「源氏物語の作者は紫式部」とは厳密には言い切れない…数々の古典研究者が「ゴーストライター説」をとる理由

2024年2月25日(日)14時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Shi Zheng

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古典の授業では「『源氏物語』の作者は紫式部だ」と教えられるが、署名入りの原本がない以上、それは確定した事実とは言い切れない。『紫式部と源氏物語の謎』(プレジデント社)の共著者でライターの北山円香さんは「作者についてはこれまでにさまざまな説が唱えられてきた。専門家たちの意見は、いまだに割れている」という——。

※本稿は、源氏物語研究会=編『紫式部と源氏物語の謎』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/Shi Zheng
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■紫式部が「藤原氏敗北」の物語を書くかという疑問


「紫式部は2人存在した」という信じがたい説を唱えたのは、作家の藤本泉でした。藤本は道長の愛人ともされることがある紫式部が、「源氏勝利、藤原氏敗北」のプロットを作ったとするには無理があるといい、紫式部が「源氏物語」を記したことを示す唯一の証拠である「紫式部日記」も、後世の人が記したものではないかと指摘します。


そうした推測から、藤原為時の娘であり歌人の「紫式部」と、「源氏物語」に関わりのある「紫式部」の2人の存在を想定し、2人がのちに混同されてしまったのではないかという結論を導きだしました。


にわかには信じられない奇説ですが、紫式部の署名が記された「源氏物語」が存在しない以上、この物語の作者については推測を重ねることしかできないのです。


■「源氏物語の作者は複数説」は過去にもあった


実際に「源氏物語」を紫式部ひとりが書いたものではないとする説は、古くから存在しました。


鎌倉時代から存在する説に、紫式部と藤原道長の合作だというものがあります。紫式部の作を藤原行成が清書した際、道長が「自分も創作に参加した」と奥書を加えたという『河海抄』の一節によります。


源氏物語の注釈書『花鳥余情』には、本当は紫式部の父である藤原為時の作で、細かなところを紫式部が書いたとする説があります。こうした説が唱えられたことには、「女性である紫式部が、あれほどの大作をひとりで書きあげられるはずがない」というような、根強い女性蔑視の感覚があったといいます。


物語を二分して、「幻」までを紫式部が、「匂宮」以降を娘である大弐三位が記したという説もあります。この説は、中国の歴史書『漢書』の成立になぞらえた、信憑性の低い類推だと言われています。ほかにも、宇治十帖に連なる「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖については、古くは中世末期から異筆説が唱えられています。


色々な説を紹介しましたが、実際のところ現在の学界では「源氏物語」の作者が紫式部であるということは、『紫式部日記』や『紫式部集』から、ほぼ確かなことと言われています。


■文体・文学性が一貫していない


それでは、どうしてこれほどまで多く異筆説が唱えられたのでしょうか。理由のひとつに、五十四帖のなかで文体・文学性が一貫していないという問題があります。「宇治十帖」の直前に置かれた三帖が、「雲隠」以前に比べると文学的に劣るという指摘は夙にされており、異筆説の論拠とされてきました。


文体の違いに関しては、各巻の頁数、和歌の使用度、文の長短、品詞別単語頻度などを統計学の手法を用いて分析した研究が存在します。その結果、控えめな論調ながら「宇治十帖は、他の四十四帖と、文体がやや異なっている」という結論が導き出されました(安本美典『現代の文体研究』1977年)。


■物語の中に「設定ミス」が数多くみられる


もうひとつは、構造上の齟齬(そご)の問題です。たとえば、夕霧は「竹河」で左大臣に昇進していますが、なぜか以降の巻では以前の官職である右大臣として登場しています。有名なものでは、光源氏の恋人である六条御息所の設定上のミスもあります。「賢木」で語られた彼女の経歴が、「桐壺」の記述と矛盾しているのです。


このように、「源氏物語」には設定上の齟齬が散見されます。こうした齟齬が、物語が複数の人々の手によって作られたのではないかという推測を呼びました。


古い時代、物語は第三者の手によって改訂され、流布されるのが当たり前でした。現在の我々が手にする「源氏物語」が、紫式部という独創的な作者の創作物であることは間違いありません。ただし、同時に多くの人々の思考のフィルターを通過した共同制作物であることも、また否定しがたいのです。


■「源氏物語」が二次創作だという説


問題をもう少し深掘りしながら、物語がどうやって作られたのかに迫ってみましょう。


「源氏物語」の第二巻「帚木」には、大きな謎が秘められています。それが「光源氏 名のみことごとしう」から始まる一節です。これは読者が光源氏の存在を知っていることを前提として書かれたものであると言われています。つまり、光源氏についての物語は既に存在しており、紫式部はこの題材を使って二次創作をした可能性があるというのです。


この指摘を行ったのが、『古寺巡礼』や『風土』などの著作で知られる哲学者・和辻哲郎でした。和辻は「『源氏物語』について」のなかで、現行の「源氏物語」には、先立つ「原源氏物語」が存在したことに加え、「帚木」が起筆であることを主張しています。


■「桐壺」は書き出しではないかもしれない


皆さんが古典の時間に習った「源氏物語」は、きっと「いづれの御時にか」の一節で有名な「桐壺」から始まったことでしょう。この「桐壺」が、後から書かれたというのですから驚きです。


『源氏物語 一帖 桐壺』、紙本墨画・彩色・金泥画、絹本表紙、日本製、17世紀中頃。全54帖の一部(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「源氏物語」は、現代の我々が読んでいる順番の通りに書かれたのではなく、後から挿入された部分や、完成後に順番が入れ替えられた部分があるのではないかという説があるのです。それゆえに、接続の悪い巻や、解釈の難しい「並びの巻」が生じたのではないかといいます。


実際に、公家の三条西家が伝える「源氏物語聞書」には、「桐壺」が後から挿入されたという「桐壺巻後記説」が記されています。江戸時代を代表する国学者・本居宣長も『源氏物語玉の小櫛』のなかで、やはり「桐壺」と続く「帚木」の接続の悪さを指摘しました。和辻以前の人々も、「源氏物語」が「桐壺」から書き始められたということに、疑問を抱いていたのです。


室町時代の注釈書『河海抄』には、石山寺に詣でた紫式部が湖水に映る月光にインスピレーションを受け、「須磨」を書き始めたという異説が記されています。ところが、五十四帖に及ぶ本作がどのような順番で書かれたのか、確かなことは分かっていないのです。


■学会を震撼させた驚きの新説


五里霧中にあった起筆論は、昭和に入ると大きく進展します。「花宴」までの巻を「若紫グループ」と「帚木グループ」に分け、後者をあとから挿入されたものとする阿部秋生の画期的な説が登場したのです。これに続いて、玉上琢彌は、「源氏物語」は当初短編として「帚木」の並びから起筆されたものだと説きます。合わせて、「帚木」の前には現存しない「かかやく日の宮」が存在したが、長編として仕立てられた際に欠巻となったという仮説を主張しました。


戦後になると、「藤裏葉」までを「紫の上系」と「玉鬘系」に分け、後者をあとから挿入されたものとする武田宗俊の説が登場し、学界に衝撃を与えます。武田は両系統に登場する人物を細やかに分析することで、紫の上系の人物は玉鬘系に登場するにもかかわらず、玉鬘系の人物が紫の上系に登場しないことを明らかにしました。つまり、紫の上系の執筆時に、玉鬘系の構想はなかったというのです。


■専門家の意見はいまだに割れている



源氏物語研究会=編『紫式部と源氏物語の謎』(プレジデント社)

武田の説を受けて、風巻景次郎は古注の分類による「並びの巻」を成立問題と結びつけました。玉鬘系の巻は、後記挿入された際に本系と区別するために「並びの巻」として扱われたというのです。風巻によると、ここに分類されない「帚木」と「玉鬘」は、もとは現存しない「かかやく日の宮」と「桜人」に対する「並びの巻」だったといいます。つまり、風巻の説は「並びの巻」が後記挿入されたことを積極的に主張するものでした。


こうした説は、学界に新たな論争を巻き起こしましたが、批判する説も相次いで主張され、以降「源氏物語」の成立をめぐる議論は、次第に沈静化していきました。何れの説も、推論の域を脱することができなかったのです。


ほかにも、それぞれ「若紫」や「宇治十帖」を起筆とする説があれば、順当に「桐壺」から書き始められたことを主張する説も存在します。果たして、真相はどこにあるのでしょう。専門家たちの意見は、いまだに割れています。


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北山 円香(きたやま・まどか)
ライター
1994年京都市生まれ。男性。一橋大学大学院社会学研究科修了。専門は日本近世村落史。ことに身分、系譜、由緒、差別など。ほか、文学、サブカルチャーを中心に執筆。おもな寄稿先は『歴史街道』、「文春オンライン」など。分担執筆した著書に『紫式部と源氏物語の謎』(プレジデント社)がある。
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(ライター 北山 円香)

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