10代で殺人を犯し、計4回服役した…56歳の元受刑者が「人間って不公平なもんだよ」と漏らしたワケ

2025年3月23日(日)18時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SAND555

刑務所や少年院を出た後、再び罪を犯して塀の中へ戻る人は珍しくない。なぜ彼らは犯罪を繰り返してしまうのか。作家・山本譲司さんが上梓したノンフィクション『出獄記』(ポプラ社)より、一部を紹介する——。(第2回/全3回)
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■「死んだあいつのほうが悪い」と思い続けた


「あのさ、山本さん、俺よー、人殺しちゃってんだけどな、ムショの中でもさ、『死んだあいつのほうが悪い』って、ずっと思い続けてたんだ。それから、共犯者のことも、恨み続けてたね」


最初の頃は、その人から、よくそんな話を聞かされたものだった。


その人の名前は、平沼隆康(仮名)さん。初めて会ったのが2007年の12月で、彼が56歳の時である。行く当てがないので助けてほしいという。


彼の支援を要請してきたのは、北関東のある都市に住む83歳の男性だった。42歳から保護司を務め、78歳まで続けた。


近藤(仮名)さんというその元保護司と、私とのつき合いは、拙著『累犯障害者』を通して始まった。近藤さんは、出版から間もない頃に、本の感想を、手紙にして送ってくれたのである。感想だけではなく、〈自分が担当した出所者のなかにも、知的障害者や聴覚障害者がいました〉との記述があった。


■満期出所した後、元保護司と二人暮らし


早速私は、近藤さんと連絡を取り、何人かの出所者について話を聞く。黒羽刑務所の第一寮内工場にいた人も、担当していたのではないか。そう考えたのだが、残念ながら、私が名前を出した人は、誰も知らないという。


近藤さんは現在、断酒関係の自助グループの顧問も務めているそうだ。


近藤さんと私は、その後、保護司会の集会などで顔を合わせるようになる。手紙のやり取りも、何度かした。けれども、自宅を訪ねるのは、それが初めてだった。ずいぶん古い家らしく、壁の一部が剥げ落ち、柱も朽ちている部分がある。


夫人は、5年前に他界。今は、ある人物との二人暮らしだ。


奥の部屋から、のそのそと出てきたその人物が、同居人の平沼さんだった。彼は、半年前に刑務所を満期出所し、以来、この家に間借りをして住んでいるのだそうだ。


■「元受刑者」の間に芽生える仲間意識


だが、もうすぐこの家は、取り壊されるらしい。近藤さんは、2カ月後から、東京に住む息子夫婦の世話になるという。


「まさか息子のところに、平沼さんも連れて行くわけにはいきませんからね。なんとか次に住む家を探してたんですが、山本さんが、当てがあるとおっしゃるんで、きょうはわざわざご足労いただいて、本人と会ってもらうことにしたんです」


私は、近藤さんの言葉に頷き、それから、平沼さんに声をかけた。


「はじめまして、山本譲司と申します」


挨拶をしても、彼は目を合わせてこない。


「私、平沼さんと同じく、元受刑者なんです」


彼の顔がこちらを向いた。見る間に、表情が緩んでいく。


元受刑者に対して、こちらも「元受刑者」と名乗る。それは、魔法の言葉のようでもあった。


お互い「臭い飯」を喰ったという仲間意識が、一気に芽生える。


「へぇー、そうかい。けど、あんた、元受刑者には、あんまし見えねぇーな」
「まあ、平沼さんみたいに、年季が入っていないもんですからね」


そんなやり取りから、二人の会話が始まった。


■少年院に入り「継父の顔を見なくてすむ」


平沼さんの生い立ちについては、近藤さんから、詳細に教えられていた。


そうした予備知識をもとに、平沼さんとの話を進めていく。近藤さんには、「平沼さんの人となりについて知ってほしいんです」と言われていた。


彼は、1951年生まれ。私より11歳年上だった。北関東の地で、二人兄弟の弟として誕生する。3歳の時に、父親が亡くなり、母子家庭となった。5歳の時に、新しい父親ができる。兄弟二人は、その継父から、日常的に暴力を受けていたという。それでも兄のほうは、真面目に育ったが、彼は、次第に学校にも行かなくなる。


不良グループのメンバーになったのは、中学生になってすぐだった。13歳の頃からは、万引きや窃盗、空き巣などを繰り返すようになり、計7回補導される。その7回目で、ついに彼は、初等少年院送りとなった。


「母親が連れてきた男の顔を見なくてよくなったんで、それだけでもオッケーだったな」


平沼さんは、指でOKの形をつくった。


■人の命を奪った少年4人の分かれ道


16歳で仮退院後、彼は、担当保護司に指導を受けながら、3カ月の保護観察期間を過ごす。同時期に、保護司に紹介された建設会社で、現場作業員として働き始める。だが、悪い仲間との関係は切れなかった。だんだんと出勤回数も減ってきて、18歳で完全に仕事から離れる。そんななか、グループの仲間が、暴走族のメンバーから襲われたことを知る。


「グループのリーダーが、仕返しの計画を練ったんだ。俺も含めてみんな、リーダーの言うことを聞かないわけにはいかないしさ」


グループメンバーは、ただちに実行に移す。ところがだ。予期せぬことが起きる。見境のつかない暴行で、相手を死なせてしまったのだ。


「確かに俺も、鉄パイプで殴っちゃったしな。やり過ぎたよ」


グループの四人が、「殺人罪」と「傷害罪」で逮捕された。


写真=iStock.com/Huseyin Bostanci
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Huseyin Bostanci

四人に対する家庭裁判所の決定は、それぞれ違った。一番罪が重いはずのリーダー格の男を含め、三人の少年が、少年院送致となる。その一方で、平沼隆康少年のみが、検察へと逆送された。揉み合いの最中に、「ぶっ殺せ」と発言したことが、故意の殺人ととらえられたようだ。


三人と彼との違いは、ほかにもあった。ひとつは、彼だけが、少年院経験者であったこと。そして、ふたつ目は、それぞれの親の対応の違いだ。リーダー格の男の親が、賠償金の支払いをしたのに対し、彼の両親は、家裁調査官に会うことさえ拒んでいたのだ。この違いも、かなりの影響を与えたのではないかと思われる。


「人間って、不公平なもんだよ。どんな親から生まれるかで、運命が決まっちゃうんだからな」


■入退院を繰り返す母、絶縁を迫った兄


被告人となった彼は、「殺人罪」により、懲役5年以上8年以下の不定期刑を言い渡された。収監されたのは、東日本にある少年刑務所だ。服役中は、少年院よりも居心地が良かったという。腕っぷしが強かった彼は、3年もすれば、工場内の受刑者のほとんどを従えるようになる。


その一方で、不安なこともあった。仮釈放に向けての身元引受人がなかなか定まらないのだ。更生保護施設は、懲罰の多い彼を、引き受けようとはしない。


彼が服役中、母親と継父は、すでに離婚していた。その後、病気がちになった母親は、入退院を繰り返している。とても母親には、身元引受人など依頼できない。代わりにと考えていた兄だが、身元引受人になることを、にべもなく断ってきた。


それだけではない。〈もうお前とは、関わりを持ちたくない〉との手紙を寄越し、絶縁を迫ってきたのである。身元引受人になってもらうのは、諦めるしかなかった。


「俺さ、縁は切られないようにって、ムショから丁寧な手紙を書いたんだ」


だが、兄からの返事は、ついぞなかった。


■いい仕事が見つかり、生活も安定したが…


27歳で刑期満了を迎えたが、その直前に母親が亡くなっている。


「叔母さんが手紙で知らせてくれたんだけど、そしたら、雑居から独居に3日間だけ移らせてもらってさ、俺、その間、夜はずっと泣き続けてたよ」


出所後は、その足で知り合いのもとを訪ねた。知り合いといっても、少年刑務所の工場で一緒になった先輩受刑者だ。顔が広い人らしく、就職先を探してもらおうと思ったのである。


仕事は、存外に早く見つかる。東京都内の金属加工工場での旋盤工だった。刑務所内で3年間、刑務作業として従事した仕事でもある。工場の経営者は、さばさばとした性格の人のようであり、彼の前科など、まったく気にしていない様子だった。


仕事の内容も職場環境も、申し分ない。仕事に慣れて、安定した生活を送れるようになったら、兄に連絡を取ろうと考えていた。


働きだして9カ月目、職場で事件が起きる。部品の仕入れのために用意していた現金200万円が紛失したのである。それが発覚した直後からだった。疑いの目が、彼に向けられるようになる。明らかに、すべての従業員から避けられていた。誰も口を利いてくれない。前科があることを知っているのは社長だけだったはずだが、どういうわけか。


■前科者は「人から信じてもらえねえんだ」


警察の捜査が始まると、彼一人が別室に呼ばれたりもした。それは、事情聴取などというものではない。はじめから、尋問口調の取り調べだった。


「前科者は、いっつもそうだよな。人から信じてもらえねえんだ。でも、結局、俺は悪くなかった」


1週間もせずに、真相が判明した。事務職社員の勘違いで、すでに現金は別の部品購入に充てられていたのだった。そこで、あっさりと騒動は終了する。しかし、それ以降も、従業員たちの態度は変わらない。腫れ物に触るような接し方だった。日ごと、職場に居づらくなっていく。


そんな折、暑気払いを兼ねた懇親会が開かれることになる。彼は、一旦は参加を断った。だが、社長からの強い誘いもあり、少し遅れたものの、会場となる料理屋を訪れる。店内に入った時だった。奥の広間から、みんなの声が聞こえてくる。


「あいつら、みんなで俺のこと馬鹿にしてたんだ。『刑務所上がりは暗い』とか、『まわりが気を遣う』とか。まあ要するに、社長が全部ばらしてたんだな。その社長なんだけど、笑いながら、こんなこと言ってやがった。『平沼君の前で、網走番外地でも唄ってやろうか』だってよ」


そのまま店の外に駆け出し、もう工場に戻ることはなかった。


■アルコールによる犯罪を3回も繰り返す


それからは、まともな仕事に就かず、その日暮らしの毎日を送る。日払いで得た肉体労働の対価は、アルコールに消えていった。


写真=iStock.com/axelbueckert
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2回目の服役は、32歳の時だった。酔いつぶれて他人の敷地内で寝込んでしまい、「住居侵入罪」、および、見つかった時に家主の手を振り払ったということで、「暴行罪」も加わった。3回目の服役は、「詐欺罪」である。酔っ払って酒代を払い忘れたという、無銭飲食だった。そして4回目は、カップ酒一本を盗んだ「窃盗罪」だ。


4回目の服役中、初めて「酒害教育」なるものを受けた。それにより、近藤さんとつながることができたのである。


満期で出所した時には、もう50歳を過ぎていた。


■「断酒する」とは言わなかった理由


私は、平沼さんに尋ねる。住まいと仕事を紹介するうえで、確認しておかなければならないことがあったのだ。


「受け入れてくれるかもしれないところなんですが、そこは、もちろん禁酒です。その点、大丈夫ですか。まあ、平沼さんは、もう半年も、いや、その前の服役中もですから、合計3年半近く、アルコールを断ってるんですもんね。大丈夫ですよね」


「いや、ムショにいる時のことは、カウントしちゃいけないよ。まあ正味、5カ月半だな。俺な、一生断酒しようなんて思わないようにしてんだ。思っただけで、プレッシャーかかって、俺みたいに意志の弱いやつは、すぐにこけちゃう。だから、きょう一日だけは、飲むのはよそうって、それくらいの目標でいいんじゃないかと思う。その一日一日の積み重ねで、振り返ったら1カ月断酒してた、2カ月断酒してたって、そんなふうな気持ちでいたほうが長続きするって思うんだ」


絶対に断酒します、と言われるよりも、ずっといい。彼は、自分の気持ちを正直に語ってくれる人なのだろう。それに、断酒の方法としても、そのほうが正しいと思う。


「分かりました、平沼さん。明日には、そのビルメンテナンス会社に住み込みで働けるかどうか、はっきりすると思います」


受け入れ先として、私の念頭にあるのは、大学の頃からの友人が経営する会社だ。


■信頼できる友人の元に託すことに


友人の名前は、福浦裕太郎(仮名)という。大学時代、日雇い労働者やホームレスの支援活動に、ともに取り組んだ仲だ。私が議員になったあとは、あまり連絡がこなくなる。というのも、彼は、ビルメンテナンス会社を立ち上げていて、役所とも仕事をしていたのだった。だから、議員とはつき合わないほうがいい、と話す。


議員を通じて、仕事にありつこうとする業者はたくさんいた。彼の場合、それとは、真逆なのである。信頼できる友人だと思った。


福浦から久しぶりに連絡があったのは、2005年の7月、私の出所後のことだった。


「この前、新聞のインタビュー記事、読ませてもらったよ。頑張ってるみたいだね。俺にも、なんか手伝えることがあるかもしれないんで、なんでも言ってきてよ」


即座に依頼したのが、出所者の引き受けである。


人手不足でもあるらしく、翌日には、話がまとまった。それ以来、3人の出所者を雇用してもらっていた。全員が、社員寮に入っている。


平沼さんのことも、きっと受け入れてくれるはずだ。


そう思い、私は、福浦のビルメンテナンス会社の所在地を、平沼さんに伝える。


彼は、少し暗い顔になる。


「どうしました、平沼さん。何か不都合でもあります?」
「まあ、あんまり考えても仕方ないんだけどな……」


彼の顔に笑みが浮かぶ。つくり笑いのようでもあった。


■リーダーは出所後、税理士になっていた


平沼さんは、問わず語りに話しだす。


「その会社があるあたりには、18歳ん時に一緒に捕まった、あの男がいるんだよな。グループのリーダーだったやつさ。あいつ、俺と同じで、勉強なんて全然できなかったんだけどさ。少年院で目覚めたのか、退院してからすぐ、定時制の高校に通いだしたんだ。それから大学まで出て、今は税理士やってるらしい。風の噂じゃ、結構稼いでるみたいだ」



山本譲司『出獄記』(ポプラ社)

「その人がいる具体的な場所は、ご存じなんですか」


彼が、首を左右に振った。


「だから、風の噂なんだよ。具体的な場所なんて知りもしねえし、知りたいとも思わねえよ。まあ、人の人生と自分の人生を比べてみたって、どうしようもないからな」


続けて平沼さんは、何かを吹っ切るように声を張り上げた。


「俺は俺で、頑張るぞー。まだまだ俺だって、希望はあんだー」


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山本 譲司(やまもと・じょうじ)
作家、元衆議院議員
1962年、北海道生まれ。佐賀県育ち。早稲田大学卒。菅直人代議士の公設秘書、都議会議員2期を経て、1996年に衆議院議員に当選。2000年に秘書給与詐取事件を起こし、一審での実刑判決を受け服役。出所後、433日に及んだ獄中での生活を描いた『獄窓記』(ポプラ社)が「新潮ドキュメント賞」を受賞。障害者福祉施設で働くかたわら、『続獄窓記』『累犯障害者』『刑務所しか居場所がない人たち』などを著し、罪に問われた障害者の問題を社会に提起。現在も、高齢受刑者や障害のある受刑者の社会復帰支援に取り組む。小説作品として『覚醒』(上下巻)『螺旋階段』『エンディングノート』がある。
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(作家、元衆議院議員 山本 譲司)

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