「暴れん坊将軍」が悪人を成敗することは不可能だった…ドラマでは描かれない歴代将軍の不自由すぎる生活

2024年2月25日(日)9時15分 プレジデント社

名古屋グランパス対アルビレックス新潟。試合前に「マツケンサンバII」を歌う俳優の松平健さん=2023年8月5日、東京・国立競技場 - 写真=時事通信フォト

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徳川将軍家の居城であり江戸幕府の政治的拠点だった江戸城は、どんな城だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「常に厳重な警戒態勢下にあり、出入りするには幾重にも設置された門を通る必要があった。ドラマのように、将軍が市中で悪人を成敗することは不可能だった」という——。
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名古屋グランパス対アルビレックス新潟。試合前に「マツケンサンバII」を歌う俳優の松平健さん=2023年8月5日、東京・国立競技場 - 写真=時事通信フォト

■痛快を絵に描いたような番組「暴れん坊将軍」


昭和53年(1978)から平成14年(2002)までレギュラー放送されていたテレビドラマ『暴れん坊将軍』(テレビ朝日系)は、国民的時代劇と呼ぶに相応しい人気シリーズだ。現在もテレビ朝日やBS朝日、CSの時代劇チャンネルなどで再放送され、多くの視聴者に支持されている。


『暴れん坊将軍』の主役は、八代将軍・徳川吉宗。将軍は貧乏旗本の三男坊、徳田新之助を名乗って町に繰り出し、悪人たちの前で身分を明かして平伏させる。だが、彼らはたいてい開き直って歯向かうので、吉宗はみずから刀をとって大立ち回りを演じ、悪人たちを成敗する。


同じ国民的時代劇の『水戸黄門』では、悪人たちは印籠を観た時点でぐうの音も出なくなるのがパターンだが、『暴れん坊将軍』の場合、悪人たちは相手が将軍だと知っても抵抗する。しかし、吉宗には彼らを打ちのめす剣の腕がある。


一点の曇りもない勧善懲悪なのである。しかも、吉宗は絶対に負けないので、安心して見ていられる。痛快を絵に描いたような番組だといえよう。


■将軍が街に出るルートを検証する


では、将軍吉宗はドラマに描かれたように、忍びの姿で市井に繰り出したことがあったのだろうか。これについては大方の視聴者も、そんな史実はなかったと感じているのではないだろうか。


なにしろ、将軍が刀を振り回したりして万が一のことがあったら、幕府はたちまち危機を迎えかねない。番組では絶対にケガをせず、だから観ていて痛快なのだが、現実には大立ち回りを演じれば、ケガをするリスクは非常に高い。


さすがに刀は振り回さなくても、将軍が忍びの格好で市井に繰り出すことぐらい、たまにはあったのではないか——。そのように想像する向きもあると思うが、現実には、それは絶対に不可能だった。では、どう不可能であったのか、将軍が暮らしていた江戸城内の道のりをたどって確認してみよう。


まず、いま残っている江戸城を歩くことで、将軍が市井に出ることがどれだけ困難だったか、実感したい。


■「大手門→本丸御殿」の厳重すぎる警備


将軍は江戸城の本丸に建てられた本丸御殿に住んでいた。本丸御殿は、いまでいえば総理官邸と公邸、国会議事堂と中央官庁の一部、それに迎賓館なども兼ねた、徳川幕府のまさに中枢というべき建物だった。


それは約130棟から構成され、床面積は約1万坪。手前から幕府の中央政庁である「表」、将軍が起居して日常の政務に当たった「中奥」、将軍の正室や側室、子女のほか、奥女中らが暮らす「大奥」に分かれていた。


現在、江戸城の本丸、二の丸、三の丸の跡地は、皇居東御苑として一般に公開されているので、そこを本丸御殿をめざして進んでいこう。


東御苑に入る一番オーソドックスな入り口が、江戸城の正門だった大手門だ。将軍や勅使のほか、大藩の諸大名はここから城に出入りした。いまも警官が警備しているが、江戸時代には10万石以上の譜代大名が守衛に当たり、厳重に警備されていた。


江戸城 大手門(写真=江戸村のとくぞう/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

また、江戸城の多くの門は、ひとつの門が一の門と二の門の二つで構成され、大手門も同様であった。枡形といって、酒や米を軽量する枡のように四角い空間が設けられ、四角の2辺に門が設けられ、たいていは敵がまっすぐ侵入できないように、進路は鍵手に曲げられていた。


大手門の前は堀で、現在は土橋を渡るが、江戸時代には木橋が架かっていた。そして橋の手前両側には「下馬」と書かれた札が立っており、大名一行も門の手前の下馬所で馬からおりて橋を渡らなければならなかった。大名の供連れも、ここからは11〜13人しか許されなかった。余談だが、下馬所で供の者が主人を待ちながら噂話をしたことから、「下馬評」という言葉が生まれている。


■「かごの中の鳥」だった将軍


大手門を通り抜けて本丸方面に進むと、大手三の門の跡がある。この門の前にも、いまは埋め立てられているが堀があった。そして堀を渡る橋は、ここから先は徳川御三家と勅使を除き、諸大名も籠から降りなければならなかったので、下乗橋と呼ばれた。大名はここからは、従者をさらに少なくして、徒歩で登城しなければならなかった。


この門もやはり二つの門で構成され、そのあいだには、大名を監視するための検問所である同心番所があった(現在も建物が残っている)。


さて、大手三の門を抜けると二の丸だ。そこから東に進めば二の丸御殿があり、それを経由しても本丸に行けたが、すると行程も複雑なうえに、いくつもの門をくぐり抜けなければならない。それよりは最短距離をたどってみたい。


とはいえ、最短距離であるほど防御に抜かりはない。大手三の門を通り抜けたところには百人番所(現存する)があり、昼夜を問わず与力20人と同心100人が配置され、警備に当たっていた。


百人番所の前には、本丸の正門と位置づけられる中の門があった。この巨大な門を抜けると、本丸御殿に着く前の最後の検問所である大番所(これも現存する)がある。そして、その先には本丸御殿の正門にあたる中雀門(書院門)が、また二つの門で構成され、厳重に警備されていた。それを通り抜けて、ようやく本丸御殿に着くことができる。


「江戸図屏風」に描かれた江戸城本丸(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

だが、そこからは私邸のように自由が利くと思ったら大間違いだ。御殿の玄関を入った遠侍の間では、大番の番士が警戒にあたり、その先の虎の間でも、書院番の番士が見張っていた。そして老中や奉行らの詰所の脇には、将軍を直接警護する小姓番が控えていた。このように将軍は、文字通りに雁字搦めだったのである。


■現在の皇居の4倍の広さ


そもそも江戸城の広さを知れば、それを抜けるのが簡単でないと実感できるだろう。江戸城イコール皇居だと思っている人は多い。そして、皇居だけでも十分に広いが、宮内庁が管理する皇居の敷地面積は約115万平方メートルなのに対し、江戸城内郭全体は424万平方メートルにおよぶ。皇居の4倍近い広さだったのである。


ちなみに、『暴れん坊将軍』には姫路城の映像が江戸城として使われていた。姫路城もかなり規模が大きな城で、門もたくさんあるため、仮にそこを抜け出すとしてもかなりの困難がともなったはずだが、それでも内郭は23ヘクタールと、江戸城の十数分の1にすぎなかった。


このように江戸城は桁外れの規模だったので、門がなく警備が手薄だったとしても、広大な内郭を抜け出すのは容易ではなかった。しかも、その周囲には外堀で囲まれた外郭があり、外郭をふくめた江戸城の面積は、なんと2000ヘクタールを超えた。そして、外郭の外堀には少なくとも26の門が設けられ、それぞれが一の門と二の門からなる枡形門で、厳重に警備されていた。


江戸城の門と櫓の配置(外郭)(写真=Tateita/GFDL/Wikimedia Commons

■自由がない縛られた生活


『暴れん坊将軍』で徳田新之助が居候していた町火消し「め組」の在所は日本橋界隈と思われる。「新さん」こと吉宗は、そこを拠点にして江戸の町民と交流するが、江戸城本丸御殿から町人の居住区までは、絶対的な距離も離れているうえに、ここまで述べてきたように無数の関門がある。


本丸から外に出る道は、いま述べた以外にもあるが、数々の関門を超えなければ城外に出られない点では同じである。将軍が忍びの姿でそれらを突破できるようであれば、江戸城の安全性が保たれず、ひいては幕府の警護体制に不備があることになってしまう。


徳川光圀も諸国を漫遊したどころか、遠距離を移動した経験がほとんどなかった。水戸徳川家の当主は江戸に在留するのが基本で、光圀の場合、水戸のほかには日光、房総、金沢八景、鎌倉を除くと、若いころに熱海に行ったことがあるくらいだった。


江戸幕府の将軍は、あまり自由がない縛られた生活をしており、そこから逃れる余地もなかったのである。


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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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