なぜ東京タワーは「世界一高い電波塔」となったのか…333mという異形の高さを実現した田中角栄のひと言

2024年3月20日(水)13時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/NanoStockk

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なぜ東京タワーの高さは333メートルなのか、なぜ塔の色はオレンジと白の2色なのか。東洋大学の大澤昭彦准教授の新著『正力ドームvs.NHKタワー』(新潮選書)より、一部を紹介する——。(第1回/全2回)
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■当初案では煙突のようなタワーだった


会社の設立と土地の取得に続いて塔の設計が行われた。設計は日建設計工務(現日建設計)が担い、構造設計については塔博士、内藤多仲が手掛けた。東京タワーは鉄骨造であるが、当初、内藤は鉄筋コンクリート造での建設を検討していた。


日本電波塔が発足する前年、ドイツのシュツットガルトの丘陵地に、高さ約213メートル(現在217メートル)のテレビ塔が完成した。この塔の構造が鉄筋コンクリートだった。


設計者で土木エンジニアのフリッツ・レオンハルトは塔の設計にあたって煙突からヒントを得ていた。「構造物は美しくなければならない」との信念を持っていたレオンハルトだったが、「煙突」と「美」は相反するように思える。


レオンハルトは、エッフェル塔のような末広がりの鉄塔は風景を阻害しているのではないかとの疑問を持っていた。むしろ煙突のようにまっすぐ空に伸びるスレンダーな塔の方が美観に資すると考えたのである。


シュツットガルトのテレビ塔を皮切りにヨーロッパでは鉄筋コンクリート造の電波塔が普及し、タワーの新潮流となりつつあった。


■福島県にあった東洋一のタワー


鉄筋コンクリート造のタワーは日本にも先例があった。それが福島県原町につくられた原町無線塔だ(正式名称は逓信省磐城無線電信局原町送信所主塔)。


無線送信を目的として逓信省の設計で1920(大正9)年9月30日に完成した(送信開始は翌年三月)。高さ201.16メートル、直径は頂部が1.81メートル、基部が17.7メートルの細長い塔であった。その高さは、自立式の建造物としては東洋一といわれた。


1923(大正12)年9月の関東大震災時には、この無線塔からアメリカへ打電され、アメリカによる迅速な救済支援につながった。


内藤は、戦前に愛宕山のNHKラジオ塔を設計する際に原町無線塔を参考にしていた。当時、風力の影響については十分な研究蓄積がなかったことから、日本一の自立式タワーであった原町無線塔のデータを用いたのである。


だが、新しいテレビ塔は原町無線塔よりも100メートル以上も高い。また、日本では地震と台風の揺れを考慮しなければならない。検討の結果、鉄筋コンクリート造は重くなりすぎることや地震に耐えうる基礎の設計が困難であるとして断念。結局、鉄骨造で建設されることになった。


■なぜ333メートルなのか


構造が決まると今度は高さが検討された。関東全域に電波を届けるためには塔の高さを300メートル以上にしなければならない。そこに六局分のアンテナを載せると380メートルになる。しかし、強風時のアンテナの揺れ角度の制限等から320メートルくらいに下げざるを得なくなった。


地上風速60メートル/秒、頂部で90メートル/秒の風に耐えうる設計が行われた。着工当時の高さは、塔体260メートルの上にアンテナ部分61.66メートルを加えた321.66メートルだった。


ところが、各局の要望を取り入れようとすると、アンテナが62メートル内に収まらないことがわかり、約80メートルに伸びた。そこで塔体の頂部を一部切除して高さを調整し、塔体253メートルにアンテナ部分80メートルを加えた333メートルに落ち着いた。


前田久吉は、東京タワーの高さが333メートルである理由として、「どうせつくるなら世界一を……。エッフェル塔をしのぐものでなければ意味がない」と記したが、実のところ世界一の高さを目指したためではなく、技術的な要請によるものだった。


写真=iStock.com/duncan1890
1889年のパリ万博博覧会にあわせて作られたエッフェル塔 - 写真=iStock.com/duncan1890

このアンテナ部分の高さ変更の裏には、各テレビ局と日本電波塔の間でアンテナの位置を巡る激しい鍔迫り合いもあった。


■NHKからの物言い


アンテナの位置が高いほど電波は遠くに飛ぶ。各局にとってアンテナの設置場所は死活問題だった。通常、周波数が大きいものを高い場所に設置するため、日本電波塔は、上から順に10チャンネル(日本教育テレビ・NET)、8チャンネル(富士テレビジョン)、6チャンネル(ラジオ東京テレビ)、4チャンネル(日本テレビ)、3チャンネル(NHK総合)、1チャンネル(NHK教育)にすることを考えていた。


この案に最下段となったNHKが反発した。電波を関東一円に届けることは公共放送の義務であるとして、最上部を要求したのである。日本電波塔の松尾三郎はNHKの永田清会長に面会し説得を試みたが、永田は「一番トップに持っていくなら乗ってやろう」と頑なな姿勢を見せた。


NHKをはじめとする既設局はまだ送信所の移転を決定していたわけではなかった。日本電波塔としてもNHKに利用してもらえなければ、総合と教育の2局分の利用料が手元に入らない。これだけは避けたかった。


苦肉の策で、最上部に1チャンネルと3チャンネルが共用するスーパーターンスタイルアンテナを置き、以下、10、8、6、4チャンネルの順でスーパーゲインアンテナを設置する案をつくり、各社の同意を得ることができた。最終的にNHKが、最も条件の良い最上部を確保することになった。


田中角栄と東京タワーの意外な関係


これで建設は順調に進むと思われたが、予期せぬところで横槍が入った。東京都が建築基準法に抵触するとして手続きを止めたのである。


NHK、日本テレビ、ラジオ東京のテレビ塔と異なり、新電波塔には屋根や壁を持つ展望台とアンテナ整備用の作業台(1967年に特別展望台に改修)が計画されていた。それゆえ、東京都は「工作物」ではなく「建築物」とみなしたのである。


当時、建築基準法では、建築物の高さは最大でも31メートルに規制されていた。渋谷の東急会館(東急百貨店東横店西館)と東急文化会館(五島プラネタリウム)はいずれも43メートルの高さだったが、これは例外措置を用いたものだった。


東京都は例外許可の運用が厳格なことで知られていた。それは、都の建築審査会会長の内田祥三東京大学名誉教授の方針が影響していた。内田は31メートルの高さ制限(当初は100尺)の制定に関わった一人であり、周辺環境に悪影響を及ぼす高層建築物をいたずらに認めるべきではないと常々主張していた。


当時、例外許可を受けてもせいぜい45メートルが上限と考えられていたが、タワーの展望台の高さは地上125メートル、作業台は約223メートルで基準を大幅に超過していた。


しかも敷地は都市計画公園と風致地区の区域内だった。内田が例外許可に同意することは考えにくかった。そこに、当時郵政大臣だった田中角栄が登場する。


■田中に入れ知恵をした国会議員


田中は、1957(昭和32)年7月に39歳で史上最年少大臣に就任。その数日後、郵政官僚の浅野賢澄官房文書課長から、新電波塔の工事が滞っている旨の説明を受け、解決に乗り出す。


第64代内閣総理大臣 田中角榮(写真=内閣府首相官邸ホームページ

自ら建設業を営み、議員になってから建築基準法の制定に大きく関与していた田中は、タワーを建築物ではなく工作物と解釈すべきであると石破二朗建設次官に進言。


これに建設省や東京都も納得し、工事が再開されることになる。田中角栄は自らの手柄としたが、その判断の裏には、自民党参議院議員の石井桂の助言があったと考えられる。


石井は東京帝国大学で建築を学び、戦前は警視庁で建築行政に従事、戦後、東京都の建築課長、初代建築局長を経て、国会議員に転身していた(なお永田町にある自民党本部〔自由民主会館〕の設計者は石井である)。


石井と田中の出会いは、田中が中央工学校で建築を学んでいた学生時代に遡る。非常勤で教鞭を執っていた石井は、若き日の田中に建築を教えていた。建築の基礎を学んだ田中は、その後、田中土建工業を興すことになる。石井は田中の恩師だった。石井の子供全員の仲人を田中が務める等、二人は公私にわたり親交があった。


石井は日本電波塔株式会社の依頼で技術顧問に就任し、この問題の解決にあたっていた。建築法規を熟知し、長年建築行政に携わってきた経験から、タワーのような構造物を通常のビルと同等に扱うことに疑問を抱いていた。


建築物ではなく工作物とみなすべきとの解釈を旧知の田中にアドバイスし、石井を慕う田中が建設省を説得、東京都の法解釈の変更につながったのだろう。都市計画公園かつ風致地区域内での建設には都の許可も必要だったが、いわば「国策プロジェクト」でもあったことから建設が認められた。


■タワーの色が白とオレンジなワケ


工事中には、別のトラブルにも見舞われた。1958(昭和33)年春、国際航空運送協会(IATA)が東京タワーの高さに疑義を唱えたのである。


東京で開催されていたIATAの太平洋・アジア地区技術会議(航空会社11社55名。3月17日から4月1日開催)が、航空安全上の問題があるとして、塔の高さを66メートル低くするよう、運輸省航空局と気象庁に申し入れを行った。



大澤昭彦『正力ドームvs.NHKタワー』(新潮選書)

羽田空港では、1959(昭和34)年秋から1960(昭和35)年末にかけて、パン・アメリカン航空、スカンジナビア航空、日本航空等の各社がジェット機の運航を予定しており、離陸時の支障になるとの主張であった。


通常のルートであれば影響はないが、離陸直後にエンジンが一つでも故障すると、浮力が落ちて急遽飛行方向を変更しなければならず、タワーに衝突する恐れがあった。IATAは、高さを削ることができないのであれば、法規で定めるよりも明るい航空障害灯の設置等を要望した。


法律上、60ワットの航空障害灯を取り付ければよかったが、要望を受けて、東京タワーでは1キロワットが6つ、75ワットが6つ、頂部には500ワットのライトが設置されることになった。


また、航空安全の観点から白と橙(インターナショナルオレンジ)で塗り分けることも要望された。日本電波塔側は、太陽の輻射熱の影響をできるだけ避けるため全体を銀白色に塗る計画だった(図は一九五七年八月時点のイメージ)。


塗り分けについては法律上の規定がなかったものの、自主的に白と橙に塗り分けられることになった。その後、1960(昭和35)年に航空法が改正され、高さ60メートル以上の建造物をつくる際には、航空障害灯に加えて色の塗り分けが義務化されることになる。


1958(昭和33)年10月9日、公募によって愛称が「東京タワー」に決定し(審査委員長徳川夢声)、同月14日にアンテナ取り付けが完了、12月23日に竣工(しゅんこう)した。


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大澤 昭彦(おおさわ・あきひこ)
東洋大学理工学部准教授
1974年、茨城県生まれ。東京工業大学大学院社会理工学研究科社会工学専攻博士課程修了。博士(工学)。財団法人土地総合研究所研究員、東京工業大学助教等を経て、2024年2月現在、東洋大学理工学部建築学科准教授。専門は都市計画、建築・都市計画法制史。著書に『高層建築物の世界史』(講談社現代新書)、『高さ制限とまちづくり』(学芸出版社)、訳書にザック・スコット『SCRAPERS 世界の高層建築』(イカロス出版)がある。©新潮社
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(東洋大学理工学部准教授 大澤 昭彦)

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