憐れむ。

 焦土作戦でも「(南京から)奥地に殺到する非難民は数百万人に達してゐるが、支那政府が彼らを救済しようとしても何ごともなし得ぬ今日、彼らは如何にこの冬の衣食住を得んとするか、これは想像に余りあるものがあろう」と述べている。

 日本の停戦提案や降伏勧告を無視して、政府要人、次いで軍幹部が退散した無責任がもたらす結果でしかないことは言うまでもない。


おわりに

 第2次世界大戦における西部戦線で、アイゼンハウアー総司令官は100万を超える捕虜を有した。

 当時の出征米兵には潤沢な衣食住が与えられていた。それでも捕虜を国際法上の「捕虜」扱いで処遇する余裕をもたなかったという。その結果、餓死者などが続出し、後に「消えた100万人」と称された。

 これに対し、日本人が捕った数万の捕虜の多くは、日本兵も食うか食わずの状況下であり、また敵意なしとみられたものは師団長の考えもあって釈放された。

 残りが引率中に反乱などした結果、鎮圧せざるを得なかったとされ、第7歩兵連隊の戦闘詳報には「12月13日から24日の間に敗残兵6670人を刺射殺した」と記され、連隊長は「14、15、16日ノ3日間デ六千五百人ノ敗残兵ヲ厳重処分ス」と日記に記している。

 恥じ入る行為ではなかったゆえの明記である。高級幹部が国際法を理解していなかった、捕虜の取り扱いを徹底しておくべきであったなど、後日批判されている。

 戦時国際法上の違法性の検証などの指摘は甘受するべきであろう。しかし、当人たちはもとより、政府も外交官も報道関係者も含めた誰一人、「虐殺」などの意識はもたず、戦闘に伴う処刑であったということが大切である。

 「虐殺」は南京にいた米国人宣教師たちが蒋介石の宣伝戦に乗って、「日本人に虐められている中国を救う」名目で創り出した「虚偽」にほかなかったのである。

筆者:森 清勇

JBpress

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