明智光秀は「恩知らずな歴史的悪者」ではない…カリスマ・織田信長が「本能寺の変」を防げなかった本当の理由

2025年3月1日(土)9時15分 プレジデント社

織田信長像(画像=名古屋市秀吉清正記念館/Google Arts & Culture/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

歴史からどんなことが学べるのか。国際日本文化研究センター助教の呉座勇一さんは「ビジネス雑誌などで『信長のリーダーシップに学ぶ』といった企画は多いが、企業経営者や管理職はむしろ、織田信長の人使いを反面教師とすべきだろう」という——。

※本稿は、呉座勇一『日本史 敗者の条件』(PHP新書)の一部を再編集したものです。


織田信長像(画像=名古屋市秀吉清正記念館/Google Arts & Culture/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

■ブラック企業としての織田家


織田信長の軍隊は、世間のイメージに反して寄り合い所帯であった。広範な地域の多様な武士を糾合して急速に勢力を拡大したからである。とはいえ織田信長の覇権が確立するにつれ、外様である現地武士は織田譜代家臣の下に編成されていき、混成部隊ではなく統率の取れた軍隊へと次第に成長していったはずである。だが問題は、その困難な仕事を担ったのは信長本人ではなく、明智光秀や羽柴秀吉ら「織田大名」だったことにある。信長は直臣である「織田大名」たちに丸投げしてしまうからだ。


天正8年8月、本願寺を降伏させた信長は、筆頭家老で本願寺攻めの最高責任者であった佐久間信盛を追放した。このとき信長は、信盛に送りほかの家臣たちにも公開した折檻状で、明智光秀・羽柴秀吉・柴田勝家らに比べて信盛の戦果が乏しいことを指摘し、その原因として、知行が増えても信盛が新たに家臣を召し抱えたり家臣に加増したりせず、軍事力強化に不熱心だったことを挙げている(『信長公記』)。


信盛に対する信長の非難を「裏返せば、信長が直臣の所領高の把握をせず、それにみあう軍役量を規定していなかったことに原因があるともいえる。そうした規定があれば、信盛もそれに応じた家臣を抱えたはずである」と池上裕子氏は読み解いた(『織田信長』)。正鵠を射たものだろう。


藤本正行氏も「武田家や北条家は軍役に関して細かい規定を定め、家臣たちに発給したのに対し、織田家ではドンブリ勘定で軍勢を集めたのだろうか」と訝しんでいる(『本能寺の変』)。そもそも信長は、検地によって家臣たちの知行を正確に把握しようとしていないので、知行高に対応した軍役を決定することなど不可能だっただろう。


■成果主義が織田軍の強さを生み出していたが…


何万石の知行なら何人の家臣を抱えよという客観的な基準がなく、軍功は信長の主観で事後的に評価される。最低限のノルマが示されていない以上、光秀ら重臣は限界以上の大軍を動員して、ライバルの重臣たちに見劣りしない成果を必死で出すしかない。この極端な成果主義、競争を煽る仕組みが織田軍の強さを生み出していた。


けれども、そのような際限ない軍役負担を課せられた「織田大名」の家臣たちは不満を鬱積させていき、また領国も確実に疲弊するが、家臣団編成や領国経営の結果責任はすべて光秀ら「織田大名」に帰せられる。信長の判断一つで、彼らはたちどころに失脚するかもしれないのだ。「織田大名」の信長への信頼と感謝、そして畏怖だけが、この体制を担保していた。


光秀の謀叛ばかりが注目されるが、光秀が決起する以前に信長に反旗を翻した者は多い。浅井長政、松永久秀、別所長治、荒木村重らである。とくに松永久秀と荒木村重に関しては、明智光秀と謀叛の理由が類似する。無制限の奉仕を要求する織田家のブラック企業的体質に対して、我慢の限界に達したと考えられるのだ。


信長の極度に軍事に偏重した政治体制は、即効性があり短期的には極めて有効ではあるが、早晩行き詰まることは目に見えていた。光秀の謀叛がなかったとしても、信長の覇業はどこかで破綻していたであろう。


■なぜ明智光秀は謀叛を起こしたのか


さて、明智光秀が謀叛を起こした背景は何か。近年の歴史学界では、織田信長の四国政策の転換が大きく影響したという見解が有力である。四国政策転換説の概要を説明しよう。


出所=『日本史 敗者の条件』(PHP新書)

天正3年(1575)、信長は土佐の長宗我部元親に対し、四国を「手柄次第に切り取」ることを認めた。信長に敵対する四国の三好一族を牽制するための措置である。この際、光秀は長宗我部氏の取次(担当外交官、信長と元親の仲介役)に任命された。


ところが同年、三好康長が一族を裏切り、信長に降伏して河内半国守護に任命された。その後、信長は長宗我部元親と三好康長を両天秤にかけるようになったが、長宗我部氏の急速な勢力拡大に脅威を感じ、次第に康長の肩をもつようになった。


天正9年(1581)2月、三好康長が信長の許可を得て阿波に入国し、勝瑞城を占拠した。康長は阿波北半国を制圧し、讃岐東部にも進出した。これを受けて信長は、長宗我部元親に対し土佐と阿波南半国の領有のみを認め、伊予・讃岐を返還するよう命じた。


■長宗我部元親は激怒し、信長と断交


長宗我部元親は信長の約束違反に激怒し、「四国は私が実力で征服した地であり、信長殿からいただいたものではないので、返す理由はない」と反発した(『元親記』)。信長と元親の対立を懸念した光秀は、家老である斎藤利三の兄で元親の義兄である石谷頼辰(斎藤家から石谷光政の養子になった)を元親のもとに派遣したが(天正10年〈1582〉正月11日斎藤利三書状、「石谷家文書」)、元親は説得に応じなかった。


そして天正10年5月、信長が新たな四国分割案を示した。すなわち、讃岐を織田信孝(信長の三男、信長の命令で康長の養子に)、阿波を三好康長に与え、伊予・土佐の帰属は追って決定する、というものであった(天正10年5月7日織田信孝宛て織田信長朱印状、「寺尾菊子氏所蔵文書」)。長宗我部氏の処遇についてはまったく言及されていない。信長の四国分割案は事実上、織田信孝を総司令官として長宗我部氏を攻め滅ぼすことを意味していた。


■関係悪化以降、大きな任務は与えられなかった


ここで光秀の立場を整理しておこう。信長と長宗我部元親が断交したことで、取次だった光秀は面目を失うことになった。光秀が信長の信頼を回復するには、四国攻めの司令官になって長宗我部氏を屈服させるしかない。


これはあり得ないことではない。長年、毛利氏の取次を務めていた羽柴秀吉は、織田氏と毛利氏が断交すると毛利氏討伐の司令官になっている。織田家中において最も毛利氏に関する情報と人脈をもっていたのが秀吉だったからである。光秀が四国攻めを担当することは十分にあり得たのである。


しかし前述のとおり、信長は天正10年5月、三男信孝を四国攻めの司令官に任命した。随行するのも丹羽長秀であり、明智光秀は四国攻めから排除された。おそらく信長は明智氏と長宗我部氏との親密な関係を問題視し、光秀に任せると手を抜く可能性があると判断したのだろう。


織田氏と長宗我部氏の関係が悪化した天正10年以降、光秀に大きな任務は与えられていない。天正10年2月から3月の武田攻めに従軍するものの、先鋒の織田信忠軍が武田氏を滅ぼしてしまい、戦功を立てることはできなかった。


その後も徳川家康の饗応、羽柴秀吉の援護など、脇役に甘んじた。かくして前途を悲観していた明智光秀が、千載一遇の好機が訪れたために謀叛に踏みきった、というのが、四国政策転換説である。


本能寺 本堂(写真=+−/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

■部下の不満に気づかない信長


以上に示したように、明智光秀が織田信長に反逆したのは、信長の改革路線に反発したからではなく、たんに左遷、冷遇されたという人事的な不満であった。部下を使い捨てにする信長の性格を考慮すると、佐久間信盛がそうであったように、光秀も最終的には領地没収・追放という末路をたどる恐れがあった。


しかし、信長は人の上に立つ者として、致命的な欠陥をもっていた。目下の人間が自分に対して抱く不満に気づかず、引き立ててやった自分に感謝しているに違いないと思い込んでしまうのである。



呉座勇一『日本史 敗者の条件』(PHP新書)

妹のお市の方を嫁がせた浅井長政が裏切ったという情報が入ったとき、信長は「お市を嫁がせて、北近江の支配を任せているのに、不満があるはずがない」と言って、信じようとしなかった。ところが続報が入り、長政の裏切りが確実とわかると、信長は慌てて逃げたのである(『信長公記』)。


松永久秀・荒木村重が謀叛を起こしたときも、使者を派遣して「何が不満なのか。望みがあるなら申すが良い」と説得しようとしている(『信長公記』)。自分が抜擢・重用した人間が自分に不満をもっていたことが、信長には理解できなかった。


けれども、信長は抜擢した人間をとことんまで使い倒し、用済みとなれば左遷・追放・粛清する。これでは取り立てられた人間であっても、不満をもつのは当然である。


ビジネス雑誌などでは「信長のリーダーシップに学ぶ」といった企画は多いが、企業経営者や管理職はむしろ、信長の人使いを反面教師とすべきだろう。


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呉座 勇一(ござ・ゆういち)
国際日本文化研究センター助教、信州大学特任助教
1980年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)(東京大学)。著書『応仁の乱戦国時代を生んだ大乱』がベストセラーとなる。『戦争の日本中世史—「下剋上」は本当にあったのか—』で角川財団学芸賞を受賞。主な著書に『一揆の原理日本中世の一揆から現代のSNSまで』『頼朝と義時武家政権の誕生』『動乱の日本戦国史桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』『日本史敗者の条件』などがある。
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(国際日本文化研究センター助教、信州大学特任助教 呉座 勇一)

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