リー・クアンユー政権下のシンガポールを急成長させた「儒教資本主義」は、なぜ「縁故資本主義」に変質したのか?

2025年3月11日(火)4時0分 JBpress

『論語』に学ぶ日本の経営者は少なくない。一方、これまで欧米では儒教の価値観が時代遅れとされ、資本主義やグローバル化には合わないと考えられてきた。だが最近になって、その評価が変わりつつある。本連載では、米国人ジャーナリストが多角的に「孔子像」に迫る『孔子復活 東アジアの経済成長と儒教』(マイケル・シューマン著/漆嶋稔訳/日経BP)から、内容の一部を抜粋・再編集。ビジネスの観点から、東アジアの経済成長と儒教の関係をひもとく。

 今回は、シンガポールの経済発展を支えた「儒教資本主義」が一転、「縁故資本主義」の汚名を着せられるに至った背景を明らかにする。


孔子の政策的処方に従ったシンガポール

 東アジアの経済的成功に関する文化的説明の最も積極的な支持者の1人は、当時のシンガポール首相リー・クアンユーだ。彼は半世紀にもわたり、同国の政治に多大なる影響を及ぼしてきた。彼の目から見れば、アジアの経済的奇跡は儒教的価値観が他の社会を大きく凌駕した勝利の凱歌(がいか)と言えた。1994年、彼は取材で次のように答えている。

「学問、知識、勤勉、倹約、『今日の五十より明日の百』の精神を重視しない文化であれば、(経済成長は)低迷するばかりだ。アジアの奇跡を単純に評価する人は、人間は皆平等であり、世界の人はすべて同じという楽観的前提に基づいている。だが、現実はそうではない。それどころか、様々な人間集団は何千年も個別に発展する間に、互いに異なる特質を発現するようになった。このような問題の研究が偏見を助長するという理由で問題を適当に扱うなら、自らが成長できる機会を失ってしまう28

 後に、この首相は「アジア的価値観」として知られる説の有力な唱道者となった。1923年、リーは父親が外資企業に勤務する家庭に生まれ、大英帝国自慢の人間だった。青年になるまで「ハリー」と呼ばれ、ケンブリッジ大学で法律学を学び、西洋の社会民主主義運動に強い影響を受ける。

 1959年、シンガポールの初代首相に就任後、30年にわたってその座を維持した。政策決定の特質は論理的現実主義とされた。だが、シンガポールの驚異的な成功は儒教的価値観のおかげ、と彼は直接的な表現で認めた。1987年には次のように説明している。

28 Fareed Zakaria, “A Conversation with Lee Kuan Yew,” Foreign Aff airs, March/April, 1994.

「30年以上にわたり、シンガポールの成功を支え続けてきた原動力の1つは個人よりも社会の幸福を大切に考えている多数の人々の存在であり、これが儒教徒の基本的な考え方だ29

 リーはシンガポールの経済政策に儒教の考えを取り入れた。実際、同国の経済モデルは儒教に基づいて構築されている。偉大なる聖人が提唱したように、この初代首相は開発計画を策定する際、儒教的家族を頼りにした。高齢者、貧困者、失業者その他の社会的に不遇な人たちの世話は、国ではなく家族に委ねられた。

 その結果、福祉支出は最低限に抑えられ、乏しい財源が教育やインフラなど高度成長の基盤となる事業への投資に回されることになった。ヨーロッパ型の福祉プログラムによって政府予算が圧迫されることもなく、リーは孔子の政策処方に従って低税率を維持することができた。

 経済学者のハビブラ・カーンは2001年の世界銀行の調査で、シンガポールが政府の福祉政策における「儒教モデル」を発見したと主張した。このモデルは、世界中の政治家が社会サービスにかかる負担を軽減するのに役立つだろう30

 リー・クアンユーは、政府補助金の代わりにチャンスを提供した。政治経済学者には、シンガポール政府は「開発主義国家」として知られる。その最優先課題は、雇用を創出して可及的速やかに所得を引き上げ、孔子が説く善き政府の第一責任である人々の安寧の確保を果たすことだ。

 そのため、米国の政治家よりも大胆な政府の施策に頼った。省庁の1つである経済開発庁は、海外からの投資を積極的に誘致するために設立された。彼とそのチームは起業家精神を発揮し、国営企業を設立した。1989年、シンガポールのタン・チーファット教授(経営学)は、こう語る。

「これは政府に依存する典型的な儒教的考え方であり、シンガポールの経済発展に向けて広く行われている。強力かつ公平で先見性に富んだ政府が明確な方向性を示し、的確な選択肢や優先順位を選び、政策を断固として実施しなければ、これほど驚異的な経済成長を達成することはなかった31

 政策は主に現代版君子(役人)の考えをもとに運営される。有能な人間は与党(人民行動党)と文官官僚制度の両方が育成し、その資質は入念に吟味される。その結果、極めて優秀な専門家的指導層が誕生した。

 リー・クアンユーはその立場を踏まえ、典型的な儒教の流儀として政府の役人全員が従うべき適切な行動規範を定めるべきだと考え、こう説いた。

「第一に、模範を示す必要があった。清廉であるだけでなく、倹約的かつ効率的に行動した。出張費も切り詰め、政府費用を削減した。おかげで、極めて質素な政府運営が可能となった。無駄をなくし、贅沢な接待もせず、大きなオフィスも用意しない。我々が方向性を打ち出し、模範を示したことで、彼ら(役人)も従ってくれた」

29 Barbara Crossette, “Western Infl uence Worries Singapore Chief,” New York Times, January 4, 1987.
30 Habibullah Khan, “Social Policy in Singapore: A Confucius Model?” World Bank, 2001, 20.
31 Tan Chwee Huat, “Confucianism and Nation Building in Singapore,” International Journal of Social Economics16, no. 8(1989): 9.


縁故資本主義への変質?

 しかし、儒教資本主義の支持者は本質的にマックス・ウェーバーと同じ過ちを犯す。従来、社会科学者は西欧の成功とアジアの低迷を考察し、西洋的価値観はアジア的価値観より優れていると考えた。だが、リー・クアンユーらはその考え方を覆した。東アジアが成功を収めたことで、アジア的価値観が西洋的価値観に比べて優位に立っているという結論に社会科学者は達する。

 ウェーバーやマクファーカーらは、過去200年間におけるアジアの世界における地位の浮沈を理解しようとした。答えを追い求めるなかで、アジアの成功を巡る出来事の基礎には孔子の存在があると認める。

 興味深いのは、孔子の評価が時代ごとに大きく異なっていることだ。東アジアでは孔子の影響力が支配的かつ日常生活の一部になっているため、どの時代でも毀誉褒貶(きよほうへん)から逃れられない。

 1910年代の孔子は旧時代の封建主義者の象徴とされたが、1970年代には積極的な資本主義者の象徴に変わった。自分の経験に基づいて演技をする偉大な俳優のように、孔子も脚本に応じた演技をこなせる。舞台化粧は相当厚く施されるから、孔子本人かどうかは見分けがつかない。

 1990年代に東アジア経済が予期せぬ低迷を迎えたとき、経済の魔術師としての孔子の評判も低下したのは驚くことではない。

 まず、日本の不動産と株式市場の巨大なバブルが崩壊し、日本の上昇気流がストップした。そして1997年、金融危機が韓国を揺るがし、誇り高き小龍はIMFによる恥ずかしい救済措置を受け入れざるを得なくなった。儒教的価値観が優れた経済モデルを生み出したという考え方は信用を失い、経済学者たちは再び、現代の資本主義における孔子の価値を問い始めた。

 多くの批評家から見れば、儒教資本主義が東アジアに圧倒的な強みを与えたと思われた状況は悩みの種になる。儒教資本主義の中核となる人間関係である家族内の関係、君子(役人)と経営者の関係などが、いまや問題の震源地と見なされる。

 日本や韓国では役人、銀行、経営者間の関係が親密であることから、健全な信用リスク分析よりも長年の個人的関係に基づいて銀行は懇意な企業に資金を注ぎ込んできた。

 儒教的ヒエラルキーの下では、従順な部下、役員、株主から反対されることはなかったため、選択や投資に関する大臣や社長の決定は問題含みのことがあり、時には、それが誇大妄想と思われることもあった。こうして、儒教資本主義は「縁故資本主義(クローニーキャピタリズム)」に堕落し、個人的関係が経済的合理性を損なう腐敗した徒党に成り果てた。

<連載ラインアップ>
■第1回 ユニクロ柳井正氏や『人を動かす』のD・カーネギー氏も注目 なぜ東アジアの経営者は孔子の教えを重視するのか?
■第2回 「儒教は資本主義に不利」の定説を覆した日本と「アジアの四小龍」 孔子の教えは、いかに起業家精神を引き出したか
■第3回 リー・クアンユー政権下のシンガポールを急成長させた「儒教資本主義」は、なぜ「縁故資本主義」に変質したのか?(本稿)
■第4回 なぜ大韓航空機墜落事故が起きたのも孔子のせいと考えるのか? 儒教的資本主義を頭ごなしに否定すべきでない理由
■第5回 レノボ創業者の柳傳志は、なぜ中国人にCEOを任せるのか? 米国人社長の手法が中国企業には馴染まないと判断した理由(3月25日公開)

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筆者:マイケル・シューマン,漆嶋 稔

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