たったひとりで宅老所を作った男が、地域の困りごとと正面から向き合うことで、子ども支援や困窮者支援から認知症予防や介護までカバーする認定NPOに成長させたストーリー

2024年2月29日(木)15時18分 PR TIMES STORY

 ある日会社が倒産した。46歳の時だった。3人の子どもを抱えて路頭に迷った。

建設業界にいた私が福祉と出会い、利益主義から利他主義への思想転換、「思い」と「気づき」と「やっちまえ」で、職員200名 登録ボランティア50名の巨大NPOを作り上げたストーリー

会社が倒産した

 大学で土木を専攻した私は、卒業後建設会社に就職した。下水道、公園、駅前の再開発。次々に大きな仕事にたずさわりがむしゃらに働いた。まさに企業戦士「24時間戦えますか?」という言葉がCMに使われる。そんな時代だった。会社のために利益を上げる事が最優先。そんな環境に疑問を抱くこともなく、妻子を群馬に残し東京に単身赴任してひたすら働いていた。

 会社が倒産したのは、役員にまで上り詰めた矢先のことだった。役員だから雇用保険もなかった。

46歳。

一番下の子はまだ小学生だった。

  俺はどうしたらいいんだ・・・。

  俺がやってきたことは何だったんだ・・・

 

 群馬の自宅に戻ると、布団から出られなくなった。動けない。外に出るのが怖い。何もできない。どこにも居場所がない。そんな失意の日々が続いた。鬱状態。もちろん死も意識した。そんな日々が続いた。

 同業他社のオファーはすべて断っていた。建設業界に戻るつもりはなかった。

あれだけがむしゃらに働いてきた人生は何だったんだ・・・。

 何も残らなかった。利益を追求し、壊しては造る生活に嫌気がさしていた。

焦る日々

 何かしなければ・・・

 少し動けるようになると今度は焦る気持ちがわいてきた。家族の生活は妻が近所の子どもたちのために小さな塾を開いて支えてくれていた。

 俺も早く何かしなければ・・・。

 「何でもやります!」と手書きガリ版刷りのチラシを作った。紙を節約するために8等分した小さなチラシだった。そのチラシをもって住宅街や商店街をポスティングして歩いた。便利屋の開業だった。

 しかし、便利屋稼業は全くあたらなかった。焦りとむなしさだけがつのる日々だった。

転機が訪れた

 そんなある日、何気なくつけていたTVから流れ来た番組に釘付けになった。

老人の預かり所「宅老所」を紹介するドキュメンタリーだった。

  これだ!!

 根拠などない。ただ、これだ!と直感した。

 まだ老人ホームという言葉もない時代だった。本を買いあさり、先人を探して訪ねていき話をきかせてもらった。

 ある日、散歩の途中で、工場跡のちいさな建物が空き家になることをきいた。大家さんを口説いて口説いて貸してもらった。資金はない。修理は全部自分でおこない、何とか人が住めるところにした。

宅老所を開設する

 当時は何の制度もない時代、勝手に開業をした。重度・中度・軽度に区分分けをした料金表も自分で作った。老人の預かり、宿泊、訪問なんでもやりますとチラシをまいて利用者を募ると不思議なくらい集まった。町のあちこちに宅老所のニーズがあったのだ。

 毎日利用者さんとともに過ごし、毎晩8畳間に5人の利用者さんと一緒に布団を並べて雑魚寝した。昼間手伝ってくれる人がやって来ると束の間自宅に帰る。そんな日々が続いた。360日連続夜勤。壮絶な日々だった。

 認知症の人も多かった。夜中、寝ている顔に軟便がビチャっと塗りつけられたこともある。利用者さんと一緒に風呂に行き、シャワーを浴びながら涙が止まらなかった。

 毎日、毎晩、がむしゃらに頑張った。それでも毎月手元に残るのはたった8万円だった。けれども、私はうれしかった。鬱から抜け出し、生きていることを実感していた。ここで投げだしたらあの真っ暗な暮らしに戻ってしまう。あの思いには二度と戻りたくない。夢中で毎日を過ごしていた。

 介護を通して、人生の道標をすべて利用者さんが教えてくれた。魂をさらけ出して教えてくれた。ド素人の私にこの世界を教えてくれたのは、すべて利用者さんだった。正面から向き合って過ごしたこの時間だった。

介護保険制度開始 神の手が降りてきた

 そうして、460日が過ぎたとき朗報がやってきた。

奇跡が起きたと思った。介護保険ができたのだった。これまで、全部自費だったから、利用者さんからは多額の料金はもらえなかった。それでもケアを続けてきたが、3人の子どもを育てなければならない私には、苦しいのは確かだった。

 それが介護保険ができたことで解消された。

 生活は楽になった。けれども、これまでの利用者さんを断らざるを得ないことがたくさんあった。利用に制限が多く、制度に当てはまらない人もたくさんいたからだ。介護保険の枠から外れた人はどうすればいいのか。

 また悩む日々だった。なにか手立てはないか…


NPO法人としての活動開始 地域住民のつながりを作る

 そんな時にまたテレビから流れてきたものがヒントをくれた。

  「地域通貨」 これだ!

 地域を巻き込んだ地域通貨を作ろう。

 群馬は絹織物で栄えた地域である。地域通貨は「しるく」にしよう。どうしても絹織物で作りたい。近所に住む群馬県重要無形文化財保持者の方をたずねてひたすら口説いた。

 何度断られても通い続けた。とうとう相手が折れて染めてくれることになった。

 地域のさまざまな人を巻き込み、しるくという地域通貨をつかって、住民同士の助け合いの活動をはじめた。助け合いの気持ちを見える化することで、移動支援も含む小さな助け合いが地域に染み込んでいった。

 ごみすてや草むしり、ちょっとした日曜大工など、家族にちょっと頼みたくなるようなことを地域住民同士で行うのが助け合い活動である。

 できる人ができる事をほんの少しお手伝いする。我々が行うのはその橋渡しである。

 助け合い活動の中でも移動の支援をする福祉有償運送は、研修を受けたボランティア等が、タクシー等を利用するのが難しい高齢者などを自家用車で送迎するサービスである。登録してくれるボランティア確保のためにも、群馬県内で講習が受けられなくてはならない。そこで、仲間を募って運転者講習をする認可をとり、教習所を借りた運転者講習も始めた。

 このように地域の困りごとに向き合っていると、必要に迫られて次々に対応すべきことが見えてきた。そうして、前進を続けてきた25年だった。

そして 今につながる

 私がひとりではじめた宅老所は、認知症グループホームとなり、その後に制度化された小規模多機能型居宅介護となった。それぞれの必要性に応じて通いも泊りもでき、在宅時は職員が訪問するスタイルは、私が宅老所を始めたときに利用者のニーズに応えて作ったスタイルと同じだった。

 その後、医療依存度が高くても、住み慣れた場所で在宅療養を望む方の思いにこたえるための看護小規模多機能型居宅介護事業所と定期巡回随時対応型訪問介護看護事業所も開設し現在のじゃんけんぽんのフォーマル事業が形作られた。

 そして今年の春には、ようやく障がい者のグループホームもスタートさせられる。

 けれども、制度化されるということは枠組みが決まるということである。するとどうしてもそこに入りきらない隙間ができてくる。介護保険制度ができたとき、私は制度に守られることに安堵すると同時に、基準にあてはまらないという理由で、これまで一緒に過ごしてきた方の利用を断らざるを得ないという悔しい体験もしてきた。

 そうした隙間をカバーしているのが、じゃんけんぽんのインフォーマル事業である。

○地域で孤立しない、させないための誰でもいつでも立ち寄れるみんなの居場所「近隣大家族」の運営  ○お弁当の配食サービスによる食べる事への支援  ○福祉有償運送による移動困難者への移動支援  ○その他の小さな困りごとには地域の住民同士による助け合いの活動  ○子ども食堂や小中学校の体育着有効循環  ○困窮家庭の子どもたちへの学習支援  ○住宅確保要配慮者の住まい探しのお手伝いをする居住支援  〇農福連携の屋外型共生型居場所「つながる農園」  〇介護や移動支援の担い手を育成したり、地域住民の学びの場を提供する研修事業 

 認定NPO法人じゃんけんぽんでは、現在、インフォーマル事業としてこれらの活動を行っている。

 

 地域の困りごとに正面から向き合い、ひとつずつ解決策を模索しながら進んでいたら、たったひとりではじめた宅老所は、職員200人、登録ボランティア50人の巨大NPOになっていた。気づくと25年が経過していた。

 車に椅子とテーブルを積んであちこちの地域に出かける、移動型の居場所を作るのが目下私の夢である。居場所に来られない人たちのために、居場所を出前したいのだ。

 私も70歳を超え、年齢的にも引退を考えることがないわけではない。けれども、まだやりたいことが沸き上がってくるのも事実である。

 まだまだしばらくは地域の困りごとと向き合う日々を続けていく。


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