そもそもなぜお墓は必要なのか…時間もお金もなく「墓じまい」に悩む人が見落としている"一番大切なこと"

2025年3月19日(水)17時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/hachiware

先祖が眠る墓を処分しようとする人が増えている。福厳寺住職の大愚元勝さんは「お墓とは、先祖が遺族を守っている場所であり、先祖とつながる場所だ。『墓をどうするか』と悩む前に、考えるべきことがある」という——。
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■「墓じまいしたい人」が7割もいる


2024年6月、株式会社AlbaLinkは、20代以上の男女500人を対象に「墓じまいに関する意識調査」を実施し、そのデータをランキングにした。


その調査結果によれば、「墓じまいをしたいと思っているか」という問いに対して「とても思う」「やや思う」と答えた人の合計は70.8%で、大多数が墓じまい賛成派だった。


では、墓じまい賛成派の理由は何だろうか。


1位は、「維持管理・墓参りが大変」
2位は、「後継者がいない」
3位は、「子どもに負担をかけたくない」


その他は、「維持費がかかる」や「実家や親族と関わりたくない」など、故人との関係が良好でなかった場合や、法要に際して親族や地域、お寺と関わることに、面倒や嫌悪を感じている人の声もあったという。


石原慎太郎氏も望んだ「散骨」が人気


一方「墓じまいをしたくない」と回答した人もいた。


1位は、「しばらくは維持管理できる」
2位は、「先祖代々の墓だから」
3位は、「心の拠り所として残したい」


その他は、「墓じまいが大変そう」「家族・先祖の気持ちを大切にしたい」が多かった。


「亡くなった祖父母・親に思いをはせたり、自分のルーツについて考えたりする機会になる」といった意見もあった。故人への思い入れが強いほど、お墓のもつ意味は大きくなるのだろう。


さらにこの調査では、自分が死んだときに希望する葬送の方法を聞いている。


結果の1位は、「散骨」
2位は、「先祖代々・家族の墓に入る」
3位は、「樹木葬」


1位の「散骨」は、石原慎太郎さんをはじめとする有名人の影響からか、このところ山海への散骨希望者が急増、その他、「納骨堂」や「遺族に任せる」といった意見もあったという。


■沖縄のお墓は驚くほど大きい


話は変わるが、私は毎月のように研修や講演のために各地を訪れる。このところ沖縄方面からお呼びがかかることが多く、2024年末から今年の2月までに、沖縄本島と石垣島に3度訪れた。


沖縄といえば、温暖な気候、美しい海やグルメが魅力だ。しかし、それ以上に私が沖縄で楽しみにしていることが2つある。


それは、「のんびり」「温厚」な沖縄の人々と会えること、そして沖縄の「お墓」を訪れることだ。


昨今のコンパクトでオシャレな内地(本州)のお墓と比べると、沖縄のお墓は驚くほど大きい。


写真=時事通信フォト
1996年2月5日、沖縄の墓地(沖縄) - 写真=時事通信フォト

■数千人が眠る「古墳」のようなお墓も


沖縄のお墓が大きい理由が3つある。


1つは「風葬」。昔の沖縄では、遺体の周りを石で囲って風化させ、遺体が骨化したら、遺骨を洗浄して骨壷に入れて石室に納骨するのが慣わしだった。だからそれだけの広さが必要だったのだ。


2つ目の理由は、門中墓が作られていたこと。沖縄の言葉で「ムンチュー」と呼ばれる「父系の直系血族」が承継してゆく墓で、小さな家ぐらいの規模は当たり前。中には数千人が眠る墓古墳のように大きい墓まであるのが沖縄の門中墓だ。


3つ目の理由は、雨季や台風に備えるため。台風というと、大変なイメージがあるが、実は沖縄の美しい海や豊かな大地にとって、激しい雨風は欠かせない。台風がちゃんと上陸しないと海水の温度が上がり、サンゴが死滅してしまうのだ。


そう、沖縄の人々にとって台風は当たり前のことであり、必要なことであり、それゆえにお墓も、激しい雨風で倒れたり、傷んだりしないように、広く大きな屋根を備えた、頑丈なお墓が建てられたのだった。


そして何より沖縄のお墓で特徴的なのが、お墓参りだ。毎年4月になると、沖縄の人々はお墓の前に親族が集まって、パーティーを開く。シーミー祭(清明祭)と呼ばれるこの風習は、親族が祖先のお墓参りに行き、食事をしながら親睦を深める沖縄の伝統行事だ。


■お墓参りは当たり前にある「恒例行事」


沖縄の人々は、このシーミー祭をとても大切に、楽しみにしている。


全国各地から一族が集まって、お墓の前でブルーシートを広げ、その上に大きな弁当箱を広げて、ビール片手にバーベキューまで楽しむ。


シーミー祭を見ていると、お墓参りが大変だとか、面倒だとか、費用がかかるとか、遠くから子どもに負担をかけて可哀想だとか、そんなことを考える人はいない。お墓参りが恒例行事であり、それが当たり前であり、ご先祖様へのお墓参りとそこに集まった親族との交流を楽しんでいるのだ。


初めてシーミー祭に参加させてもらった時、集まった家族との会話で「おばあ」が口にした言葉がある。「なんくるないさ〜(何とかなるさ〜)」という、沖縄の方言だ。「おばあ」のその言い方、表情、たたずまいは、その場に居合わせたすべての親族の心に、えも言われぬ「安心」をもたらす絶大な力を持っていた。


琉球王国の時代から、迫害や戦争、台風など、厳しい時代を柔軟に生きてきた先祖伝来の「生きざま」「智慧」がこの「なんくるないさ」に込められ、お墓の前で若い世代に受け継がれているのだ。


■仏教を離れてみて分かった仏教の価値


私は今、愛知県小牧市で540年続く「福厳寺」という禅寺の住職を務めている。禅寺に育った私は3歳で経本を持たされ、5歳で法要に連れていかれた。


思春期には厳しい師匠、堅苦しい伝統やしきたりを嫌って、「僧侶だけにはなるまい」と心に決めていた。


しかし、周囲の説得もあって本山に修行にも行き、大学や大学院でも仏教を学んだ。それでも僧侶として生きる決意がつかず、お寺を離れて起業した。


事業を育てるうちに「すべては人だ」と気づいた。会社が成長するためには人が成長しなければならない。ところが人が育つのは簡単ではない。知識は教えられる、技術も教えられる。けれどもやっぱり「人間性」は教えられない。「人格」は会社では育てきれない。


私は、社員以前に「自分」が成長する必要があると思った。そこであらためて、仏教に指南を求めた。


なぜ「仏教」なのかといえば、仏教の歴史は、人材育成とイノベーションの歴史に他ならないからだ。


■お墓を大切に思うことは世界共通


お釈迦さま亡き後、その弟子が人々から慕われなかったならば、その弟子の弟子が尊敬されなかったならば、今の私たちに仏教は伝わっていないはずだ。


しかも仏教2600年の歴史は、キリスト教よりもイスラム教よりも古い。時代の変化、環境の変化、人々の価値観の変化を超え、伝導先の国々や民族の文化の影響を受けながらも、人々の心を支えてきた。


そこに気づいた私は、当時関わっていたすべての事業を離れ、ヨーロッパや中央アジア、そして仏教の故郷であるインドから日本までの仏教伝導ルートを3年かけて旅をし、現代社会における僧侶の「ありよう」と、お寺の価値、機能を問い続けた。


日本に戻って住職となり、「お墓」について感じていることが2つある。


一つは、世界のどこに行っても、お墓を大切に思っている人たちがいるということ。


彼らにとってお墓は、決して「負担」ではない。「無駄な出費」がかかる「面倒」なお荷物ではない。


写真=iStock.com/TATSUSHI TAKADA
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/TATSUSHI TAKADA

■「遺族が先祖を守る場所」ではない


なぜならお墓は、「遺族が先祖を守っている場所」ではなく、「先祖が遺族を守っている場所」であり、「先祖とつながる場所」だからだ。


「人間」という漢字は、「人の間」と書く。人は人から生まれ、人に育てられ、人と関係しながら生き、死んでいく。そして死んだら全てが終わりかといえば、そうではない。


死んで無くなるのは肉体であって、故人の生き様や精神ではない。


故人の遺した精神や生き様は、もしそれが善きものであるならば、もしそれを善きものと捉える感性が残された者たちにあるならば、時を超えて後世に生きる者たちの心や体に受け継がれてゆく。


例えば、あなたがピアノで「エリーゼのために」を弾くとき、250年前に生きたベートーヴェンと繋がっている。


例えば、あなたが武道の「型」を稽古するとき、あなたは「型」を通して、50年、100年前に同じ型を稽古した達人たちと繋がっている。


あなたが春に彼女と見にいく満開の夜桜は、100年前の先祖が植えた桜であり、その道中にかかる橋は200年前の先祖が架けたものだ。


あなたのその丸い鼻やとがった耳は、あなたのお爺さんやお婆さん、お会いしたこともないご先祖様と繋がっている。


■「故人の生き様」と「遺族のありよう」


私たちの心も、体も、生活も、人生も、社会も、気づいていないだけで、見えていないだけで、どこかで私たちのご先祖さまと繋がっている。


それを思い起こさせてくれる場所がお墓だ。


私はこれまで僧侶として、3000人以上の最期を見送り、遺族と関わってきた。その上で改めて思うことは、供養やお墓は「故人」と「故人の没後」の話ではないということ。


供養は最終的には遺族の判断によって、遺族が行うものだ。


戒名をどうするか、葬儀をどのように行うか、お墓は墓石にするか、納骨堂にするか、樹木葬にするか、山海への散骨にするか、そもそも、そんなものは必要ないと思うのか——。


いずれにせよ、供養が遺族によってどのように行われるかに「故人の生き様」と「遺族のありよう」が表れる。


故人が「どう生きたか」、そして「遺族がどう生きているのか」が、「墓」の行方を左右する。


■「墓をどうするか」の前に考えるべきこと


ちなみに、今の散骨ブームの火付け役の一人でもあり、「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言した故石原慎太郎さんの遺骨は、本人の希望通り海に散骨されたが、その亡骸は家族葬で送られ、僧侶によって「海陽院文政慎栄居士」という戒名を授けられ、先祖が眠る菩提寺の墓に納められ、遺族によって守られている。


そして彼の著作や発言、政治家としての生き様は、今なお日本人の心を鼓舞し、守ってくれている。


供養や墓は、人間の「死」ではなく「生」を現している。


最も大切なこと、それは「墓をどうするか」を考える前に、「私の先祖はどう生きたのか」「親はどう生きたのか」、そして「私はどう生きるのか」だ。


「いつ死ぬか」「死後どうなるか」など誰にも分からないのだから。


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大愚 元勝(たいぐ・げんしょう)
佛心宗大叢山福厳寺住職、(株)慈光グループ代表
空手家、セラピスト、社長、作家など複数の顔を持ち「僧にあらず俗にあらず」を体現する異色の僧侶。僧名は大愚(大バカ者=何にもとらわれない自由な境地に達した者の意)。YouTube「大愚和尚の一問一答」はチャンネル登録者数57万人、1.3億回再生された超人気番組。著書に『苦しみの手放し方』(ダイヤモンド社)、『最後にあなたを救う禅語』(扶桑社)、『思いを手放すことば』(KADOKAWA)、『自分という壁』(アスコム)、『愚恋に説法: 恋の病に効く30の処方箋』(小学館)などがある。
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(佛心宗大叢山福厳寺住職、(株)慈光グループ代表 大愚 元勝)

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