真っ裸で両手両足を縛り吊るし、殴打…吉原からの逃亡に失敗した遊女が受けた「つりつり」という苛烈な制裁
2025年3月2日(日)8時15分 プレジデント社
吉原遊郭娼家之図(出所=「国立国会図書館デジタルコレクション」より、加工して作成)
吉原遊郭娼家之図(出所=「国立国会図書館デジタルコレクション」より、加工して作成)
■女が女を責め、時には命を奪うことも
お茶をひく状態(客がなく暇でいること)が続いている遊女、仮病を使って怠けていると思われた遊女、上客の機嫌をそこねて逃がしてしまった遊女、さらには楼主や遣手の言いつけを守らず不平不満を漏らす遊女などは折檻(せっかん)を受けた。
折檻をするのは楼主の女房や遣手である。女が女を責めたといえよう。
ただし、妓楼にとって遊女は商品である。顔や体を傷つけ、商品価値をさげるような折檻はまれで、遊女に辱めをあたえる処罰が多かった。
だが、楼主や女房、遣手の人柄に拠るところも大きい。『世事見聞録』(文化13年)は、折檻のすさまじさをこう記している——。
鬼の如き形勢にて打擲(ちょうちゃく)するなり。その上にも尋常に参らざる時は、その過怠(かたい)としてあるいは数日食を断ち、雪隠(せっちん)そのほか不浄もの掃除を致させ、または丸裸になして縛り、水を浴びせるなり。水湿(しめ)る時は苧縄(おなわ)縮みて苦しみ泣き叫ぶなり。折々責め殺す事あるなり。
殴りつけるほか、絶食や便所掃除などの罰をあたえた。真っ裸にして苧縄(麻縄)で縛り、水を浴びせると、水で湿った苧縄が収縮して体をキリキリと締め付け、その苦痛に泣き叫ぶ。
時には、折檻が過ぎて殺してしまうこともあった。
■タブーを犯した遊女は「つりつり」
心中未遂や逃亡をこころみた場合の折檻は苛烈だった。
『世事見聞録』は、こう記している——。
この時の仕置は別して強勢なる事にて、あるいは竹箆(たけべら)にて絶え入るまでに打ち擲(たた)き、または丸裸になし、口には轡(くつわ)のごとく手拭いを食(は)ませ、支体を四つ手に縛り上げ、梁(はり)へ釣り揚げ打つ事なり。これをつりつりと唱(とな)うるなり。
真っ裸にして、口には猿轡(さるぐつわ)をかませ、両手両足を縛って梁からつるし、殴りつける「つりつり」という折檻もあった。
この「つりつり」のときは女房や遣手ではなく、楼主みずからがおこなったという。
■金を盗んだ遊女は折檻後に「転売」された
鞍替えとは遊女が妓楼を代わることだが、たいていの場合、転落していく。
表通りの妓楼から河岸見世、あるいは吉原から岡場所や宿場の女郎屋という具合である。鞍替えのときも、きちんと証文を取り交わした。
戯作『新宿晒落梅ノ帰咲』(文政10年)に、内所(ないしょ)の二十両を盗んだという疑いを受けた遊女の話がある——。
楼主は遊女の髪の毛をつかんでねじ伏せ、煙管(きせる)でさんざんに殴りつけた。そ後、蔵のなかに放り込み、食事もろくにあたえなかった。
遊女が頑(がん)として盗みを認めなかったため、楼主は内藤新宿の女郎屋に鞍替えさせた。
つまり、宿場女郎に転売したのである。
■珍しく遊女の法要がおこなわれたワケ
文化7年(1810)10月末、浅草の慶印寺で、死亡した吉原の中万字屋抱え遊女の法要がおこなわれた。
普通、遊女が死亡した場合、死体を菰に包んで三ノ輪の浄閑寺に運ぶ。浄閑寺の墓地の穴に、文字通り投げ込んで終わりだった。
中万字屋の遊女は異例だったが、これにはわけがあった。
『街談文々集要』や『半日閑話』に拠ると、くだんの遊女は病気で体の調子が悪いと言って、部屋に引きこもっていた。
楼主の女房が怒り、きびしい折檻を加えた。
「仮病を使って怠けるんじゃないよ」
その後、薄暗い行灯部屋に放り込んで、ろくに食事もあたえなかった。
空腹に耐えかねた遊女はこっそり客の食べ残しを集め、小鍋で煮て食べようとした。
これを見た女房は激怒し、遊女を柱に縛りつけ、小鍋を首からつるした。ほかの遊女や奉公人への見せしめとしたのである。衰弱と飢えで、遊女は柱に縛られたまま死んだ。
その後、中万字屋に、首に小鍋をかけた遊女の幽霊が出るという噂が広まった。そこで、中万字屋はあわてて、死んだ遊女の法要をおこなったのだという。
■女社会を円滑に保つ「吉原ルール」
伝統と格式を誇る吉原には独特の遊びのルールがあった。客はいったん登楼して遊女を買うと、その妓楼のほかの遊女を買うことはできなかった。
新吉原衣紋坂日本堤(出所=「国立国会図書館デジタルコレクション」より、加工して作成)
客の側に選択の自由がないわけで、商売のやり方としては傲慢ともいえる。しかし、この背景には妓楼の事情があった。
遊女は妓楼のなかで生活している。いわば職住接近だった。しかも、花魁—新造—禿—という序列になっていた。客の取り合いをして花魁同士が反目すると、たちまちグループ同士の対立に発展した。
ただでさえ遊女のあいだには感情的な摩擦が生じやすい。客がからめば人間関係のこじれはややこしくなる。同一妓楼内の別な遊女を買えないというルールを作ることで、客をめぐる無用な摩擦を避けたのである。
しかし、どんな厳格なルールがあっても、男と女のあいだではなにがおこっても不思議ではない。
『笑本当嬋狂』には、朋輩の遊女が自分の客と情交しているところに、遊女が乗り込んできた場面が描かれている。面子をつぶされた遊女は、
「やい、ここな助平女。人の男をよう間女(まおんな)しやったの」
と、その怒りは浮気な客ではなく、朋輩の遊女に向けている。
■「不実」な客は総動員でお仕置き
金を払う客の立場からすれば、どの妓楼で遊ぼうと自分の勝手のはずだが、吉原ではそれが許されなかった。そんな客は「不実」として、仕置きを受けた。これを「倡家(しょうか)の法式」という。倡家は娼家で、妓楼のこと。
倡家の法式によると、いったんある妓楼の遊女と馴染みになると、客はほかの妓楼に登楼することはできない。もしそのようなことがあれば、これまでの馴染みの遊女からあたらしい遊女に「つけことわり」の手紙を送った。要するに、登楼を断われという要請である。
ところが、なおも客が登楼しているのがわかると、振袖新造を動員して仲の町や大門のあたりで待ち伏せし、帰途につく客を大勢で寄ってたかって捕まえ、強引に妓楼の二階に連れ込んだ。そして、みなで取りかこんで髪を切ったり、顔に墨を塗ったりして、さんざんに笑い者にした。しかも、長時間にわたって水も食事も煙草もあたえない。
ついに客も降参して、遣手や若い者に頼んで引手茶屋を呼んでもらい詫びを入れた。
引手茶屋の仲介で盃を交わし、遊女や遣手、若い者に祝儀をあたえたうえで、客はようやく帰宅を許された。
■あまりの理不尽さに江戸幕府が動いた
倡家の法式は客からすれば理不尽な仕打ちとしかいいようがないが、遊女の意地の張り合いもあり、横行していた。妓楼間の対抗意識もあろう。
『古今吉原大全』(明和5年)もこう述べている——。
女郎、客をつけ、とらえ、或<あるい>は髪をきる等の事を法式とす。
しかし、さすがに目に余るものがあったようで、幕府は寛政7年(1795)の通達『新吉原町定書』で、「不法之儀」として、そういう風習をやめるよう命じた。妓楼もこれに従ったようだ。
戯作『竅学問』(享和2年)で、不実な客の髪を切ったり、坊主にしたりする制裁について、
「わっちらがとこじやァ、そんな事をいたしいすは法度(はっと)でおざりいす」
と、遊女が述べる。たとえ遊女がいきり立っても、妓楼は客に制裁を加えることを禁止していたのだ。
倡家の法式は寛政、享和、文化、文政と時代がくだるにつれ、有名無実になっていった。
すでに岡場所や宿場の女郎屋が競争相手として台頭し、男たちはそちらに移りつつあった。もはや倡家の法式をふりかざしていたら客が去る時代になったからだった。
■路上で4、5日晒し者にする「桶伏せ」
金がないまま登楼した客への制裁として、桶伏(おけぶ)せがあった。
こらしめのために往来で、四角な窓をあけた大きな桶をかぶせて閉じ込め、晒(さら)し者にする。実家の誰かが金を届けにくるまでは、4日も5日も外に出さない。その間、食事だけはあたえたが、夜具などは差し入れず、大小便もその場でさせるという残酷なものだった。
だが、実際に桶伏せがおこなわれたのはごく初期のころである。その後は、付馬(つきうま)や始末屋が処理するようになった。
■登楼禁止の情男が忍び込んだ結果…
引手茶屋への未払いがたまった客や、遊女と心中しそうな気配のある客に対して、妓楼は二階にあがることをことわった。つまり、登楼を拒否した。これを、客の側からは、「二階を止められる」といった。
永井義男『図説 吉原事典』(朝日文庫)
若い者や遣手が目を光らせているので、二階を止められたら客はもう遊女に会うことはできない。手ぬぐいで頬被りをして顔を隠し、張見世に出ている遊女にそっと会いにくるしかなかった。
こうした仲を裂かれた男女の愁嘆場は戯作などに描かれている。
戯作『錦之裏』(寛政3年)に、二階を止められた情男(いろ)がひそかに忍び込み、花魁の部屋にかくまわれていたが、発覚する場面がある——。
花魁と情男がささやいているところへ、不意に遣手が現われて屛風を引きあけた。
「様子は残らず見届けた。わたしが顔を踏みつけて、なんで役儀(やくぎ)が立つものぞ。この通り内所へゆき、旦那さんに申しんす。これ、若い衆や、この男めを引きずり出したがよいわいの」
遣手の声を聞きつけ、数人の若い者が駆けつけるや、情男を袋叩きにした。
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永井 義男(ながい・よしお)
小説家
1949年生まれ、97年に『算学奇人伝』で第六回開高健賞を受賞。本格的な作家活動に入る。江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原、はては剣術まで豊富な歴史知識と独自の着想で人気を博し、時代小説にかぎらず、さまざまな分野で活躍中。
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(小説家 永井 義男)