信長でも秀吉でも伊達政宗でもない…最も積極的に海外交易を進め「日本人初の太平洋横断」を実現させた武将
2025年3月12日(水)17時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/imaginima
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■内向きと思われている家康の本当の姿
織田信長と豊臣秀吉は、海外との交易に積極的だったが、徳川家康は内向きだった——と思っている人が多い。たしかに徳川は鎖国のイメージが強いが、家康の存命中は違った。それどころか、二百数十年後に開国するまでの日本史上で、海外との交流がもっとも盛んな時代だった。
秀吉の朝鮮出兵の後始末はひとつの契機だった。家康の指揮で半島からの撤兵を終えると、関ケ原合戦の前年の慶長4年(1599)には、対馬の宗義智(そう・よしとし)に朝鮮との講和交渉を命じている。
数百人の捕虜の送還を経て、慶長9年(1604)に非公式の使者として惟政(ユ・ジョン)らが訪日。翌年、伏見城で家康と面会した。慶長12年(1607)には「回答兼刷還使」が江戸で将軍秀忠と、駿府で大御所家康と面会し、翌々年には日朝講和が成立。200年にわたって続く朝鮮通信使外交がはじまった。
明国との関係修復にも熱心で、修好回復を熱望した。国交関係は結べなかったが、明国商人の入港は認め、事実上の通商関係は復活した。また、慶長14年(1609)の島津義久による琉球征服を歓迎し、琉球経由でも民国との接触も試みている。
■主な渡航先は「中国」でも「朝鮮」でもない
家康に特徴的なのは、東南アジア諸国との通交に積極的だったことだ。慶長6年(1601)以降、安南(ベトナム北西部)、交址(ベトナム南部)、占城(ベトナム中部沿岸地方)、暹羅(タイ)、柬埔寨(カンボジア)、大泥(マレー半島)などに親書を送り、外交関係を結んでいる。
写真=iStock.com/hippostudio
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こうして朱印船貿易が盛んになった。家康が朱印を押捺した渡航許可証をもたせて船主の身元を保証し、通交の安全を保障する貿易である。朱印状発給を通じて、家康は外交と貿易をすっかり掌握することになった。
その点への笠谷和比古氏の指摘が興味深い。関ケ原合戦後に大名を配置する際、家康は口頭で伝えただけで朱印状を一切発給していないのに、貿易船にはどんどん発給した。
笠谷氏は、「対内的には秀頼と豊臣家の存在と権威とが、家康の朱印状発給を阻んでいたからであった。それゆえに家康にとっての外交問題は、一面ではこの対内問題での桎梏(しっこく)を克服して、徳川主導の国制を確立するための方途であったと理解することができる」としている(『徳川家康』ミネルヴァ書房)。
将軍職を譲った秀忠のほか、豊臣家にも朝廷にも遠慮が要らない家康の専権事項が外交だったのである。慶長7年(1602)以降、家康が元和2年(1616)に没するまで15年足らずで、206隻が朱印状を得て海外に渡航し、渡航先の8割ほどは東南アジアだった。
■関ケ原直前に行っていたリクルート活動
もちろんヨーロッパとの通交にも積極的だった。慶長5年(1600)4月、豊後(大分県)にオランダ船のリーフデ号が漂着すると、大坂にいた家康は、関ケ原合戦直前にもかかわらず乗組員を大坂城に呼んで尋問した。そしてイギリス人舵手のウィリアム・アダムスやオランダ人のヤン・ヨーステンを、自身の外交顧問にしている。
これがポルトガル、スペインのカトリック国のほかに、オランダ、イギリスという新教国が日本と交易する契機になった。慶長10年(1605)にはリーフデ号の乗組員が、家康の朱印状をオランダ東インド会社の提督に渡した。これを受け、慶長14年(1609)には同社の船がはじめて日本に来航。日蘭貿易がはじまった。
続いて慶長18年(1613)には、イギリス東インド会社も使者を遣わし、アダムスの仲介で家康を訪ね、通商を求める国王の書簡を手渡している。
新教国の登場に、ポルトガルとスペインは警戒感をむき出しにした。フィリピンのスペイン人総督は家康に書簡を送り、オランダ人は危害を加えるから付き合わないように伝え、イエズス会も、オランダ人やイギリス人は海賊だから処刑するように求めた。
だが、家康は「オランダ人には保護を約束したから追放できない」と答え、偏りのない全方位外交を展開したのである。
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
■スペインとの交易に前のめりだった理由
ヨーロッパ諸国では、一足先に日本と通交していたポルトガルとの関係には大きな変化はなかったが、スペイン船の誘致には家康は前のめりだった。当時、スペインはマニラを拠点に、植民地ノビスパン(メキシコ)のアカプルコとの航路を開拓していた。この太平洋航路に家康は期待したのである。
当時の交易は西日本で行われ、ヨーロッパの船もアジア諸国の船も、基本的に九州に入港した。瀬戸内海航路で堺まではきても、そこから先の太平洋沿岸には航路がなかった。徳川の本拠は江戸なので、貿易をするうえで決定的に不利だった。
だから家康は、不利を前提に対策を講じた。朱印船貿易は出航も帰航も長崎と定められていたが、それは西日本で行うしかない貿易を、家康が掌握するためだった。だが、貿易船が関東に入港すれば、もはや不利ではない。じつは家康は慶長3年(1598)以降、マニラに何度も使者を送り、スペイン人が江戸湾の浦賀に来航するよう求めていたのである。
積極性はキリスト教への対応を見てもわかる。家康は慶長7年(1602)には、フィリピン総督宛ての親書で布教禁止を通知していた。ところが慶長14年(1609)、マニラ臨時総督の任を終えたロドリゴ・デ・ビベロの船が座礁し、上総(千葉県中央部)に漂着すると、家康はビベロを保護しつつ、貿易ルートの確立にさらに前のめりになる。
家康と謁見したビベロは、スペインとの友好関係の構築、オランダ人の追放、宣教師の保護という3つの要求を提示し、家康はオランダ人の追放以外、宣教師の保護もふくめて受け入れている。
■日本人初の太平洋横断者
その後、ビベロはウィリアム・アダムスが建造した洋式帆船を提供され、田中勝介らが同行してノビスパンに帰国した。じつは、これが日本人初の太平洋横断で、勝海舟よりも250年も前のことだった。翌慶長16年(1611)、セバスティアン・ビスカイノら返礼の使者が田中らを乗せて日本に派遣された。だが、通商の合意には至らなかった。
その理由は、一つはスペインとオランダの関係にあり、もう一つはキリスト教問題にあったと考えられる。
オランダはスペインの属国だったが、弾圧された末に独立戦争を起こし、1581年、スペインの宗主権否定を宣言した。だからスペインへの積年の恨みは大きかった。スペインもまた、1602年に東インド会社を設立して勢力を拡大するオランダに、アジアの貿易利権を奪われそうで、強く警戒していた。
家康が全方位外交を心がけても、この2国との交易を両立させるのは無理といってよかった。
スペイン側は日本の港湾の測量を求め、家康は許可したが、これにウィリアム・アダムスやオランダ人たちが猛反対したのである。「スペイン人は日本を侵略する艦隊を入港させるために、港湾の水深を測っているのだ」と。
■「スペインが攻めてきても恐れる必要はない」
アダムスらの警告は、スペインへの警戒感を増幅させるための政治的な発言だが、嘘八百ともいえなかった。実際、ビベロは、平川新『戦国日本と大航海時代』(中公新書)によれば、「この地(日本)に欠けている唯一のことは陛下(スペイン国王)をその国王としていないことだ」と記していた。
ただし、同時に「武力による侵入は困難だ。なぜなら、住民多数にして、城郭も堅固だからである」と。だからキリスト教化を進め日本人の精神世界を掌握する、というのがビブロのねらいだった。
「ビブロは日本を“Imperios”『帝国』や“Emperedor”『皇帝』と表現している。わが母国スペインの君主ですら“Rey”『国王』であり“Reino”『王国』であるのに対して、日本に対しては、それより格上の“Emperedor”『皇帝』であり、皇帝が統べる国としての“Imperios”『帝国』と表現していたのである」(前掲書)
将軍徳川家康の前のウィリアム・アダムス(編集=William Dalton/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
戦国時代に全国で猛烈な軍拡競争が繰り広げられ、それに打ち勝った秀吉、家康が軍事力を集中させた結果、当時の日本は世界屈指の軍事大国だった。ビブロには、家康は軍事的侵略など不可能な大国の「皇帝」に見えていたのである。
家康も同じ認識で、アダムスらがスペイン人の測量に警鐘を鳴らした際、「測量を許さずに臆病だと思われるのは心外であり、スペインが国をあげて攻めてきても十分に国を守ることができるので恐れる必要はない、いまは貿易が大事である」と答えたという。
■日本人の残念な気質をつくった鎖国政策
だが、慶長17年(1612)の岡本大八事件(本多正純の与力でキリシタンの岡本大八が、キリシタン大名の有馬晴信を偽って収賄した事件)などを経て、家康はカトリック布教への不信感を募らせ、布教と一体の貿易を主張するスペインとの通商は進展しなかった。
しかし、それはオランダとイギリスという代替があればこそで、家康が貿易を縮小させようとしたのではなかった。
河原慶賀・作。望遠鏡を持ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと日本人妻楠本おたきと赤ん坊の娘楠本イネが、出島に入港するオランダ帆船を眺めている絵(編集=MIT 文化を視覚化する/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
ただ、家康外交に鎖国への萌芽が見えないわけではない。家康は大名の独自外交を嫌い、外交権を一元的に掌握しようとした。事例のひとつが前述の朱印船貿易である。航路の関係で交易は西国で行うしかないが、そこには豊臣恩顧の有力大名がひしめく。だから、彼らが貿易で力を蓄えないように統制したかった。慶長14年(1609)の大船禁止令も、大名の独自外交への牽制だった。
それでも家康は、外交と貿易に積極的だったが、家康の死後、秀忠や家光は脅威を廃除したいという意識ばかりを募らせ、外交も貿易も縮小させ、徹底管理する方向に進んだ。キリシタンの脅威。西国大名の脅威。そこから幕府を守るために行われたのが、200年を超える鎖国政策である。
近年の教科書では「鎖国」に括弧がつけられている。現実には諸外国との外交や貿易はあった、というのだが、そんな見方をすると歴史の大局を見失う。家康が「十分に国を守ることができる」と豪語した日本は、鎖国とともに失われ、幕末に訪日した諸外国の前で無様な姿を見せた。結果、いびつな欧米追随に走り、さまざまなひずみを生むことになった。
歴史に「もしも」はないとはいえ、家康の外交姿勢が守られれば、日本はその後も欧米に後れを取らずに済んだのに、と思わざるをえない。もう一つ思うのは、もし徳川政権の拠点が関西なら、外交や貿易を遠隔操作せずに済み、鎖国は避けられたかもしれない、ということである。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)