2階にも漂った異臭の元は布団上に山盛りの…12月深夜にそれをいじった老母の後始末に追われた娘の胸の内

2025年3月15日(土)10時16分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/xijian

アルツハイマー型認知症の母親は当初、デイケア施設へ行くのを拒んだが、習慣化すると施設を「会社」と呼んだ。外資系IT企業で要職にある娘は、在宅介護と重責の仕事の両立をしようと必死の日々を送ったが……。両親を亡くした今、本人の胸に去来するものとは——。(後編/全2回)
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前編のあらすじ】関東地方在住の山車依子さん(仮名・60代)は一人っ子として育った。遊び人の父親は家庭を顧みず、母親は父方の家業の靴屋の切り盛りで忙しく、家ではほとんど祖母と二人きり。


10歳の時に父親の不倫とそのせいで作った借金が原因で両親が離婚し、母親と2人で暮らした。離婚から約2年後、母親は再婚。継父を含めた3人で暮らし始めたが、山車さんが高2の時に継父と合わなくなり、実の父親の家へ。


20歳で社会人になり、26歳の時に結婚したが、夫の自分本位な言動に絶望し、33歳で離婚。その後、38歳で再婚すると、40歳で母親と暮らすため一戸建てを購入し、呼び寄せた当時79歳の母親の様子がどうもおかしい。心の片隅で認知症を疑ったが、認めたくない気持ちが強かった——。


■認めたくない現実


関東地方在住の山車依子さん(仮名・60代)に、認知症の傾向がみられるようになった母親(79歳)を病院に連れていくように勧めてくれたのは、介護職に就いていた叔母(母親の妹)だった。


叔母は久しぶりに母親と会ったところ、母親の様子が「以前と違う」と言う。病院を受診すると、アルツハイマー型認知症と診断。要介護認定を受けると、要介護1と認定された。


山車さん夫婦は共働きで日中家におらず、たびたび出張や旅行で家を空ける機会が多かった。そのため、週2回のデイケアやショートステイを利用し始める。


「診断や認定を受けたことで、それまで母の奇妙な行動を『性格だよ』と言い張っていた夫もようやく思い込みを認め、母の生活には周囲の協力が必要だと多少は対策を考えるようになりました。しかし私たちは、母の言動が割としっかりしていたこともあり、十分な配慮や勉強を怠りました」


母親の足がふらついているのに、「歩かないと弱ってしまうから」と一人で近くのスーパーに行かせたり、立ち上がるときに手を貸さなかったり。「訓練すれば症状は進まない」「甘やかすとどんどんできないことが増える」と言い、母親の日常生活の負担をあえて放置。


「母はもともと甘えたがりの性質でしたが、ただ甘えているのと本当に助けが必要な時は見極められたはずです。私は日々の忙しさにかまけて、母の衰えにまっすぐ向き合おうとしなかったのです。夫も、『認知症だからと甘えさせてしまうと、どんどん進んでしまうから普通に接したい』と言っていて、時に夫が母をキツく叱りすぎている時でも、母を庇ってあげられませんでした。できていたことができなくなり、『どうしてやっちゃったんだろう』と戸惑いを口に出すことがあったにもかかわらず、責めてしまっていました。それがどんなに母を苦しめていたことかと思うと、自分がしてきたことながら悔やまれます」


山車さん夫婦が厳しく接すれば接するほど、母親は自ら活動することを嫌うようになっていく。自分の部屋にこもりがちになり、そのせいで認知症の症状を進めてしまった。


「母が自分で自分のことをできなくなりつつあることを、私自身が認めたくない気持ちもありました。おそらく、母が認知症を発症してから数年あったはずです。もっと早く病院を受診していれば、もっと母を理解していれば、母はもう少し元気でいられたかもしれません」


■ショートステイ先での転倒


母親は当初デイケアに行くことに難色を示したものの、何度か通ううちに「会社」と呼ぶように。デイケアに通うことに対して「日課」としての満足を感じるようになっていったようだ。


そして2016年3月。山車さん夫婦は再び沖縄旅行を計画。85歳の母親は、今回は参加せず、ショートステイを利用することにした。


「母の通っていたデイは、母のような身体機能の低下もありつつ、認知症の症状もある高齢者の扱いに慣れていました。だから併設のショートステイも慣れているだろうと信頼し切っていたのです。実際はデイとショートは担当者がまったく別なので、利用の際はもう少し時間をかけて母の様子を話したり、先方の説明を聞いたりすればよかったと思います」


ショートステイ中、母親は夜中に自分でトイレに行こうとし、転倒。それでも自分で起き上がり、トイレを済ませてベッドに戻り、眠った。しかし翌朝、ショートステイのスタッフに「手首が痛い」と訴えたため、念のため病院へ。手首のついでに頭部のレントゲンを撮ったところ、意識混濁が始まり、緊急で脳外科に回されると、硬膜下出血が判明。すぐに大学病院へ移されることに。


写真=iStock.com/eugenekeebler
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沖縄にいた山車さんは、病院からの連絡を受け、電話で手術の同意をすると、飛行機に飛び乗る。


空港から病院へ向かうと、母親は緊急手術を受けた後だった。


「外傷性硬膜下出血は、外傷から数時間経って症状が出ることがあるそうです。本来なら、夜中の転倒時にすぐ職員さんに知らせればいいところを、母は黙って朝まで眠っていました。もし血種の広がりが早ければ、夜のうちに逝ってしまっていたと思われます。慣れない環境での夜のトイレは危険度が高いです。心配ならブザーで職員さんを呼んで付き添ってもらえばいいのに……と思っても『ブザーを押す』という行為が理解できなかったのです。今になって思うのですが、夜中の見回りの際に、ついでにトイレに連れて行ってもらえるよう私がお願いしていれば、転倒は避けられたかもしれません」


母親は経過が順調だったため、5月にはリハビリ病院に転院。9月にはリハビリも終わり、自宅での介護が始まった。


■在宅介護と重責の仕事の両立


外資系IT企業で役職に就いていた山車さんは、朝起きて自分の身支度をしてから母親を起こして身支度をさせ、母親と朝食。8時半にデイケアのお迎えが来るため、送り出してから出勤。夜は遅くなることもあるため、夕食とデイケアからのお迎えはヘルパーに依頼した。


ところが、自宅に戻ってから一週間後の検査で、硬膜下血腫の再発が発覚。母親は再び手術を受け、入院となる。


幸い、今回は1回目の手術より小規模だったため2週間ほどで退院すると、リハビリ病院を経由せず自宅に戻った。本格的な在宅介護と、重責の仕事の両立の日々が始まったのは、ここからだった。


ヘルパーさんに、母親に宅配弁当を食べさせてもらっていると、18時頃、山車さんより先に夫が帰ってくる。帰宅すると夫は夕食の支度をする。


20時頃山車さんが帰宅すると、山車さんと夫は夕食。母親も一緒に食卓につく。その後リビングでテレビを見て、入浴はデイケアで済ませているため、21時〜22時頃母親は就寝。山車さんは1時頃には床についた。


「在宅介護が始まったばかりの一週間は、心配なので母の隣で寝ていました。その後は自室で就寝するようになりましたが、ショートでの転倒以降、夜中のトイレが心配なので、必ず2回は起きて母をトイレに連れて行きました」


休日は夫婦で交互に外出し、どちらかが母親を見守るように努めた。そんな平日の夕方、18時までのヘルパーさんが帰ったあと、事件が起きた。


ヘルパーさんが帰った後、山車さんの夫がすぐに帰宅すればいいが、多少遅くなる時もある。夫が帰宅した時、いつもいるはずの母親がいない。すぐに夫が家の周辺を探すと、すぐ近くの物陰で、母親がうずくまっているのを発見した。


この事件を受けて、山車さんはデイケアのスタッフやヘルパーに相談し、夫の帰りが遅い時は、母親の部屋に外から鍵をかけてから帰ってもらうようにした。


また、基本母親は、付き添いがあれば自分の足でトイレに行き、自分で用を足すことができたが、どうしても尿もれをしてしまうため、リハパンを履き始めた。そして12月の平日のある晩、また事件が起きた。


23時頃、母親のトイレのために山車さんが1階に下りていくと、階段の途中から異臭がした。母親の部屋の戸を開けると、母親の布団の上には大量の大便があり、異臭の原因が判明。母親はリハパンを脱ぎ、ビリビリにちぎり、大便をいじっていたため、母親の手の届く範囲はそこかしこに汚れがついている。


山車さんは母親の汚れた手をとり、浴室へ連れて行き、シャワーを出しながら母親の服を脱がせ、体を洗ってやった。キレイになった母親はバスタオルでくるみ、冷えないようにガウンなども羽織らせながら、2階にいる夫に引き渡す。


そのまま山車さんは母親の部屋に行き、汚れた寝具を浴室で手洗いし、その後洗濯機にかける。その間に母親の部屋の汚れがついている部分を拭き、消毒をした。時計を見ると、夜中の2時を回っていた。


「正直その作業はとても苦痛でした。でも私はずっと頭の中で、その頃よく聞いていた『My foolish heart』という素敵なジャズ曲を歌っていました。おそらく自衛本能が働いて、逃避をしていたんだと思います。おかげで私は終始パニックにもならず、母に一言も声を荒らげず、全てを済ませることができました」


夫の元で毛布に包まれた母親は、「ごめんね、ごめんね。どうしてこんなことしたんだろう」とべそをかいていた。いつもは口うるさく注意する夫も、母親を一言も怒らず、「心配ないから」となだめていた。


「私は自己逃避をしながらも、こういうことが今後繰り返し起きていくんだなあ……とぼんやり考えていました。平日の夜ですから、翌日は朝から仕事です。在宅介護が始まってからというもの、睡眠不足が続き、仕事中の集中力が低下していました。仕事を辞めて母のそばにいるという選択肢もありましたが、経済状況や、介護が終了した後の自分に何も残らないと思い、私は仕事を続けることを選びました」


■母親の死


2017年1月。硬膜下血腫をまたまた発症。大学病院で3度目の手術を受け、入院し、リハビリ病院へ転院した。


前回入ったリハビリ病院に入れず、別の病院に決まったが、山車さんは対応の違いに驚いた。


担当医師は30代くらいの女性医師だったが、最初にこう言われ、面食らった。


「お母様は硬膜下血種のほか、体力も低下し、肺も少し白く、赤血球が異常に多いです。血液異常に関しては、当人とご家族の意思で骨髄穿刺(せんし)(骨髄から細胞や骨髄液を採取する)検査をしていらっしゃらないので詳しいことはわかりませんが、高齢ですし、必ず自宅復帰がかなうわけではありません。また、認知症がわかってからすでに5年ほど経過しています。認知症になられた方は大体発症から10年ほどで亡くなられることがわかっています。入院中に亡くなることもあり得るとお考えください」


「前回のリハビリ病院では、自宅復帰を前提とした入院でしたので、この言葉はショックでした。大学病院の手術としては、最初の手術よりかなり小規模で転院も早かったので、今回はむしろリハビリの期間も短くて済むだろうと思っていたのです」


写真=iStock.com/AdrianHancu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AdrianHancu

その病院の対応は、以前と比べて納得いかないことが多かった。食事は介助もなく、壁に向かって1人でさせる。母親は糖尿病や高血圧などを患っていないのに、栄養食品や好物の差し入れは禁止。極め付きは、4月だというのに、病室内で春コートが脱げないほど寒かった。


案の定、母親は風邪をひき、肺炎を発症。再び大学病院へ戻された。


「その時私は、嫌な病院から戻れて『これで母は元気になる』と信じていました。でも、今思うとそのリハビリ病院の医師は、母の命が長くないことを見透かしていたのかなと思います。甘え上手な母は、大学病院ではとても大事にされていましたから、私は安心して、現実を見なかったのです。今、当時の母の写真を見ると、なんでこの状態で生きているのだろうと不思議なほど痩せていました」


2017年5月。主治医が不在のGW中、母親が昏睡状態に陥った。面会に行った山車さんは、「家族を呼んだほうがいいですか」とその日の担当医師に質問。


医師は、「バイタルが安定しているので、数日の間にどうかなるということはないです」と答えた。だがその翌日、母親は亡くなった(86歳)。大学病院に戻って3週間後のことだった。


■父親の死


一方、自らの浮気と借金が原因で母親と離婚した父親は60代後半から何度か脳梗塞になり、定期的に通院していた。運良く後遺症はほとんどなかったが、その後も肺がんや前立腺がんになり、常に病院通いが必要だった。75歳くらいの頃に足元がふらつくようになり、脳梗塞の再発かと思われ検査したところ、78歳の時にパーキンソン病と診断。80歳で内縁関係の女性を亡くした父親と山車さんは、付かず離れずの付き合いを続けていた。


2016年12月。85歳の父親が通院先の病院へ行こうとしていたところ、交差点で転倒。通りすがりの人が救急車を呼ぶと、搬送先の病院で頸椎を骨折していることがわかり、手術・入院となる。


ところが、その翌日に誤嚥性肺炎になり、CTU(中央集中治療室)に入ることに。病院から、


「気管切開と人工呼吸器で呼吸を保たなければすぐに亡くなります」


という連絡を受けた山車さんは、気管切開と人工呼吸器を承諾。


「前日まで、あくまでも頸椎骨折の治療だということで、普通に会話や飲食もできた状態でした。延命治療は避けたかったですが、突然死のリスクに直面し、やむなく承諾しました。ただ、回復すれば外せる可能性があるという説明もありましたが、いつ逝ってもおかしくない状況でした」


写真=iStock.com/PongMoji
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そのさなかの2017年1月に、母親も入院。山車さんは、仕事の帰りに毎日、交互に面会に行った。


すると奇跡的に父親の病状が改善し、4月にリハビリ・長期療養型病院に転院。その1カ月後の5月に母親が死去した。


父親は自宅復帰を目指してリハビリを行っていたが、9月に入ると医師から「現状以上は望めない」と告げられた。


「父は頸椎骨折以来、ベッドの上で寝たきりでした。手足は動くものの、寝返りも一人ではできませんでしたし、車いすに乗るのも介護士さんの力をお借りしていました。さらに気管切開で声が出せず、食品や水分の経口摂取も一切できません。ビールが飲みたい、コーラが飲みたい、アイスが食べたい……。その思いは一年以上遂げられないまま旅立ちました」


あの2016年12月の転倒以降、リハビリ病院に転院はできたものの、1年以上病院から出られずに父親は亡くなった。2018年2月のことだった。


「母の死はしばらく父には伏せていて、母の死から3カ月後、父の容体が落ち着いた頃に告げました。父はしばし考え込んだ後、筆談ボードに『穏やかに逝ってくれた。俺は後4年生きる』と書きました。私を励ますためだと思います。父とは幼少期から距離があり、成人してからも父の放蕩に手を焼いていたので、私はずっと心を閉ざしてきました。それが、父の入院をきっかけにわだかまりが解消しました。ICUで虫の息だった父に、筆談で『パパ大好きだよ』と書くと、父は『あいしている』と書いてくれました。それで何十年も続いたすべての壁が取り払われました。面会時には手や足のマッサージ、指を動かすリハビリ、病院のリハビリの付き添いなど続けていました。父のそばにいられたこの期間に感謝しています」


■後悔しない介護


「介護の最中は夢中で、すべてが新しい経験だったので、苦しいとか悲しいとか考えている暇がありませんでした。でも、仕事で重職に就いていたため、自分が一緒にいられないことの不安は大きかったです。夫が協力的だったこと、ヘルパーさんやデイケアとも連携できていたことは幸いでした」


幼少期に両親と過ごした時間が少なかった山車さんにとって、介護期間は両親と自分の結びつきを再認識する貴重な時間となった。


「私には子どもがいないので、母がまるで自分の子どものように甘えたり頼ったりしてくれるのが嬉しかったです。尽くしたら尽くした分だけ何かが良くなる気がしていました。両親とも、まだまだ一緒の時間が過ごせる思っていたので、『看取る』という悲壮感がないままお別れになってしまいました」


仕事で多忙だった山車さんは「高齢になった母親といつか同居しよう」とは考えていたが、介護に対する備えはしていなかった。そのため、目の前でさまざまな事象が起こってから、慌てて対処する形をとっている。介護への備えがなかったことが「まだまだ一緒の時間が過ごせる」「『看取る』という悲壮感が無いままお別れ」という言葉に表れている。そして備えがなかったことにより、現在も悲しみや寂しさ、後悔に苛まれている。


「私は17歳から父方祖母を介護し、24歳で看取りました。祖母は認知症がありましたが、体の不自由はなかったため、お世話が必要なのは食事のサポートとポータブルトイレの始末くらいでした。しかし祖母の死後、祖母の孤独や老いの恐怖を思いやることなく、ぞんざいに扱っていたことを激しく後悔しました。33歳の時に『悪性リンパ腫』と言われたときは『お祖母ちゃんに冷たくしたバチがあたったんだ』と思いました。だから両親に対しては、同じ過ちを繰り返したくないと切に願ったのです」


写真=iStock.com/brazzo
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備えができていなかったとはいえ、その時に自分ができる限りのことを丁寧に対処してきた山車さん。だが、両親を看取った今だからこそ、してあげられなかったことに気づいていく。


人間誰しも、未来はわからない上、心が乱されている状態では、本来の力を発揮することは難しい。しかし全てが終わった後ならば、冷静に「あの時はこうすればよかった」「あれもやり残してしまった」と振り返ることができる。


「両親にしてあげられなかったことは山ほどあります。特に、仕事を辞めて、もっと両親に寄り添っていたら…と何度も思いました。でも両親は、私が後悔することを望んではいないと思うので、後悔し始めたらストップをかけるようにしています」


筆者は親の介護のために子どもが仕事を辞めるべきではないと考えている。重職に就いていた山車さんは能力の高い人に違いないが、仕事で多忙な中、親の介護のことまで完璧にこなすのは、スーパーマンでない限り難しい。スーパーマンでない私たちがだから親の介護で少しでも後悔を少なくしたいなら、介護が始まる前からの備えをすることが大切だ。やらねばならないことが一気に押し寄せてくれば平常心でいられなくなり、やり残しが出る。ならば、平常心でいられるうちに、少しずつ備えていくしかない。


母親を亡くして8年、父親を亡くして7年経つが、山車さんは今も時々、両親が登場する夢を見るという。後悔する気持ちにストップをかけるため、自分の介護を冷静に振り返り、本当はどうすべきだったかを考えている。そして自分のように後悔をする人が1人でも少なくなればと、自分の経験をブログに綴り、親の介護に備えることの大切さを発信している。


その活動の中で、親の介護を現在進行形でしている人や親との死別に苦しむ人と、苦労や悲嘆を共有することができ、山車さん自身が前を向いて生きていく原動力となっている。


「後悔と罪悪感のスパイラルから救ってくれる唯一の方法は『繰り返さない』こと。そして、同じ過ちをたどる人が少しでも減るよう経験を分かち合うことではないかと考えています。まだまだ完全に悲しみは癒えませんが、両親にもらった大切な命をまっとうすることが一番の親孝行だと思いますので、愛する両親、それぞれと一緒に過ごした幸せの時間に感謝しながら生きようと思います」


後悔しないためにもっとも重要なのは「納得のプロセス」だ。起きたことだけではなく、これから起こることを複数予想してシミュレーションを繰り返し、自分が納得する選択肢をとっていく。それが大切な人を介護する上で、未来の自分を守るために最も大切なことだ。


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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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