安倍晴明は藤原兼家と組んで天皇を動かしたか…運命は星に支配されているとされた時代の巧みな人心掌握術

2024年2月25日(日)6時15分 プレジデント社

「不動利益縁起絵巻」に描かれた安倍晴明、南北朝時代(東京国立博物館蔵)(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)

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平安時代、安倍晴明は陰陽師として藤原摂関家や皇族の大いなる信頼を得ていた。晴明についての著作がある祭祀・呪術研究者の斎藤英喜さんは「晴明は巧みに道教や密教を採り入れ、延命長寿をもたらしてくれる冥府の神・泰山府君を祀って、貴族や朝廷から祭事を任された。信心深い当時の人にとって、星や運命を見る陰陽師はなくてはならない存在だった」という——。

※本稿は、斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』(角川新書)の一部を再編集したものです。


「不動利益縁起絵巻」に描かれた安倍晴明、南北朝時代(東京国立博物館蔵)(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム

■中国由来の「泰山府君」を延命長寿祈願のため祀った晴明


陰陽師ブームの真っ最中に公開された映画『陰陽師』(監督・滝田洋二郎、原作・夢枕漠)で、安倍晴明が「泰山府君(たいざんふくん)の法」を使って友人の源博雅を蘇生させるシーンは、野村萬斎演ずる晴明の華麗な舞姿とともに、多くの人びとの印象に残っているだろう。


もちろん、そのシーンはフィクションだが、晴明と「泰山府君」との関係は、三井寺の僧侶・智興のために泰山府君の祭りを執行したという有名なエピソードから知られるように深いものがあった。『今昔物語集』などの説話によれば、師の身代わりを申し出た弟子の証空をも、泰山府君が哀れんで師弟ともども命を延ばしてくれたという。「泰山府君」は、まさしく延命長寿をもたらしてくれる、冥府の神であったわけだ。


泰山府君のルーツは、中国の民間信仰にあった。山東の「泰山」は、古くから山岳信仰の聖地で、「五岳」の筆頭として東方の「東嶽泰山(とうがくたいざん)」とも呼ばれた。山上には、人間の寿命を支配し、それぞれの寿命を記した帳簿があると信じられた。その山に住むのが、泰山冥府の主宰者たる泰山府君である。ちなみに「府君」とは、漢代では郡を支配する太守の職名である。長寿、富貴、子孫繁栄、出世栄達などの現世利益の信仰の対象とされたようだ。


■道長の孫・一条天皇の時代に晴明が泰山府君祭を始めた


だがインドに発生した仏教が中国に伝わるにおよんで、仏教の地獄や閻魔(えんま)王、閻魔天の思想と交じり合い、泰山府君には、生前に行った善悪にたいする審判や刑罰などの執行者のイメージが付与されていった。ただし仏教(唐代密教)では、冥界の最高神ではなく、人間界の天子にあたる「閻魔王」、尚書令録(総理大臣)としての「泰山府君」、諸尚書(各大臣)の役割をもつ五道神といった、ランクづけがされている(中国文学者・澤田瑞穂氏による)。つまり泰山府君はトップではなかったのである。


そうした信仰が古代日本においては、「泰山府君」を中心におく独特な陰陽道祭祀(さいし)へと作り替えられていった。そのキーパーソンこそ、安倍晴明にほかならなかった。


平安史料のうえで最初に泰山府君祭が行われたのは、永祚(えいそ)元年(989)2月11日である。執行者は、いうまでもなく安倍晴明。その経緯を見てみよう。


■頭中将・藤原実資の日記に記された祭事のいきさつ


藤原実資の日記『小右記』によると、2月10日、円融(えんゆう)法皇のもとに実資が参ったところ、日ごろ一条天皇の夢見が良くないとの仰せなので、「尊勝御修法(そんしょうみしほ)」「焰魔天供(えんまてんく)」「代厄御祭(だいやくぎょさい)」の執行を奏上した。そして翌日の11日には、天台座主の尋禅による尊勝御修法(尊勝仏を本尊として、滅罪・除病などを目的に修す)は執行されたが、予定されていた焰魔天供、代厄御祭は行われず、その代わりに晴明による「泰山府君祭」が実修されたと記されている。


つまり晴明は、密教の焰魔天供、陰陽道の代厄御祭に代えて、あらたな泰山府君祭なるものを天皇のために行ったというわけだ。それは晴明による独自の祭祀法であったといえよう。とはいえ、泰山府君祭は、まったくゼロから作られたわけではない。そのもとになっているのは「七献上章祭(しちけんじょうしょうさい)」「本命祭(ほんみょうさい)」といった、道教系の祭祀である。


「一条天皇像」(部分)、江戸時代(画像=真正極楽寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

このように泰山府君祭は、その起源から考えても道教系の要素が強いのだが、これに密教系の焰魔天供を習合させたところにこそ、晴明の発明があったようだ。泰山府君祭は、密教修法、仏書の影響抜きにはありえないという(陰陽道研究家・小坂眞二氏による)。道教系だけではなく密教の教えをも取り込むことで、最強の泰山府君祭を作り出したのである。晴明が密教の「焰魔天供」に対抗するかたちで泰山府君祭を行った理由は、そこにあったのだろう。


■道教や密教の教えを取り込んで自分の地位を上げた


晴明は、この密教の教説から、直接的に除病、延命を願う相手は「泰山府君」にあることを見いだし、泰山府君そのものを主神とした「泰山府君祭」を一条天皇のために執行したのではないだろうか。延命祈願ならば、泰山府君そのものに直接コンタクトをとるほうが効果がある、という理屈である。そして泰山府君とのコンタクトを可能とするのは、密教僧ではなく「陰陽師」たる自分にあると、晴明は主張したのだろう。史料の背後にはこうした事情が読み取れるのである。


永祚元年の泰山府君祭の執行以降、晴明による祭祀実修の様子は、長保(ちょうほう)4年(1002)、藤原行成のために行った記録から見られる。


平安後期にあっては、陰陽師とともに密教の僧侶たちも競って「星祭り」を執行した。そしてその星祭りの目的は、ほとんど冥府、冥道の諸神への修法と同じものであったという(仏教史学者・速水侑氏による)。密教には「星曼荼羅(ほしまんだら)」も作られるのである。


■平安人は「運命は星に支配されている」と信じていた


それにしても、なぜ人の生死を司る泰山府君が星の信仰と結びつくのか。ここに見えてくるのは、個人の運命は「星」に支配されているという信仰だ。それは本命星とか属星という考え方である。人の生まれた干支(えと)を五曜星(火・水・木・金・土)に配して、その星が一生の善し悪しや寿命を司るとみなすものだ。


さらに古代中国の道教系の思想では、北斗七星が北極星とともに人の生命を司る司命星とされる信仰が生まれ、「本命星」を北斗七星のなかの星に配当する信仰もある。人は生まれ年の干支から北斗七星のいずれかの星に属しているとされるのである。その信仰は、陰陽道の基本図書とされた『五行大義』のなかにも定められている。以下のようになる。


出典=『陰陽師たちの日本史』(『万暦大成』より筆者作成)
貪狼(たんろう)星 子(ね)年
廉貞(れんてい)星 辰(たつ)・申(さる)年
巨門(きょもん)星 丑(うし)・亥(い)年
武曲(ぶきょく)星 巳(み)・未(ひつじ)年
禄存(ろくそん)星 寅(とら)・戌(いぬ)年
破軍(はぐん)星 午(うま)年
文曲(ぶんきょく)星 卯(う)・酉(とり)年

ここから人の生まれ年による「属星」という考え方が定まり、延命長寿のために、自分の属星を祈る北斗七星祭祀も生まれていったのである。


かくして泰山という山=冥府は、一気に宇宙空間へと上昇していく。人間の寿命、運命を支配している天体の星の世界と「泰山」とが重ねられていったのだ。干支による生まれ年の選定、そして天体の星の世界との結びつき。それは天と人との相関関係を前提とする陰陽道の思想にとって、もっともふさわしい世界観といえよう。


■運命の「星」を見る陰陽道が個人救済の宗教として成熟


もう一度いえば、平安時代前期までの陰陽寮の「天文」は国家の運命を占う国家占星術であったが、ここではそれに加えて個人の運命を司る「星」の姿が浮かび上がってくる。それもまた、陰陽道が個人救済の宗教として成熟していく過程といえよう。晴明が開発した泰山府君祭は、そこにリンクしていくわけだ。


そして晴明は若き時代、「天文生」として夜空を見上げ、星の動きをチェックする、まさに「星を観る人」“スターゲイザー”であった——。


写真=iStock.com/AlxeyPnferov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AlxeyPnferov

平成15年(2003)の夏の夜空は、ひときわ赤く輝く火星を見ることができた。火星と地球が5万7千年ぶりに最接近した年であったからだ。そしてその年の9月には、火星と月が並んで見える「ランデブー」の天体ショーが、多くの天文ファンを楽しませた。


けれども、1千年まえの安倍晴明にとっては、月と火星が並んで見える現象は、禍々しき火星=熒惑星(けいわくせい)が月を犯す、とてつもなく不吉な出来事であったのだ。1千年まえならば、それが何の予兆かを古代中国の占星術書にもとづいて占い、天皇に秘かに上奏しただろう。


■まがまがしい火星と月が並んで見える現象は不吉の前兆


「天文密奏」である。ちなみに熒惑星は「その国に兵乱が起こること、賊の害の起こること、疾病、人の死、飢餓、兵戦を支配する星」として恐れられたのである。実際、1千年まえ、晴明は、熒惑星の変異にたいしてその職務を執行している記録がある。永延1年(988)8月、安倍晴明が68歳のときだ。


その年の8月7日、熒惑星が軒轅(けんえん)女王星(しし座のアルファ星、光度1.3)と接近したために、天皇、皇后に「御慎み」のことあり、という奏上があった。ちなみに「軒轅女王星」とは、天文博士たちの基本図書の『晋書』天文志によれば「軒轅は黄帝の神であり、黄龍の本体である。皇后や后にかんすることをとりしきる官職である」(山田慶児訳『晋書』天文志)と定められている。その星を熒惑星が犯すのだ。とりわけ榮惑星が軒轅に入って動かないことは「天子、諸侯が忌みきらう」(『晋書』天文志)とされている。それゆえ、その災厄から逃れるために、天皇、皇后の「御慎み」となったわけだ。


ちなみにそれをリードしたのは、一条天皇の外祖父の摂政・藤原兼家である(兼家の娘の円融天皇の女御・詮子が一条天皇の母)。


■晴明は宮廷の祭事を行うときも藤原兼家に配慮していた


しかし、このときはただ「御慎み」ですまなかった。熒惑星の災厄から天皇の身を守るために「呪術」「祭祀」が執行されたのだ(ただしこのとき一条天皇はまだ9歳で、皇后はいない)。



斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』(角川新書)

そこで天台座主・尋禅に比叡山延暦寺の惣持院で「熾盛光御修法」を執行させた。「熾盛光仏(しじょうこうぶつ)」とは、仏の毛穴から燃え盛る光焰を発することにちなむ名前で、榮惑星の災厄にたいして「熾盛光御修法(しじょうこうみしほ)」を行うのは、いわば火星から発せられる邪悪なる光を、仏の聖なる光でガードしようという発想である。


一方、このとき安倍晴明は「熒惑星祭」の執行を具申して、その執行が決定された。密教儀礼と陰陽道儀礼を併行することで、よりガードを固めるという趣旨だろう。もちろん、どちらかの効験があればよい、というのも権力者側の判断だ。


しかしこのとき、なぜか晴明は、榮惑星祭を執行しなかった。そのために8月18日、晴明は「過状」(始末書)を提出させられている(『小右記』)。どういう理由で熒惑星祭をサボったのかは不明だが、あるいはこのときの行事が一条天皇の外祖父の兼家主導で行われたことへの政治的な配慮もあったのかもしれない。


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斎藤 英喜(さいとう・ひでき)
佛教大学歴史学部教授
1955年東京都生まれ。法政大学文学部卒業。日本大学大学院文学研究課博士課程満期退学。文学修士。専門は、宗教文化論・神話伝承学。『古事記はいかに読まれてきたか:〈神話〉の変容』(吉川弘文館)で古代歴史文化みえ賞を受賞。他の著書に『読み替えられた日本書紀』(角川選書)などがある。
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(佛教大学歴史学部教授 斎藤 英喜)

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